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 心臓が痛いほどにバクバクと脈を打っている。脳裏に浮かぶのは先ほどのクラウスの様子。小さい頃から、あんな冷たい声で話しかけられたことはなかった。

 泣き出してしまわないようにギュッと目を閉じたら、可憐な少女を支えるようにしながらこちらを咎めるクラウスが瞼の裏に映し出された。


──涙なんて見せながら会場へ戻ったら、何かあったと思われてしまうわ。


 勝手な予測と悪意をもって、有る事無い事吹聴される貴族社会。少しの油断が足をすくわれることは、アリシアもきつく教えられていた。

 ちらりと横を見るが、職務を全うするように会場へエスコートする騎士は、まるで何も見なかったかのように無表情だ。余計なことを問いかけるつもりはないらしい。

 アリシア自身、どう説明したらよいかもわからなかったので、マーカスの真面目さが非常にありがたかった。


 マーカスに連れられ会場に戻り、まずはパトリックの姿を探す。兄は舞踏会に来る前に、「一人で会場の外へ出るな」と何度も言っていた。先ほどのマーカスの様子では、アリシアが会場から出てしまったことは既に報告済と思われる。兄は感情に任せて怒鳴ることなどは滅多にないのだけれど、少々しつこいところがある。暫くは言いつけを破ったことでちくちくとお叱りを受けるだろう。

 少々憂鬱な気持ちで溜息をもらす。


「!!」

「!?」


「アリシア!」


 突然、マーカスに何かから庇うように肩を抱き寄せられて驚愕した瞬間、聞き覚えのある鋭い声が聞こえた。

 ほんの先ほどまで、庭園で居合わせた彼の声だ。

 そっと振り返ると、その声の主クラウスが肩で息をしながら立っている。


「アリシア、少し話がしたい。

 ほら、先日からあまり話せていなかっただろう?」


「申し訳ないがアリシア様はパトリック殿に呼ばれている」


 先ほど名を呼んだ時の鋭さを抑え、クラウスがアリシアに声をかけるも、警戒心を露わにしたマーカスが一刀両断する。


「……パトリックは私の友人だ。

 それならば私がアリシアをパトリックの元へ連れて行こう」


「貴殿のお手を煩わせることはございません。

 お送りするのは私の職務ゆえ」


 マーカスが更に警戒を強め、アリシアを庇うように一歩前に出る。

 この騎士は不埒な男から護衛対象を守ろうとする職務にどこまでも忠実だった。クラウスの性格上、不埒なことが出来るはずはないのだけれど、それを知らないマーカスは目の前の男のただならぬ様子に全力で警戒していた。


「私とアリシアは幼馴染だ。

 今日限定の(・・・・・)護衛が彼女の交遊関係に口出ししないでいただきたい」


「本日は私が(・・)パトリック殿と王女殿下にアリシア様をくれぐれもよろしくと頼まれておりますので、貴殿は機会を改めるのがよろしいかと」


 何故か見えるはずのない火花が2人の目に飛んでいる。突然の修羅場に、渦中の人であるはずが状況をつかめないアリシアは困惑した。視線を巡らせたところ、少し離れたところにいた王女ローズマリーと目が合う。

 彼女は、扇で口を覆っているものの目が完全に笑っていた。全く助けが期待できないと察して、アリシアはますます困り果ててしまう。


「アリシア! ……騎士殿とクラウスも」


「お兄さま!」


 少々目立っていたところに、天の助けもとい兄パトリックが登場した。アリシアは思わず安堵の表情になる。先ほどまでは叱られることを危惧して兄に会うのが憂鬱だったのだけれど、この状況では非常に頼もしい。


「……状況がよくわからないが、今日はもう私たちは引き上げようと思う。

 騎士殿、苦労をおかけした」


「待ってくれアリシア! 少し話を──」


「クラウス、また後日改めて会おう。

 アリシアは少々疲れているみたいだから」


「はい。 マーカス様、クラウス様。わたくしたちはこれで失礼いたします」


 兄に促されるまま、2人に礼をしてアリシアはそそくさと立ち去った。

 会場の出口に向いながら、後ろを振り向く勇気はなかった。先ほどの謎の修羅場から男2人が取り残されて、その場がどのような空気になっているのか。想像するだけで少し胃が痛くなる。





 公爵邸へと戻る馬車の中は、兄妹2人。微妙な空気が流れていた。


「お兄さま……あの場を収めないまま2人を置いて行ってもよかったのでしょうか?」


「あれは周りを見ずに熱くなった堅物騎士とへたれ野郎が悪い。傍から見ると三角関係の修羅場だった。

 一歩間違えば醜聞になっていたよ。

 アリシアはさっさと退散するのが正解さ」


 堅物騎士はマーカスとわかるのだけれど、へたれ野郎とはクラウスのことだろうか。アリシアは頭に疑問符を浮かべる。アリシアにとってクラウスは、いつだって物腰柔らかく余裕のある王子様のような人だったから。


「で、アリシア。

 僕に謝ることがあるだろう?」


「……迂闊に一人行動をして、申し訳ございませんでした」


「……まったく。

 騎士殿からアリシアがいなくなったと聞いて肝が冷えたよ。

 どこに行ってたんだい?」


「庭園で聞き覚えのある女性の声が聞こえたから、揉め事かと思って様子を見にいきましたの。

 そうしたら、クラウス様を慕いいつも傍にいた令嬢たちが、クラウス様の想い人を囲っていて……。


 思わず仲裁に入ろうとしたところで、颯爽と現れたクラウス様が彼女を救いましたの」


 あの時の様子はしっかりと覚えている。

 どの恋愛小説でも必ずといっていいほど登場する、ヒロインのピンチに駆け付けるヒーローそのものだった。

 その後意地悪な令嬢を撃退したあとに、手を取り合う美しい2人……。

 思い出しただけで、アリシアの心はずきずきと痛む。


 まるで恋愛小説の中に入ったかと思うような光景だったのに。それが知らない男女が繰り広げる光景であれば、きっと見惚れるくらいドキドキしたであろうワンシーン。でも、クラウスと可憐な令嬢の姿を思い出すたびに、胸は高鳴ることなく締め付けられるように痛むばかり。

 思わず泣きそうになったアリシアは、下唇を噛んで俯いた。


「ちょっと待って、想い人って?」


「はい……先日お話した、クラウス様と良い雰囲気になっていたご令嬢ですわ」


「は?」


 薄暗い馬車の中でも、きょとんと瞳を瞬かせる兄の表情がわかった。


「まだその段階なのか!?」


「……2人が思いを通じ合わせたかは存じませんが……。

 あのご令嬢は、助けに入ったクラウス様を見上げて頬を染めておりました……」


「いや、そっちじゃなくて」


 自分の気持ちを知っているというのに、兄は何故そんな残酷なことをわざわざ確認してくるのだろう。幼いころから育ててきた恋心は、簡単に摘めるものではなくなっていた。

 なるべく現実から目をそらして、少しずつ想いに蓋をして、なるべく傷つかないように前に進みたいというのに……。


「とりあえず、お前は暫く恋愛小説は禁止だ。

 代わりに経済書でも読んでいなさい」


「突然何故ですの!?」


「……そうすれば頭の中の花畑が枯れるかと」


 兄が言いたいことの意味はわからなかったが、とりあえず何やら馬鹿にされていることだけはわかった。




 アリシアは、胸が痛むとわかりながら今日の光景を頭の中で反芻する。長身で整った体躯の美丈夫と、小柄で可憐な少女。舞踏会会場のフロアから漏れ出る灯りに照らされて、まるで絵画のような2人。

 暗いこげ茶の髪色に、中肉中背、更には平凡な顔立ちの自分とは住む世界が違うように感じられた。


 アリシアがクラウスの傍にいた2年間、同じく“取り巻き”をしていたメンバーは度々入れ替わっている。想いの強さはそれぞれだろうけれど、皆クラウスを慕っていた。

 それでも何人かは誰の特別にもならないクラウスを諦めて、自身の幸せのために結婚相手を見つけにいくのだ。


 アリシアだって、彼女たちと同じように現実的な相手を探そうと決意したというのに。


──彼女たちは皆、こんな胸の痛みに耐えてクラウス様から離れたのかしら。

 私も、彼女たちと同じように……いつか、いい思い出だったと笑えるのかしら……。


 幼いころからクラウスを想ってきたアリシアにとって、初めての恋で唯一の恋。失恋の痛みを経験したことがないアリシアは、全く笑える気がしなかった。


 考えても結論の出ないことを考えているうちに馬車が止まる。


 ぼんやりとしたまま、メイドたちに全て任せていたらいつのまにか湯あみも着替えも終わりベッドに横になっていた。クラウスの姿や少女の表情を思い浮かべては胸が痛み、ベッドに入っても中々寝付けない。色々なことがあった疲れで眠いはずなのに、中々眠りに落ちることができない。


 そして翌日から3日間、熱にうなされることになった。

 齢17にして、俗に言う知恵熱である。

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