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旧市街旅行から早三週間あまり。
冬場は控えめだった陽光も日に日に強まり、初夏の勢いを見せ始めている。それと同時に、日に日に昼の長さも伸び、夜明けを迎える時間も早まっている。
「んむぅ。もう、あさなの?」
窓のカーテンのわずかな隙間から一筋の光が差しており、タオルケットに包まっていたガッタは、片手で猫が顔を洗うような動きをしながら目元をこすりつつ、ベッドを降りてスリッパを履いた。
そして、窓辺に立ってカーテンを開けると、視界の端に大きな人影を見つけた。薄暗く、また距離があるので、誰が何を運んでいるのかまではハッキリしないが、大柄の人物が荷車を押している様子である。
「えんとつのおじさんと、またちがうみたい。だれだろう?」
ガッタは、パジャマからワンピースに着替え、スリッパも外靴に穿き替えてから、裏手へ向かった人影の謎を解くべく、通用口へ駆けて行った。
それと同じ頃、ニースは井戸で水を汲んでいた。
滑車からのびるロープを引いて釣瓶を上げては、バケツに水を移すという単調作業を終えたところで、ニースはロープを支柱のフックに巻き付けて留めておいてから、バケツの中を覗き込んだ。
水面の波紋が穏やかになってくると、バケツの水の底に小さな鍵が見えてきた。ウォード錠のようだが、ニースが持ち歩いている鍵束に括られている物とは違い、華やかな装飾や模様は無く、小振りでシンプルなデザインをしている。
ニースは、水の中に手を入れて鍵を取り出すと、ハンカチで滴る雫を拭ってから、日当たりの良い場所に移動し、細かな文字や記号が刻まれていないかと検めた。
「何に使う鍵だろうか」
抽斗かバッグか、それとも戸棚やドアの類か。ニースは、手にしている鍵の形状から様々な可能性を視野に入れて考察したが、どれ一つとってみても、腑に落ちない。
「それより、今は薔薇に水をやらねば」
ひとまず鍵の件は保留にすることにした様子で、ニースは鍵をスラックスのポケットにしまい、バケツを持ち上げようとした。
すると、そこへガッタが勢いよく走ってきた。
「ニース、ニース! おうまさんみたいなおねえさんがいたの!」
「朝から元気だね、ガッタ」
バケツを地面に置いたニースは、興奮冷めやらぬガッタの話に耳を傾け始めた。ガッタは、身振り手振りを交えながら、たった今目撃した光景を必死で伝えようとする。
「あのね。しっぽがあって、おみみがピンとたってて、あしがはんたいにまがってるの。かみのけも、すっごくながいのよ。それでね。おっきなしゃりんがふたつあるいたに、ピチピチのおさかなや、とれとれのおやさいをのせてたの」
「なるほど。それは、ケンタウロス属の御用聞きだね。冬場はカンテラを吊るして歩き、薄暗い内に帰ってしまうから、見たことなかったのだろう」
「ケンタロース?」
「ケンタウロス属。先祖返りの一種で、耳や尻尾だけでなく、腰から下全体の構造が馬のような状態で産まれてくる個体がいるのだよ。まだ人と獣と精霊の違いが大きかった遥か昔には多かった現象だが、混血が進んだ最近では稀なこととされている」
ニースが生物学的な解説をすると、ガッタは腕を組んで首を捻った。
「ん~。むずかしくて、よくわかんない」
「まぁ、体格的に足腰が常人より何倍も丈夫で、上体も筋肉質だから、マーケットから食糧品等を届けてもらうよう頼んでいるとだけ理解してくれれば、今は充分だろう」
「あっ、うん。すっごくムッキムキで、カッチカチだった!」
「触れてきたのかい。それは、貴重な経験をしたものだ」
「ニースは、さわったことないの?」
「無いね。相手は女性だし、会話を交わしたことも、仕事を任せた最初の頃だけだよ」
「えぇー、もったいない! なんで、なんで?」
その場でちょこまかとニースの周囲を動き回りながら、ガッタが理由を訊ねる。ニースは、なるべく納得できるよう、順を追って論理的に説明する。
「あくまで彼女には運搬を頼んでいるだけで、持ってきた荷物は、リストと一緒に通用口の屋根の下へ置いてもらってるし、月末の支払いはルナールに任せているから」
「ふぅん。でも、おはなしくらい、したらいいのに。もうかえっちゃったけど、おもしろいおねえさんだったよ?」
「そうか。話好きだとは、知らなかったな」
雇用主と労働者という関係でなく、同性であったなら、ガッタのようにフランクに話せるのかもしれない。ニースは、そんな仮定法の文例のような感想を胸にしまいつつ、再びバケツを持ち上げて温室へ向かった。
ガッタは、御用聞きの彼女とどんな話をしたのか聞かせつつ、ニースのあとに続いて歩いていく。




