1
年季が入った木の扉を押し開くと、カランコロンと来客を告げるベルが鳴る。
半地下にあるこぢんまりとしたその店は、お世辞にも清潔感があるとは言い難い。
年季の入った飲食店特有の油っぽい床に、安い木の椅子とテーブルが設置されている。提供される料理や酒は、粗悪とまではいかないが下町の労働階級のものが好むような安っぽいものばかり。
パトリックが店内に視線を一巡させると、一つのテーブルに見慣れた団体が固まっていた。それぞれが、平民が着るような簡素な服をまとっているが本来は全員貴族の子弟である。
昼を少し過ぎたばかりの今の時間、他に客は入っていない。パトリックは深めに被っていた帽子を外し、目的のテーブルに近づいた。
「わはは、何だお前その恰好!」
仲間内の一人がパトリックに気付いて大声で揶揄う。既に少し飲んでいるせいか、かなり機嫌が良いようだ。
先ほど指摘された通り、今のパトリックの恰好は少々野暮ったい。厚手のジャケットに時代遅れのベスト。ゆったりとした幅のパンツも含め、差し色も何もなく全て海老茶色で纏められている。たった今外した同色の帽子も30年前に流行った型だった。
別にこれがいいと思って着ていたわけではないのだが、あまりにも明け透けな指摘にパトリックは口をへの字型に歪めた。
「いやいや、洒落者のお前のことだ。一周回って流行の最先端を行ってるんだろう?」
頬杖を突きながらにやにや笑うのは、将来の義弟となるクラウスだった。拗らせた初恋を実らせて、パトリックの妹アリシアとの婚約が決まったばかりでこの頃は浮かれ気味だ。
「中流階級の医者志望。実家は裕福だが親の反対を押し切って学校へ通っているため、金はない。父親の若いころの服を丁寧に着ている苦学生だ」
「……何だそれ?」
不機嫌顔のまま突然喋りだしたパトリックに、男たちは揃って怪訝そうな表情を浮かべる。
「……という設定で、妹が嬉々としながら服を選んだ」
パトリックが下町へ行くと聞いたアリシアが、父の服を引っ張り出して設定を考えながらコーディネートしたのだ。小説を好み、頭の中に少々花が生えている妹は非常に楽しそうに語りながら服を選んでいた。
お忍びの服なんて適当でいいと思っていたパトリックは全て任せていたのだが、どんどんと古い服を着せられて頭を抱える羽目になる。最終的に、まるで30年前を舞台にした演劇の登場人物のようになってしまった。
「なんだと……!? アリシアに服を選んでもらうなんて羨ましい!
流石アリシアだな……お忍びにも、背景があるとないとでは深みが全然違う」
「お前てのひら返すの早いな」
クラウスの言いように、パトリックだけでなく周りの友人たちも呆れた声を漏らす。お忍びの恰好に深みなんて誰も求めていない。
将来、お前も謎の設定と共に恥ずかしい服を押し付けられればいいと、パトリックは心の中でこっそり呪った。
テーブルについてすぐ、不愛想な店主がパトリックの前にエールを置いた。スクールに通っていた頃からこの店を溜まり場にしていたのだが、何年経っても一貫して店主の態度は変わらない。普段貴族の店へ行けば恭しく迎えられ完璧なサービスのために仕草のひとつすら見られてしまう彼らにとって、無愛想だが余計な干渉をせず一挙一動を見てこない店主の対応が逆に心地良かった。
パトリック、クラウスも含めてこの場にいる全員が、スクール時代に親しくしていた同級生だ。誰が始めたか今はもう思い出せないが、卒業してからも1~2か月に一度ほど、こうしてこの店に集まっている。
紳士クラブや催しでそれぞれ顔を合わせる機会も少なくないので、特に久しぶりの対面ではないのだが、普段は高級な服に身を包み家名を背負って対面するときとは違う素の自分として、ただの男友達とくだらない話をしながら酒を飲むこの時間が、それぞれの良い息抜きとなっていた。
改めて乾杯をした後、木製のジョッキを傾けながら、友人の一人が口を開いた。
「パトリックは今回不参加だと思っていたよ。今日は見合いじゃなかったか?」
「だからこそ、少しは飲まないとやっていけない。僕はまだ結婚相手なんて決める気はなかったのに」
パトリックは苦々しい表情で吐き捨てる。流石に酔うほど飲むつもりはなかったが、少しくらい息抜きをしないと夕方からの見合いに耐えられる気がしない。それくらい、不本意な話しだった。
「いい人だといいな。俺にとっても義姉になるわけだし
……何だよ、何で睨むんだ?」
パトリックは思わずぎろりとクラウスを睨みつける。
クラウスはのほほんとしているが、元はと言えば妹とクラウスの婚約が決まったことが事の発端だと思っている。
妹が婚約したのだからそろそろパトリックも、ということで両親から急かされるのを躱していたら、とうとう強制的に見合いの話を持ってこられたのだ。
「僕はあと2~3年はこのままでいるつもりだったんだ」
クラウスと妹の婚約自体を祝福していないわけではない。パトリックの妹アリシアは、幼少期から空想の物語を好む夢見がちな少女だ。ただ、パトリックとアリシアの母は降嫁した王妹のため、血筋だけは良い。そのため国内外の王族や高位貴族からの縁談はそれなりにあったが、公爵家や王家から守られ優しいだけの世界で過ごしてきたアリシアに高位貴族の夫人として曲者だらけの社交界の上に立てるかというと不安が大きいため、全ての縁談は公爵が断っていた。
王家に連なる公爵家の令嬢アリシアと、最近まで没落手前でやっと軌道に乗り始めた伯爵家のクラウスでは傍から見るとクラウスの方が“上手くやった”ように見えるのだが、実際のところ公爵家としても願ったり叶ったりの婚約だった。尤も、アリシアを幸せにしてくれる人、という娘を可愛がる父の心が大いに反映された結果ではあるのだが。
それなりに妹を可愛く思う気持ちも持ち合わせているパトリックにとっても、2人の婚約に否があるわけではない。傍から見れば思い合っていながら馬鹿馬鹿しいほどにすれ違っていた2人がまとまって良かったとも思っている。
しかし、話がまとまってすぐに「次はパトリックが」などと思い出したように急かされるのはたまったものではない。正直、どうせ両想いで最終的にまとまるならあと2~3年すれ違っていればよかったのにとすら思う。完全な八つ当たりとも言う。
「何でパトリックはそんなに婚約を嫌がるんだよ。いつも囲まれてるんだからわざわざ見合いなんてしなくてもよりどりみどりだろうに」
「夜会に顔を出す度に囲まれてみろよ。どんなに健康な男でも嫌になる」
パトリックだって、別に女性が嫌いだった訳ではない。スクール時代は少し悪い先輩に連れられて、大人の遊びとやらを教えてもらったこともある。しかしデビュー後夜会に出るたびに多くの令嬢に擦り寄られ、更には互いに牽制しあう様子を見せられ続けたのでは流石に疲弊する。何より、今のパトリックは女性に愛を囁くよりも友人たちとカードゲームや乗馬を楽しむ時間の方がずっと有意義に感じられた。
次に王位を継ぐのは第一王女と決まっており、その下の第一王子は未だデビュー前の10歳となると王の甥であり次期公爵というパトリックは適齢期の未婚男性の中では一番の優良物件だ。寄ってくる令嬢たちの中には親の指示を受けている者もいるだろう。パトリックに見初められれば確固たる地位を約束されるとなれば必死になるのも仕方がないと言えるが、穏やかに過ごしたいパトリックからすれば放っておいて欲しいところだった。
「まあ、いいじゃないか。別に婚約者が決まったからといってすぐに結婚というわけではないんだろう? 暫くは今まで通り過ごせるさ」
婚約者持ちの友人が笑いながらパトリックの肩を叩く。そう構える必要はない、というが彼は政略的に決まった婚約とはいえ、幼いころから気心知れた相手との婚約だ。適齢期になって突然見ず知らずの令嬢とお見合いをセッティングされたパトリックとは訳が違う。
「今までと変わらず、という訳にはいかないだろう。贈り物やらエスコートやらを考えなくてはいけなくなるし、もし相手が面倒な令嬢なら気軽に出歩けやしない」
すっかりぬるくなったエールをちびりちびりと飲みながら項垂れる。憂鬱な気持ちを少しでもどうにかしたくて、友人たちの集まりに顔を出したが嫌な事が待っていると思うとせっかくの時間もいまいち楽しめない。
いつもであれば、この店の安っぽい酒ややたら味の濃い料理すらも美味しく感じるのだけれど、今は殆ど味がしなかった。
「よし、それなら俺が婚約者との円満の秘訣を──」
「クラウスの秘訣は絶対に役に立たないから不要だ」
クラウスは不満気に口を尖らせるが、最初から相思相愛で互いに盲目な2人の例が参考になるとは到底思えなかった。下手をしたら恥ずかしい妹との惚気を聞かされる羽目になる。
*****
予定があるからと程よいところで切り上げて、近くのテーブルで待機していた従者に目配せをして店を出る。
見合いの前に、少しでも気持ちを上向きにしようと友人たちの元を訪れたが結局対して酔う事はできなかった。ただ、余りにも酒の臭いを残して見合いに挑めば間違いなく母の雷が落ちる。多少なりとも飲んだパトリックは念のため隣を歩く従者に尋ねた。
「酒の臭いはするか?」
「いいえ、気になるほどではございません。帰宅して湯浴みされれば問題ないかと」
それであれば、母の怒りに触れることはないだろう。気乗りしない見合いであっても、先方に失礼があってはいけない。
馴染みの店は大通りから外れた少し入り組んだところにある為、停めてある馬車までは歩く必要がある。本来であれば貴族が徒歩でうろうろとするのは褒められたことではないが、目立たない恰好でお忍びをする者は少なくない。パトリックも、スクール時代から何度も街歩きをしているので平民に交って歩くのは特に苦に感じなかった。肩が触れるほどの近さで人々が行き交う中、慣れた足取りで大通りに向かう。
「……!?」
狭い路地を抜けて、大通りに出る一歩手前に差し掛かる時、正面から強く人がぶつかった。
「いてて、すみません、急いでいたもので」
「ああ、大丈夫だ。気にしないでくれ」
従者が咄嗟にパトリックとぶつかってきた人物の間に身体を滑り込ませて相手を睨みつける。余り綺麗とは言えない服を着ている気弱そうな青年だった。傲慢な貴族であれば、ここで不敬だと怒鳴り散らす者もいるがパトリックからしてみると平民の恰好で出歩きながら横暴に振舞う様は粋ではない。すぐに、謝罪を受け入れた。ペコリと頭を下げた青年は本当に急いでいるようですぐに通行人の中に入っていった。
「……パトリック様、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。ぶつかられただけ……ああ、いや、やられた。財布がない」
ジャケットの内ポケットにあった筈の重みがなくなっていることに気付いたパトリックは肩を竦める。とは言え、別に大金が入っていたわけではない。基本的に買い物は名前を出せば家に請求がくるため、現金自体持ち歩く習慣はない。掏られた財布は今日の酒代の釣りが入っている程度だ。
「追いますか?」
「いや、いいさ。僕の不注意だ」
王都の治安は他の街に比べて格段に良い。街全体がある程度裕福で、警邏隊が常に見回っているため、ここ最近は大きな犯罪なども行われていないが、人口が多い分どうしても物盗りのような小さな犯罪はなくならない。
どちらにしても、既に道行く人々に紛れた一人を探すのは容易ではない。少々の小銭の為に追うよりも、さっさと帰宅して面倒な見合いの準備をしなければならない。不服そうな表情をする従者を宥めて大通りに、後方──先ほどスリの青年が逃げて行った方向がにわかに騒がしくなる。
何事かとパトリックが振り返ると、人混みをかき分けるように誰かが此方に向かってくるところだった。
現れたのは、すらりと背の高い女性だった。普通の女性が着るスカートではなく男性が着るようなパンツに身を包み細身の剣を腰から下げてはいるが、黒い髪を高く結い背筋がピンと伸びた姿は私服の女騎士のようである。
女性は片手で青年の後ろ手を捻りながら空いた方の手でパトリックに財布を差し出した。
「失礼。この財布は貴殿のもので間違いないだろうか?」
「え、ああ……僕のものだ」
「この男が貴殿にぶつかった時に掠め取ったのを見た」
彼女は忌々しそうな目を掴んだ青年に向ける。多分、正義感が強い女性なのだろう。
「ありがとう。盗られたことには気が付いたけど、戻ってくるとは思わなかった」
本当は、どうせ小銭だからとすぐに見切ったのだが驕っているように聞こえるために仕方なしに諦めたのだという風を装った。
「私が主に代わって警邏隊に引き渡しましょう」
「いや、大丈夫だ。先ほどすぐそこで警邏の者を見かけた。このまま私がこいつを連れて行こう」
前に出たパトリックの従者の申し出を断り、颯爽と女性は大通りの方へ向かっていった。
「……呆気に取られて満足にお礼も言えなかった」
「正義感の強そうな女性でしたね」
「そうだな」
この国には少ないが女騎士がいることは知っていた。だが、その大半が結婚までの腰掛けで、“一般女性より少し強い”程度のために安心して背中を任せられないと従妹である王女がぼやいていたのをパトリックは思い出す。
もちろん、少し強い程度でも女性しか入れない場所──パウダールームや寝室などに付き添うために重宝はしているのだけれど。
今去っていった彼女は、貴人の護衛に当たるお綺麗な近衛騎士というよりは、それこそ警邏隊のような凛とした強さを感じられた。




