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 いつも通りの朝は、ひとりの訪問者によって「いつも通り」のものではなくなった。ダリアがベッドの上から降りるよりも早く、小さなノックの音が部屋に響く。

 こんな時間に誰だろうと、まだ覚醒しきれていない頭でダリアはぼんやり考えた。厨房で何か問題でもあったのかもしれない。上着を羽織り最低限の身嗜みを整え、扉を開ける。

 そこに立っていたのは女官ではなかった。少し幼い顔立ちのおっとりした雰囲気を持つ女性。わずかに頬を紅潮させ、ぎゅっと唇を引き結んでダリアを見つめてくるその女性は。


「リーディエ様?」


 妃のひとりであるリーディエ。そしてなにより夕べラディムが部屋を訪れる予定になっていた女性だった。

 まさかまたすっぽかしたというのか。あんな条件を自分から出しておいて……。そう思った直後、リーディエの大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。


「リ、リーディエ様!? どうなさったのですか!?」


 ギョッとしてその細い肩にダリアが手を掛ける。冷えた感触に気付いてよく見ると、リーディエは何も羽織らず寝間着のまま廊下に立っていた。


「リーディエ様、とにかく中へ」


 慌てて部屋の中に通し、椅子に座らせる。妃に自分の服を貸してもいいのかどうか迷ったが、風邪をひかれるよりはマシだとクローゼットから厚手の上着を出して彼女に羽織らせた。


「あ、ありがとうございます。ダリア女史」


 思えばリーディエの声を聞いたのはこれが初めてだったかもしれない。他の妃達に比べれば身分がやや低い地方貴族の出身で、元々おとなしい性格のようだったがそれに拍車をかけて一歩後ろにいるような女性だった。

 髪の色がダリアと少し似ていて、実はほんの少しだけ親近感を持っていた。


「リーディエ様、どうなさったのですか?」


 先程と同じ質問を繰り返す。こんな時間に訪ねてきた上に泣き出したのだからよっぽどの事があったに違いない。

 やはりすっぽかされたか、もっと最悪の事態が頭の片隅を掠める。


(……ううん。陛下は女性に乱暴されるような方じゃないわ)


 経緯はどうであれ、自分が主と認めた人物だ。いい加減だけど、ものぐさだけど、優しくて誠実な事は知っている。だからこそ主と認めているわけだが。


「あの、陛下が……」


 真っ赤な顔で見上げてくるリーディエは、庇護欲を掻き立てられるような空気を纏っていた。普段派手な妃ばかりが目につくからか、そんな彼女の態度はとても新鮮に思える。


「陛下が昨日、私の部屋にいらっしゃって……!」

「えっ、本当ですか?」


 とうとう。とうとうラディムが妃の部屋に。

 ダリアは嬉しさのあまり思わずリーディエの手を握りしめてしまう。


「ああああのダリア女史……」

「あっ、申し訳ありません。つい」

「い、いえ、その、良ければ握っていただいてもよろしいでしょうか……」

「えっ、あっ、はい……」


 二人照れながら手を取り合う様子は少しおかしいけれど、ダリアにはなんだか胸が熱くなるようなやり取りだった。


「そ、その、陛下とはお話をしただけなんですけど」

「なんという甲斐性無し」

「はい?」

「いえ、こちらの話です」


 キョトンとしていたリーディエはまた顔を赤らめてぽつぽつと語り出す。


「陛下はとてもお優しくて……。私、自覚はしているのですが何事においてもトロくて、お話ひとつまともにできた試しがなかったんです。けれど陛下はずっと静かに私の言葉を聞いてくださって……私、それがすごく嬉しくて……」


 言いながらまた涙ぐむリーディエ。本当にラディムが訪ねてきてくれただけで嬉しいのだと、全身からオーラが溢れ出ている。


「ダリア女史のおかげです。ありがとうございます」

「いえ、私は何も……」

「でも、前の後宮管理人の時は誰のもとにも一度だってお訪ねされた事はありませんでした。きっとダリア女史のお力があってこそです」


 出された条件の事を思い出してダリアは顔を強張らせる。自分の力によるものなのかどうかは甚だ疑問ではあるが、あれのおかげでラディムが言うことを聞いたのならあながち間違いではない……のかもしれない。

 あまり嬉しくはないが。


「ダリア女史、何かお礼をさせていただけませんか?」

「え!? そ、そういうわけには……本当に私は何もしていませんし」

「私がそう思うから、お礼がしたいのです。と言っても、きっとたいした事は出来ませんけれど……」


 随分律儀な方だなと、内心驚く。それに、気弱そうに見えて芯も強いようだ。きっとこういう女性が正妃の座についたら、ラディムを支えてやれるのかもしれない。

 候補に加えておこうとダリアはひとり小さく頷く。


「あの、ダリア女史?」

「あ、えっと、あの……考えておきます」


 お礼をされるような事をした覚えはやっぱり無いけれど、それでリーディエが満足するのなら。この短い時間で彼女に対する好感度はかなり上がった。そんなリーディエの申し出を無下に断るのも心苦しい。


「では、お待ちしていますね」


 嬉しそうに微笑むリーディエにつられて、ダリアも思わず口許を緩めた。


*****


 朝食を届けがてらリーディエの事を話そうとラディムの部屋を訪れたが、珍しく既に城へと向かった後だった。仕方なく夜を待ってダリアは再び廊下を進む。

 薄暗い廊下を、扉の隙間から漏れ出た灯りがほのかに染め、部屋に戻ってきている事が知れた。背筋を伸ばし手の甲で扉を二回叩くと、中から声が返ってくる。


「誰だ?」


 その声がいつもより低く感じられて、ダリアは一瞬躊躇する。それでもなんとか気を取り直し、改めて口を開いた。


「ダリアです。よろしいでしょうか」

「……」


 少しの間。息が止まりそうになりながらもラディムからの返答を待つ。


「入れ」


 ようやく許可が下り、ダリアはカチャリとドアノブを回した。


「陛下……?」


 部屋に入って最初に見えたのは、椅子に腰掛けたラディムの姿。その顔色。眉間にシワを寄せこめかみに手を当てている。


「あの、お疲れのようでしたら出直します」

「いや、平気だ。このくらい……」


 不意に言葉が途切れ、代わりに重い溜め息がこぼれるのが聞こえた。ダリアは足早にラディムの傍へ歩み寄り、身を屈める。無礼にあたってしまうかもしれないと承知の上で、避ける隙も与えずラディムの額に手を当てた。


「熱がおありですね。寝台に……歩けますか?」

「ああ、大丈夫だ」


 ラディムはヨロヨロと立ち上がりおぼつかない足取りで寝台へと向かう。


「今医者を呼んでまいります」

「いい、必要ない……」

「この状態の陛下に判断は求めておりませんので却下致します。お食事は摂られましたか? お薬を処方されると思いますのでまだでしたら何かお作り致します」

「いらない……薬は飲みたくない……」

「何故ですか?」

「……苦いから……」


 苦しげに吐き出された言葉に、ダリアは目を丸くしてしまう。恐らく熱で頭がぼうっとしているのだろう。自分でも何を言っているかわかっていない可能性が高い。

 それでも。


「ふ、ふふ……」


 病床の王を前にして笑い出すなど極刑ものだろうが、どうにも堪えきれずにダリアは肩を震わせる。薬が苦いから。飲みたくないなどと。


「陛下。今飲んでおかないともっと苦い薬を飲む羽目になりますよ」

「嫌だ……」

「では我慢してくださいね。お食事は?」

「少し前に……パンを……」

「でしたら大丈夫そうですね。今医者を呼んでまいりますから、おとなしくなさっていてください」


 返事はなかったが小さく首が縦に動いたのを見て、ダリアはサッと部屋を出た。


*****


「風邪ですね。お薬を用意致しますので、体調が回復されるまで毎日三度食後にお飲みください」


 医者に手渡された薬包は見覚えがあり、以前にダリアも処方してもらったものだった。後宮に来たばかりの頃、環境の変化についていけず少々体調を崩してしまったのだ。


(そういえばあの時陛下がお見舞いに来てくださったっけ……)


 まだ誰とも親しくなくて、部屋にひとりで寝ている時間はとても心細くて。ラディムが扉を開けて顔を見せてくれた時、とてもホッとしたのを覚えている。


(……陛下は、心細いなんて思わないだろうけど)


 医者が帰り、二人になった室内は妙に静かで居心地が悪い。けれど荒い呼吸を繰り返すラディムを放っておく事も出来ない。


「……ダリア……?」


 名前を呼ばれてダリアは顔を上げた。ベッドの上に横たわったラディムが、目だけを動かしダリアへと視線を向けている。


「陛下。お加減はいかがですか?」

「……息苦しい」

「風邪だそうです。お薬をいただいたのでお飲みください」

「……」

「陛下」


 あからさまな沈黙に苦笑しながら、ダリアは薬包と水を差し出す。


「私も以前このお薬を処方していただきましたが、思ったより苦くはありませんでしたよ」

「……」


 無言で受け取りのろのろと薬を飲むラディム。同じものをダリアが飲んだと知って見栄を張りたくなったのだろうか。

 喉を鳴らして嚥下した後一瞬恨めしげに視線を向け、またのろのろと布団の中へ潜っていった。


「寒くないですか? 陛下」

「……ああ」


 少し汗ばんだ額をそっとタオルで拭き、ダリアはそばにあった椅子へと腰を下ろす。


「……戻らないのか」

「え? ええ、もう少し様子を……あ、お邪魔でしたら退室致しますが」

「いや……」


 目を逸らすラディムにダリアは首を傾げるが、出ていけという事ではなさそうなのでそのまま動かずにいた。せめて眠りにつくまではそばにいたい。

 かつてラディムがそうしてくれたように。


「お前、何か用事があって来たんじゃなかったのか」

「ああ、そうでした。でも明日でも構いませんし、今はゆっくりお休みください」

「……ふうん」


 短く呟いてラディムは完全に背を向けてしまった。やはり迷惑だっただろうかと不安になる。


「あの、陛下? 本当に私、お邪魔でしたら……」

「別に邪魔だなんて言っていない。いいからそこに居ろ」

「……はい」


 体調が悪いせいか、いつもと違ってダリアをからかいもしない。それが何だかむず痒くて調子が狂う。普段ならもっと真面目に生きてほしいと願ってやまないのに、こんな時は軽口のひとつでも叩いてほしいと思ってしまう。

 そういえばリーディエに対してはどうだったのだろうか。彼女はしきりに「優しかった」と感動していたから、あまりふざけた言動は無かったのだろう。


「もしかしてリーディエの事か」


 突然ぽつりと呟かれ、ダリアはぎくりと顔を強張らせた。見透かされたような気がしたからだ。


「あの、はい。お訪ねになられたと聞いて、お礼を申し上げに」

「……はぁ」

「何ですか」

「いや。それがお前の仕事だものな?」


 何故溜め息をつかれなければならないのか。ややムッとしつつダリアは頭を垂れた。


「ありがとうございました。リーディエ様も、とても喜んでおられました」

「ふうん」

「それでですね、私思ったんですけれど」

「お前がそういう顔をしている時は嫌な予感しかしないな……」


 どんな顔をしたか自分でもよくわからないが、気にしないで後を続ける。


「リーディエ様はなかなか素敵なお方だと感じました。控えめで、芯が強くて、ご自分の考えもちゃんと持っておられます。いかがでしょう、正妃の候補としてお考えになられては」


 一番はこれが言いたくてラディムの部屋を訪れたのだ。それをようやく理解したラディムは青い顔をひきつらせて盛大に息を吐いた。


「……仕事だものな……」

「いかがですか、陛下……きゃっ」


 覗き込むように身を乗り出したダリアの手が、グッと引っ張られる。王の上に倒れるのだけはとすんでの所で踏ん張ったが、体はぶるぶると震えていた。


「可愛い悲鳴だな」


 くすりと笑われ、ダリアは顔を真っ赤にしてラディムを睨み付けた。


(病人じゃ、病人じゃなかったら……!)


 無礼を承知で鳩尾に一発お見舞いしてやったのにと、唇を噛む。


「……俺は正妃を迎えない」

「そんな我が儘……」

「我が儘か。そうだな……我が儘か戯言か。俺のような立場の人間が何を馬鹿な事を、と鼻で笑われるかもしれないな」

「……陛下?」


 いつもとは違う真剣な目に、ダリアは首を傾げる。


「俺は、出来る事なら……自分が愛した女性を正妃にしたい」


 我が儘か戯言か。熱に浮かされたうわ言か。


「妃らしい事などなにひとつ出来なくても、例え身分が低くても……俺は俺が好きだと思った人間を伴侶としたい」

「それは……」


 初めて聞いたラディムの本音は、はいそうですかとは簡単には言い難い。彼は正妃を自由に選ばせろと言っているのだ。

 恐らく「それは出来ません」と言うのが正解なのだろう。けれどダリアにはどうしても言えなかった。ただ、掴まれた手が熱くて痛いと感じていた。

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