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全豹一斑という言葉がある。ごくごく限られた一部の情報から、全体を非難したり批評したりすることを指し、見識の狭さを表すたとえである。
ニースは、ガッタのもたらす僅かなヒントから、これまで常識として蓄えてきた見解も加味し、ガッタの保護者像として、ひとつのイメージを思い浮かべていた。
だば、手が大きく、優しく、自分と同じような声であるということから、男性であろうと踏んだニースの判断は、大きく覆されることとなった。
「ごめんね、ママ。ママのこと、おもいだせなくて」
「いいのいいの、ガッタちゃん。この手のぬくもりと声だけでも、覚えていてくれたんだ。それだけで、ママは満足だよ」
大柄でアルトボイスの女性に抱きつき、ガッタは胸に顔を半分うずめて謝ると、女性はガッタの後ろ頭を撫でながら、優しく宥めた。この女性が、ミオが言っていたカリーネという女性であり、ガッタの母親であることは、ガッタの反応からも確実であると容易に推察できる。それというのも、ガッタはカリーネの姿を見た途端、目を丸くしてソファーからスッと立ち上がり、そのまま全速力でカリーネの胸へ飛び込んだからである。
「ガッタも、彼女のように逞しく育つのだろうか」
「彼女と同じように、気性の荒い海の殿方が多い港町で育てば、肝っ玉の大きな女性になるでしょうけど、乳母日傘で大事に大事に可愛がれば、立派なお嬢さまになるんじゃないかしら」
「あら。海やお魚が好きなのは、やっぱり生まれた場所に関係してたのね」
ニース、ミオ、ルナールは、ソファーに座ったまま三者三様の感想を口にした。
このあと、ボーイに紅茶と軽食を追加で持って来させてから、喉を潤し、小腹を満たしつつ、しばし五者で愉快な歓談のひとときを過ごした。
そして、優雅なティータイムもたけなわの頃、ニースはガッタに告げた。
「母親が見つかって良かった。これで、もう僕が預かる必要性は無いな」
「えっ、なんで?」
「保護者がいる以上、君の側に付いて見守らなくて良いからだ。楽しい思い出をありがとう、ガッタ」
「いやだ! わたし、もっとニースといっしょにいたい」
「駄目だよ、ガッタ。これ以上、僕の側に居たら、いつまでも離れられなくなってしまう。ここでお別れしよう」
「やだ、やだ、やだ。そんなつめたいこと、いわないでよ、ニース!」
ガッタはソファーから立ち上がり、ローテーブルの向かい側に座るニースへ詰め寄り、ベストを掴んで前後に揺すりながら訴えた。それでもニースは、ガッタから顔をそむけたまま、意志を曲げようとはしない。
ミオは我関せずと紅茶を嗜み、ルナールは、ソファーから立ち上がってガッタの横へ行き、そっと肩に手を添えてニースから距離を置かせた。
真っ赤な瞳に涙を浮かべ、今にもガッタが泣き出しそうになった瞬間、カリーネが口を挟んだ。
「ちょいとお待ちよ、旦那。それは、あんたが決めることじゃないんじゃないかね?」
そして、カリーネは立ち上がってガッタに近付くと、ガッタの正面にしゃがみ込み、顔を見上げるようにして尋ねた。
「ガッタちゃん、よーくお聞き。今、あんたの目の前には、二つの道がある」
そう言いながら、カリーネはティーセットからティースプーンを二本手に取った。
「右へ行く道には、ニースが立っている。屋敷に住むくらいの大金持ちだから、あんたが不自由しないように世話してくれるに違いない」
二本のうち一本を、左手に握るカリーネ。
「左へ行く道には、あたしが立っている。出来るだけ願いを叶えてあげたいが、そこまで贅沢はさせてあげられない」
もう一本を右手に握り、カリーネは目線を左右交互に走らせてから、ガッタの目を見て問い掛ける。
「さぁ、どっちを選ぶ? ガッタ。あんたは、どうしたい?」
ガッタは、左右のティースプーンを見比べ、どちらを手に取ろうか悩み始めた。よく磨かれたスプーンの表面には、逡巡するガッタの表情が、上下左右反転して映っている。




