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「ガッタ。このポーズでないと駄目かい?」
「あっ、ニース。うごいちゃダメだって。じっとして!」
「はいはい」
スケッチブックを渡されたガッタは、暖炉の前にニースを立たせると、片手でジャケットのボタンホール辺りを持ち、反対の手をマントルピースの上に置き、顔は、どこか斜め上を見ているかのように向けるという、よく紳士服のマネキンがとっているポーズをさせた。
ニースは、なるべく身体を動かさないようにしながらも、チラチラとガッタの方へ眼を動かし、コバルトは目か、スカーレットは口かと推察し、どんな絵が完成するのだろうかと、期待と不安が七対三の感情を覚えた。
そうして、待つこと三十分ほど。ニースが、ほのかに喉の渇きを感じ始めたタイミングで、ガッタは最後にバイオレットのパステルを木箱に戻し、完成を宣言した。
「でーきたっ! もう、うごいていいよ」
「フゥ。どんな絵が描けたか、見せてもらえるかな?」
「いいよ。ジャーン!」
ガッタがスケッチブックを反転させると、キュビスム的視点で描かれたような、独特な絵が完成していた。青い目、高い鼻、尖った耳、長い髪など、ニースの特徴を捉えていると言われれば、そう見えなくもないのだが、横顔に近いのに両目ともコバルトの円でクッキリ描かれていたり、腕と脚の長さがバラバラだったり、人物の周りにビリジアンの螺旋とバイオレットの花丸があったりと、大人が無解説で理解できる範疇を軽く凌駕した作品に仕上がっている。
ニースは、しげしげと観察し、スカーレットはベスト、イエローはシャツ、ブラウンはスラックスに該当するだろうかと見当を付けて行った上で、はみ出さんばかりに描かれたビリジアンとバイオレットの外枠を指差しながら訊ねた。
「ウム。……よく描けているよ。その上で質問なのだが、周りにあるコレは?」
「おんしつの、むらさきバラさん。きれいでしょ?」
「そうだね。そう言われてみれば、花弁の重なりや茨の絡まりを、よく表現できているように思う。何より、バイオレットで描いたところが、斬新だね。薔薇を描けと言われたら、一般的にはスカーレットを使う」
「バラは、あかいものなの?」
「そうとは限らない。だが、多くの大人は、薔薇と聞くと深紅の花を思い浮かべる」
「ふぅん」
ガッタの目には、温室の紫薔薇は、このように映っているのか。ニースが興味深そうに感心していると、ガッタは、木箱とスケッチブックをニースの身体に押し付けながら言った。
「こんどは、ニースがかいてよ」
「えっ、僕も描くのかい?」
「もちろん! かわいくかいてね」
ニースは、気が進まないながらも画材を受け取った。すると、ガッタは足を揃えてソファーに深く座り、肘掛けに両手を重ねて置きつつ、ニースに流し目を送った。
いったい、どこでそんなコケティッシュなポーズを覚えたのやら。ニースは、チャコールで薄く十字の線を描き、その上にアタリを付けていきながら、そんなことを思っていた。だが、主線が決まって色を乗せる段階になったとき、ふと、地下室にあったキャンバスの中に、近い構図の婦人画があったことを思い出し、ニースは密かに納得した。
そして、さきほどと同じく三十分ほどが経ったところで、ガッタはモゾモゾしはじめた。
「どうした、ガッタ? お手洗いかい?」
「ううん、ちがうの。ねぇ、ニース。いま、どのへん?」
「あとは、目鼻と手の細かい部分を修正すれば、完成するよ」
「じゃあ、あしをおろしてもいい? なんか、フォークをもつほうが、ビリビリしてきちゃって」
「姿勢が斜めになっているから、痺れたのだろう。楽にしなさい」
「うん。あぁ~、ジンジンして、じぶんのあしじゃないみたい」
ガッタは、ソファーの手前に移動して床に足を付けると、座ったまま左足を上げ下げしては、しばし不思議な感覚を楽しんだ。
このあと、ニースの絵を見たガッタは、そっくりに描けていると評しつつも、どこか物足りなさを感じているかのような表情をした。どうやら、ガッタにとって写実的過ぎる絵は、つまらなかったようである。




