3.トラブルから逃げるには事情はちょっと複雑で
どの季節でも美しいが、六月のパリは格別だと思う。
初夏の瑞々しい陽光を浴びながら、人々は外出する。シャンゼリゼ大通りのマロニエの木陰では、家族連れやカップルが談笑する風景がそこかしこに見られる。
爽やかで生命力に溢れ、自然と笑みがこぼれる季節だ。
そして、人々は楽しいことを考えるようになる。つまりバカンスのことを。
「今年の夏はどこかに行かれるのですか、ムッシュ?」
休憩時間にユタカに聞かれ、私はちょっと考えた。
別にこれといって予定はないが、日本にでも行ってみようかと思ったのだ。口に出してみる。
「......アラン君とカエデ君に会いにいくとか? いや、しかし日本は遠いな。やっぱり止めようか」
「ちょっ、もし行くなら案内しますよ? 俺も里帰りしようかなとか考えてましたし」
「ううん、行きたい気持ちはあるんだけどね。長時間飛行機に揺られるのは、好まないんだ。落ち着かなくてね」
「や、でも勿体ないですよ。今ならエールフランスの直行便ありますし、寝てれば一瞬ですって」
ユタカは熱心に誘ってくれるが、どうしたものか。
日本の菓子作りを、実際にこの目で見たい気持ちもある。
だが、飛行機はいまいち好きではないのも事実だ。
「考えておくよ」とだけ返答して、読んでいた新聞を畳んだ。
そろそろ休憩時間の終わりであり、仕事に戻りかけた時だ。
「ムッシュ! お客様です!」
「緊急の用件につき、失礼します。お名前は伺っております、ピレス・キャバイエ氏でいらっしゃいますね」
店の事務員に付き添われて、一人の男が入室してきた。
仕立ての良いダークスーツ姿は上品だが、このパティスリーには似つかわしくない。
眉をひそめ、男に向かい合う。嫌な予感がした。
「おっしゃる通り、ピレス・キャバイエは私です。緊急の用件とおっしゃられましたが、何ごとでしょうか。パティスリーの中は、私の大事な職場です。まさかご存じないということはありませんよね?」
私の鋭い口調にも、男は怯まなかった。銀縁眼鏡のブリッジを神経質に一度持ち上げる。
「もちろん承知の上です。名乗りもせず、失礼しました。私、ミシェル・ハインリッヒと申します。いや、私の名前などどうでもよろしいですね。レオン・ガートハルドの秘書と申し上げた方が、恐らく聞いていただけるかと思います」
「ガートハルド氏の?」
ミシェルと名乗った男の話は意外だった。予想もしない名前に、私は眉をしかめた。
パティシエ協会の会合で顔を合わせているので、まったく見知らぬ仲ではない。だが、親しい仲とはとても言えない。
ドイツ生まれながら、フランスのパティシエ界をリードするあの"帝王"が、一体何の用件だというのか。
彼の秘書が私を訪ねてくる理由など、まるで見当もつかなかった。
「はい。これはご内密にしていただきたいのですが、昨晩ガートハルドが倒れました」
「――な、に?」
「幸い命の危険はありません。不整脈の一種です。ですが、しばらくの入院を必要とすると医者に言われました」
部屋の空気が重くなる。
お気の毒にとしか言えない。
だが、何故わざわざ私にそれを告げにきたのか、最も重要な部分は一体何だ?
「それは大変でしたね。私からは一刻も早いご回復をとしか言いようがありません。ところで、ミシェルさん。それだけがご用件ではありませんよね」
「はい。むしろ本題はここからです。入院を余儀なくされたため、レオンの抱えているパティシエとしての仕事をどうにかしなくてはならなくなりました。ほとんどは彼の弟子が代行出来ますが、技量的に手に余るものもあります」
読めた。いやな予感が告げていたのは、このことだったらしい。
「どうぞ続けてください」と言いながらも、私はすでにその話の先を半ば見通している。
眼鏡のレンズ越しに、ミシェルが視線をぶつけてくる。
「レオンは一件のウェディングケーキの作成を依頼されておりました。ムッシュ・キャバイエもご存じかと思いますが、人気女優カトリーヌ・ドメーヌの結婚式のウェディングケーキです。三日後の土曜日に催されるため、時間がありません」
「なるほど、そういう事情か。私にそれを肩代わりしてほしいと。ユタカ、厨房に戻っておいてくれ。少し長引きそうだ」
驚いているユタカに指示を出す。
これ以上厨房を空けたくなかったのもあるが、自分の動揺を見せたくはない気持ちの方が大きい。
その意図を汲んだのか、ユタカは「はい、ムッシュ」とだけ答えてすぐに退室した。
見送りながら、私は自分の中に生まれた感情を噛み締める。
「幾つかお聞きしたいことがあります、ミシェルさん」
「何なりと」
「このご指名は、レオン氏ご自身がされたのですか? それとも、別の方が?」
「レオン自らです。つい二時間ほど前に意識を取り戻したのですが、開口一番にウェディングケーキをどうしようかと言い出しまして。しばし考えた結果、ムッシュ・キャバイエに依頼しようという結論になりました。これを」
ミシェルがスーツの懐から、封書を取り出す。
受け取る。今ミシェルから聞いた依頼の件が、記載されていた。
文末には、レオン・ガートハルドのサインがあった。文字の震え具合から、病床で必死でしたためたものだと分かる。
「......あの帝王がわざわざ」
心がざわめく。
このウェディングケーキの受注に乗り出したくらいだ。今さらカトリーヌに複雑な想いなどないと、自分では思っていた。
だが予想もつかない形での彼女への関わりが、私の心にさざ波を立てる。
運命とは時に気まぐれだな、と呟かざるを得ない。
レオン・ガートハルドの急病というアクシデントを楔にして、過去がゆっくりと現代と重なりあっていく。
「急な話です。お断りされても無理はありません」
いらぬ気遣いだ。答えはもう決まっている。
「断る理由はありませんね」
即答だった。
封書の空白にペンを走らせる。綴った文字は、私のサイン。つまりはレオン氏の依頼を受諾した証拠。
「これを。三日後の土曜日の結婚式ですね、お引き受けします。受注金額や支払い方法などは、事務員とご相談ください」
「助かります。ですが本当によろしいのですか。カトリーヌ嬢は確か――」
「そこまで。私個人の過去は置いておきましょう。この結婚式には、政財界の大物も出席すると聞いています。ウェディングケーキ無しで行うわけにもいかない」
「それは確かにおっしゃるとおりです」
「それに、レオン氏のご指名ということであれば、私としても心に期するものはある。退くわけにはいきません」
それは一言では説明出来ない感情だ。
レオン・ガートハルドの危機に、どうにか力になりたいという気持ちもある。
彼の代わりが出来るのは、自分だけだという自負もある。
人気女優の結婚式という華やかな舞台に、穴を空けるのはまずいだろうという懸念もある。
何より......心の底で僅かにくすぶっている思い出にけりをつけたいという意思がある。
それら全ての気持ちが組み合わさり、私の口を開かせた。
「帝王にお伝え願いたい。ピレス・キャバイエは確かにあなたのご指名を受諾した。ゆっくりご静養されたしと」
ミシェルにそう告げ、私は自分の頭の中のスケジュールを更新しつつ、どんなウェディングケーキにするかを考え始めていた。
時間はあまりない。それでもこの条件下で、出来うる限り最良のケーキを作ろう。
それが私のパティシエとしての誇りであり、彼女に対する誠意となるのだから。




