絶対平和主義なんて糞くらえ
大学生活を送るうえで重要な科目選択
そんなときに思い立った今回のテーマです
さて、私は工学の単科大学に通っておりますが、文系の長期テーマの科目をとる必要性が出てきました。これを私の通う大学では「副専門」と言います。この3/4年の経験で当たりたくない教員に目星はついたものの、いかんせんメンタル系のコースか、政治系のコースかで悩んでいます。
両方おもしろそうに感じていますが、単位の面でメンタルが優勢です。何せ政治系コースはこの手の話でありがちな「九条教」の布教活動になりそうだからです。私は基本的に政治的には保守派なのですが、相手がこれだと単位が最低値をとりかねない危険があるわけです。いや~困った困った。
「九条教」とは日本国憲法第九条の効力を盲目的に信じている人たちの総称です。その熱心な姿勢と第九条の内容から「宗教じみている」と言われるようになり、このような言葉ができたようです。
この「九条教」の「信者」の多くは団塊の世代と言われております。真偽のほどは知りませんが、逆算するとその世代が全学連などによる闘争を行っていたのとマッチします。若年層は比較的保守的な思想の人間が多いといわれてますから、今後減少するのではとか言われています。
私が日本国憲法第九条を嫌うのは、自分自身の経験によるものです。力を持たぬ者は暴力に屈服するしかない。これは中学の頃のいじめによって導き出されたものです。まあ暗に自分が非力だったって認めちゃってますけど。
まだ民間人には法律があるし、きっちりした報復システムもある。しかし国家間において法律は絶対的な存在ではない。国際法は何度も破られている。日ソ不可侵条約の結末を見たか。ということです。
もう一つ導き出せたのが絶対平和主義は絶対不可能であるということです。同じ民族でここまで分かり合えないのに、言葉も風習も違う異民族と完全に分かり合えるのかということです。一応、国際言語としてエスペラントなるものがありますが、本当にエスペラントは中立的かというと全くそうではないといえます。まずアルファベットを使っている点。これは非アルファベット圏の民族にとって中立ではない。話者も極端に少ないうえに、第一、それで民族の根底まで理解はできないであろうと感じます。言語は民族を根底から支えるモノで、また民族が言語を補完すると私は考えています。一部の知識人によって練成された人工言語は、ホムンクルスの如く『試験管』の外に出れば死んでしまうでしょう。
さて言語と民族の関係性ですが、それを如実に表しているのがイスラームの民です。彼らはクルアーン(コーラン)を最高経典とするイスラームを信仰しています。クルアーンは基本的に翻訳禁止で、翻訳した物は効力を失います。その理由はクルアーンそのものが歌・詩として成立しているからだとされています。イスラームが成立したころ、アラブは遊牧民の住む地域だったそうです。遊牧民同士の争いは歌で勝敗を決めるほど歌が重要となっています。歌が美しく成立するためには原語でないといけない。外国人がファンサブで歌うアニメのオープニングに違和感を感じるのは、歌が歌われた言語で一番美しく聞けるからだといえます。それに翻訳で意味がずれる可能性もある。酔っぱらいのもつ意味が日本とヨーロッパで違うように、経典の内容までずれたら地域で差が出てしまいます。どっぷり経典の持つ意味を理解するためにイスラームの言葉を理解させ、イスラームの言葉で考えさせる。これがイスラームの基本方針のようです。
人は分かり合えるというなら無差別殺人や通り魔の犯人とまともな対話ができるでしょうか。「カッとしたから」「誰でもよかった」なんて言って人の命を殺める相手に対話が成り立つのでしょうか。外交はそれこそこんな相手とやり取りする気持ちでないといけないでしょう。特に日本は。日本の周辺国には、日本の常識の通用しない国ばかりが集まっています。
九条教には嫌気がさします。政治コースを選ぶかメンタルコースを選ぶかはまだわかりませんが、政治コースになったなら日本国憲法第十九条・二十一条・二十三条を盾にしていきたいと考えています。
なんだろね。結構な割合でイスラームの話やね。
全くの素人なのに。付け焼刃の知識で……。




