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それから馬車は牧場を離れ、次第に木々が茂る森へ向かって行った。
そして、森の奥へ進むにつれ、陽の光が遮られ、辺りが薄暗くなっていく。時刻は段々と夕方に近付き、ランプの明かりが無ければ周囲の色も分からないほどの、深い闇に包まれるようになった。
「ニース。このみち、あってる? まっくらよ?」
「湖は、この森を抜けた先にある。間違いないから、安心しなさい。陽が落ちるまでには、森を抜ける」
道に落ちていた枝が馬の足や車輪に踏まれてパキッと音を立てたり、遠くからホーホーという低い鳴き声が響いてきたり。
窓を開けても姿が見えず、されども耳に伝わる存在感に得体の知れない恐怖を感じ、ガッタは窓のカーテンを閉め、不安そうに身を縮め、隣に座るルナールに肩を寄せた。
「ねぇ、ルナール。おばけがうろうろしてること、ない?」
「大丈夫よ、ガッタちゃん。ニース様を信じましょう」
そう言いながら、ルナールは、ギュッと両目を閉じているガッタの黒髪を優しく撫でた。
夜が怖いのかと思ったが、暗い場所が苦手なのかもしれない。ガッタの無意識の中に、暗所に恐怖を抱くトラウマが隠されている可能性がありそうだ。ニースは、怯えた様子のガッタを観察しながら、冷静に考え直していた。
ザザッ、ザザッ、ザザッ。
森の道をひた走ること、しばし。ようやく、両端に立ち並ぶ木々がまばらになり、道の先から一筋のオレンジ色の光が差し込むようになってきた。
ニースはカーテンを開け、窓の向こうを指差しながらガッタに言う。
「ガッタ、あれを見てごらん」
「ふわっ! きれ~い」
ニースが指差した先には、漫々たる湖の一端が見えてきている。水面の小波には夕陽が反射し、七色の煌めきを放っている。湖の周囲は緩やかな丘陵地であり、斜面には大小様々な屋敷が、適度な距離感を保つようにして、点々と建っている。
ガッタは、先程までの恐怖をスッカリ忘れ、広く澄み渡った湖と、その畔の美観に釘付けになっている。
「ペンションを借りてあるから、ひと晩、泊まるよ」
「えっ? おはなは、どうするの?」
「ひとまず水切りをして、手頃な花瓶にでも活けておく。今日中に献花へ行っても、帰りが遅くなってしまうし、夜道を歩くのは危険だ」
「なぁんだ。また、あしたか」
ニースの説明を聞いたガッタは、少しだけガッカリしたようであった。ルナールは、そんなガッタの反応を見てクスッと小さく笑った。
そのあいだも馬車は夕暮れの道を進み、やがて、無骨な柱と漆喰のコントラストが美しい、木骨煉瓦造様式のペンションが見えてきた。




