テロとの接し方 その4
沖縄、辺野古では執拗な抗議とは名ばかりの暴虐が起こっている。
沖縄の民意を決めつけた本土の平和運動家が辺野古埋め立て反対を唱えている。
彼らはかの地が重要なサンゴ礁がありジュゴンの繁殖地であると唱えているが、実際はどうなのか。
沖縄ではもっと巨大な埋め立て事業が計画されており、そちらには反対派が一人もいないという。
さらに言えばジュゴンの数からすれば繁殖というのはあてつけでしかなく、回遊ルートではあっても繁殖地とは言えないというのだ。
沖縄の反米軍運動で遂にアメリカ側に身柄を拘束された人間が出た。
許可がないのに立ち入ったための刑事特別法違反である。
あそこは国境ではないと言い張る人がかなり多いが、言ってはなんだが、代々木のロシア大使館にノンアポ、ノンパスポートで入ろうと試みるとどうなるかわかるだろうか?SVRに拘束されることになる。それと同じことをしているのだ。
米軍基地に入るとき、原則パスポートがいるというのは有名な話で、基地の日本人従業員や交流事業参加者もパスポートで入るのが大原則である。フレンドシップデー等の極々一部の特例を除きあの地はアメリカなのだ。
冷戦期のソ連大使館であればKGB第1局か第15局によって拘束されスパイ容疑で拷問と薬漬けだろうし、紛争地のアメリカ大使館だったら即時射殺で遺体を放り出される。ドイツ大使館でもG36突撃銃を構えたGSG‐9が殺到しているだろう。
軍事基地への侵入は基本的に「武器を奪取する」目的があるとだけ考えられるため「拘束若しくは即時射殺」が国際標準のルールとなっている。
中国の人民解放軍に至っては写真を遠巻きにとっても逮捕拘束される。
これはテロ対策の意味があるからだ。
自衛隊基地の見学も事前申し込みが必要である。これも対テロ、対犯罪のためである。
なぜ日本に米軍がいるのか、そこを理解しきれていない人が平和主義者に多い。
日本が敗戦したことと密接な関係があるはずなのだが、なぜかその事実には目を覆い、現実逃避をしている。
彼らは軍隊の無い日本の実現という、途方もない幼稚な理想を掲げている。
それが前の戦争に対する真摯な反省といえるのだろうか?
国土を蹂躙されたことと他国を侵略したことを無理やり一つの事象に収めようとしているのだ。実際はまったく違う分野の問題である。核物理学者に化学プラントの設計を頼み、日本の古墳の研究科にイギリスの中世建築の調査を要請するのと何ら変わりない。
最近の平和主義者は日清戦争開戦から太平洋戦争終戦までを『50年戦争』として定義しようとしているようだが、無理筋が過ぎる。
彼らにとってみれば自分たちに都合の悪いものすべてが軍や日本の帝国主義由来だと信じたいようである。
実はこの姿勢は多くのテロ組織に類似している。
テロ組織がテロを起こすのは生活の不満などの要素ではなく狂信である。
単なる不満や不安ではテロに至らない。テロはそれ自体が非常に政治的であり、単なる不満・不安の発露の犯罪とは一線を画する。
政治的な主張を押し通すための大規模な犯罪がテロである。それに至るまでには多くの障害があるが、それを平然と越えうるのが狂信である。
多くのテロが狂信によって発生した。
そして今まさに、その狂信の対象となっているのが何とも皮肉な話であるが日本国憲法である。
日本国憲法には政教分離の原則がある。政治に宗教を持ち込んではならないというこの原則は旧軍が暴走した原因をGHQが神道に求めた結果であるが、皮肉なことに今度は一部の条文を除いた憲法そのものを崇拝し始めてしまったのである。
平和主義者にとって日本国憲法は天皇陛下に代わるもの、イスラム教徒にとってのコーランに等しく、天皇陛下から御賜った三八式歩兵銃の代わりである。主敵がアメリカなのも戦中から変わらない。
彼らはもとはといえば戦前戦中は天皇陛下を、戦後になってマルクスの資本論と共産党宣言、レーニンの職業革命家、党の指導性、民主集中制、毛沢東の毛沢東思想を信奉していた。
だがそれらの失敗が世間に大々的に露呈し、体面を保てなくなった彼らは不変で成功をもたらした永遠の指標として、それまでうまく利用してきた日本国憲法に目を付けたのだ。彼らにとって唯一の憑代である以上、現行の日本国憲法を喪失すればレーゾンデートルを喪失し消滅する。
ただでさえ退潮傾向にある左翼運動が足場を奪われることは、肩身の狭いイスラム系移民がイスラムをバカにされたのと同じ効果を生む。
憲法改正をすればシャルリ事件が日本で起こりかねないわけだ。
さて、平和主義者のバックグラウンドにはテロ組織が存在する。
偶にアメリカ軍基地に迫撃弾を打ちこむ連中をテロリストと言わずなんというのだろう。
官邸前のデモはテロに等しいという言葉は、ある種の真実性を持っていた。反原発運動などに中核派や革マル派が参加している以上、それはテロリストによる実力行動である。
辺野古もまた同様である。
反基地運動には煽動者がいる。それにはテロ組織が参画している。
日本中の真摯な市民運動にはテロ組織が入り込む。
「民衆の怒りがテロを生む」のではない「民衆の怒りに付け込む誰かがテロを生む」のである。
貧困や差別にあえぐムスリムがテロ攻撃に打って出るにしても、その引き金を引いたのはイスラム過激派だった。
この事実を忘れてはいけない。
テロを無くすには貧困や差別の解決よりも先にそこに付け込む過激派を撃滅する方が確実に早いし、でなければ根源の解決に対する理解は得られないだろう。
さて、辺野古で捕まった二人に関して「昨日は大丈夫だった」という理由で共産党や活動家は圧力をかけてるようだが、それは「昨日財布を盗んでも捕まらなかった」というのと同じであろう。犯罪は発覚しなくても犯罪であり、発覚した以上処罰せねばならない。
昨日は大丈夫だったから今回も見逃せと言うのは法治の否定であり、警察の否定である。
そんな人間が何故国会議員などできているのだろうか?
私としては不思議でならない。




