平和憲法と閣議決定。そして武器輸出
いま、閣議決定が話題となっている。
武器輸出三原則の改定や集団的自衛権の解釈変更などが閣議決定のみで行われたからだという。
多くの運動家は国会審議を経ないこれらは正当性が薄いとでも言わんばかりの大揉めっぷりだ。
だが、これはまた違う意味もある。
閣議決定で覆すことができるのは閣議決定で決定したもののみである。
これは日本政治の大原則である。
そう。今までいろいろ揉めてきたのは全て法ではなく閣議決定であったのだ。
法に劣る閣議決定によってかなり重要な姿勢が決定されてきたのだ。
この事を考えると、閣議決定での変更はある種真っ当ともいえる。
法ではないのだから国会審議は不要。当たり前だ。
その昔制定された武器禁輸三原則は本来
・共産主義国
・紛争当事国
・国連による規制国
の三種に対する輸出を禁じたものだ。
それがいつの間にか全面禁輸措置となり、日本は兵器開発で非常に非効率的な戦略を取らざるを得なくなったのである。
今回の改定は武器禁輸三原則本来の姿への再構築でしかないのだ。
日本を死の商人にする気かと批判する人がいるが、日本はとっくの昔に武器輸出をしているし、節操なしのフランスや中国などを見て言えるのかということにもなる。
日本は至極真っ当な規制条件下で行っているだけなのだ。
日本の武器は日本にしかないと思い込んでいる馬鹿どもに言おう。
日本の武器は世界中に流通している。M1500ライフルやゴールデンベア、はたまたAR‐18やバートルなどもある。
世界中に流通しないが故にコストが高い割に様々な不安要素が多い装備品の使用を強いられている自衛官を考えると不憫としか言いようがない。永世中立国であるスイスや、敗戦国であるドイツ、戦後やっとのことで産業が根付いた中国が兵器を輸出していることを考えると日本が輸出したところで問題視する国は殆どないと言える。しいて言えば中国や韓国、北朝鮮が帝国主義の復活といって反発するだけだろう。
日本がなぜ武器輸出をやめるに至ったかの正確な話がされることはない。
元はといえば、この三原則は対共産圏国際輸出規制ココムに基づいた規制でしかないのだ。
つまりは反共産主義政策でしかなかったのだ。
その後三木内閣時代に事実上の全面禁輸となったのだ。
AR‐18ライフルのIRAでの使用やカッパロケットのユーゴスラビア製ブルカンSAMへの転用などの事件が過剰なまでの武器禁輸の発端ともいえる。
日本は平和主義国家である以上、人殺しの兵器を作ってはいけないというのが日本の文化人の価値観が、自衛官の命を安くしていると言える。日本の武器産業を極端な赤字産業にさせていると言える。
日本の戦後教育と反戦運動が実情を覆い隠している。
実際、日本の武器産業は殿様商売しかしてこなかったために性能とコストをおざなりにしがちである。
例えばミネベア。ニューナンブM60拳銃のトリガー設計には問題があるとされ、ダブルアクションではまず当たらないとされている。研究などに熱心でない故に自動拳銃においても前時代的な設計をしたが故に制式拳銃をスイスとドイツにまたがるシグザウエルP220に奪われてしまった。この顛末はアメリカのコルトを思い起こされる。
また、最近では住友重機械工業の機関銃の製造問題もあった。彼らは本来の性能未満の製品を多数納入してきた事実が明らかになったのだ。以前から住友の62式は部品同士のクリアランスが悪く撃ち始めると止まらない、キャリングハンドルを持って動かせば銃身しかついてこなかった、セーフティがかかってても衝撃で暴発する等の問題があり、ミニミになってもアメリカなどのモノより精度が悪いといわれていたのだ。殿様商売が日本の武器産業に想像以上の悪影響を引き起こしているのだ。この事を考えれば、海外市場で戦える製品の製造は重要といえるかもしれない。
これらの事態を生み出したのは予算編成を独占する大蔵省・財務省の欠陥と改修に対する無理解もあるが、それ以上に、殿様商売でふんぞり返ってきたことが顧客より製造者が偉いという逆転現象を生み、性能追求をないがしろにする風土を生み出してしまった結果と言えるのかもしれない。
日本には兵器産業をすべて解体すれば社会福祉が充実するみたいなことを言う人が山ほどいるが、実際は、もっと残酷な事実が待っている。彼らの理念のもと兵器産業を解体すると、製造にかかわった労働者は失業者になるし、研究者は放出される。これらの人材はすべからく悪者にされるのでまず再就職はできない。そうなると失業率は跳ね上がり、また、軍需と民需の境目の研究があおりを受け停滞する。社会保障費も跳ね上がる。これは国家にとってマイナスでしかない。
私のモットーの一つは『道具は使う人の意思によって変わる』である。実のところ、金属製ボールペンひとつでハイジャックは出来る。銃で人を救うこともできる。メスで拷問ができ、麻薬は緩和ケアに使う。時計は爆弾に使われ、爆薬は岩盤を崩すのに使われる。そう、ものは所詮ものである。どう使うかは人によるのだ。この非常にドライな価値観が必要である。包丁で人が死んだから包丁を製造しないようにしようと言い放った人間は居ない。弓道の弓は致命的な事故を起こすがちゃんとした管理ができている。日本は銃に対して過剰なまでに身構えすぎだ。銃は自ら弾を込め、撃鉄を起こし、引き金を引くことはない。この視点が足らないのだ。
銃規制が厳しい国もアメリカの市場に銃を輸出して、犯罪に使われても知らんぷりする。
これくらいの厚かましさが日本には必要だ。
セイコーやカシオの時計が各国の軍隊に納入され、爆弾テロに使用されている事実があるからといって廃業を迫る人はいないだろう。銃もまたそうだ。でなければ矛盾が生じる。
第一、日本は刀狩以降民間人は武器を持たなかったというが、実際はまったく違う。戦前はそれなりに銃は流通していた。それに刀狩の真の意図は権力の固定であり、反権力をうたうサヨクが引き合いに出すのはまったくの矛盾である。
遂に日本の兵器が半世紀ぶりに世界に羽ばたこうとしている。
売れるかどうかはわからない。だが、この改革が日本全体のプラスになることを頑なに願うのである。




