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そもそも自分は何の為に後宮にいるのだったろうか。清く正しく慎ましく精励恪勤に日々を過ごす為やってきたのではなかっただろうか。
そう。決して姦しいお妃様達から愚痴や嫌味を言われる為では無いはずだ。
「ダリア女史、聞いていらっしゃいますの?」
「ええお聞きしております。ええ……」
思わず溜め息をつきそうになり慌てて口を閉じる。この状況でそんな事をするのは自殺行為だ。
右に左に正面に。眉間にシワを寄せ唇を歪めた女性達がダリアを囲むように立っていた。後ろには誰もいないが、その代わり石壁の冷たい感触が背中に伝わってくる。
「陛下は昨日もいらっしゃらなかったわ。どういう事なの?」
「……陛下もお忙しい方ですから……」
「妃の元へ来る暇も無い程?」
「ええ、まあ」
本当は早々に帰ってきて、またも部屋でひとり酒盛りしていたなどとは口が裂けても言えない。そんな事を言い訳にしたって、ダリアがますます窮地に立たされるだけだ。
後宮管理人たるあなたがしっかりしないから……そう責められるのは目に見えている。
「……ねえダリア女史」
「はい?」
とにかく波風立てないように言動には気をつけなければ。陛下に振り回されているのは妃達とて同じ。ピリピリ神経を逆立てている彼女達のご機嫌を損なえば、一気に風当たりが強くなるのだから。
「私、先日目に入れてしまったのだけれど」
「はい?」
「あなたと陛下、随分仲が良いのね?」
正面に立つブロンドの妃が微笑を浮かべ、首を小さく傾ける。その目には穏やかさの欠片も無く、見目麗しいだけに静かな迫力に満ちていた。
次々と冷えきった微笑みを浮かべていく妃達を見て、ダリアは血の気をなくす。波風立てまいと思った直後に早速荒れそうなこの展開。盛大に天を仰ぎたい気持ちをグッとこらえ、冷静を装った笑顔を返す。
「そのような事はございません」
「あら、私も聞いた事があるわ。女史は陛下に遠慮の無い物言いをされるとか。余程くだけた仲でいらっしゃるのね」
「根も葉も無い噂です」
「火の無い所に煙は立たないのではなくて?」
妃達の気持ちはわからないでもない。妃である自分達の事はないがしろにするくせに、地味で平凡な後宮管理人とは仲良くしているなんて。面白くないのも当然だろう。たとえ事実が、マイペースでものぐさなラディムをダリアが叱りつけるという何の色気もない関係だったとしても。
「後宮に関するお話くらいは致します」
「けれど陛下は訪ねてきてくださらないわ。ねえ、まさかとは思うけれど……あなた陛下を誘惑していたりは……」
「滅相もございません。第一私のような者を陛下は相手にされないでしょう」
「確かに? 女史は少し……地味でいらっしゃるけれど」
鼻で笑われても痛くも痒くもない。元々自分が美人でないのは理解しているし、それを悲観した事も無い。
(……そういえばひとりだけ、大袈裟に褒めてくださった方がいたわね)
月も霞む美しさだとかなんとか。女性が苦手なような態度の割にああいった歯の浮くような台詞はスラスラ出てくるのかと、呆れたようにラディムの顔を思い出す。
何にしてもどうせ世辞だ。妃達だってダリアの事を気にするまでもない。平々凡々な容姿に、真面目過ぎる性格。甘えた態度など絶対にとれないダリアは、きっと仕事と結婚するタイプなのだ。ラディムも女性として見てはいないだろう。
「でもねえ、美人は三日で飽きるというし」
「陛下が下手物好きという可能性も否定できませんもの」
下手物扱いまでされるとさすがに微妙な気分になる。
「いえ、ですから……」
「これは何の集まりだ?」
女性だけの声が飛び交っていた所へ、突然男性の声が割って入る。ダリアは少し目を丸くして、妃達はサッと顔色を変えて声の方を振り向いた。
まだ昼間のこの時間帯にいるはずのないラディムが、笑顔を張り付けてゆっくりと歩いてくる。
「へ、陛下……どうしてこちらに」
「忘れ物を取りに。……で? 何をしていたんだ?」
顔は笑みを浮かべているのに声音はどこか冷たく、目には鋭い刃のような光がちらりと窺える。その空気はあからさまで隠そうともせず、妃達も肌で感じ取り緊張で身を強張らせていた。
「……後宮に関する意見などをお聞きしていたのです」
咄嗟にそう言ってしまったダリアを、ラディムの視線が捉える。
「陛下やお妃様が快適にお過ごしいただけるよう、ご本人にご意見を伺うのが最良と思いまして。後程陛下にもお聞きしようと」
「ふん?」
のらりくらりとした普段の様子とのギャップだろうか。静かに怒りを滲ませているのが非常に恐ろしい。けれどダリアも引くわけにはいかない。
「お妃様、ありがとうございました。そろそろお部屋にお戻り下さい。日が強くなってまいりましたので」
「え? え、ええ、そうね。そうするわ。では陛下、失礼致します」
ダリアの意図が伝わったのか、妃達は揃ってそそくさとその場を立ち去っていく。この間にラディムが何か言い出すのではないかという不安が、ダリアを一瞬たりとも楽にしてはくれない。
しかしそれは杞憂に終わり、妃達が完全に姿を消すまでラディムは唇ひとつ動かさなかった。ただ眉間にシワを寄せ、面白くなさそうにダリアを見つめていた。
そうして二人だけになったのを確認したダリアが溜め息をついた後、不機嫌そうな低い声で喋り出す。
「何だ、今のは」
「いえ、ですから後宮についてご意見を」
「そんな茶番にまだ付き合わせる気か?」
低い声に背筋が冷える。ダリアは観念するしかないと額に手をあてた。
「お妃様方がご不満を申されていたのですよ。何故陛下は一向に訪ねてきてくださらないのかと」
「む」
自分の事を話題に出されてラディムの眉が少し下がる。
「そこから話が変な風に飛びまして。その……私と陛下の仲を勘繰られました」
「何?」
「勿論ちゃんと否定しておきました! そんなのはデタラメもいい所ですし、陛下は私のような者を相手にはされないだろうと。お妃様は少々過敏になっていらっしゃるのです」
ふう、とダリアの唇から物憂げな吐息がこぼれ落ちる。
「私のような者と噂を立てられては陛下の名誉に傷がついてしまいますね……申し訳ありません」
これは本心だ。自分はまだしもラディムが下手物好きの烙印を押されてしまうのはあまりに申し訳ない。
俯くダリアの頬に、不意に熱が触れる。驚いて顔を上げると先程とはまた違う不機嫌さを醸し出すラディムが身を屈めてダリアを覗き込んでいた。
「え。あの、陛下」
「俺の名誉が傷付く? 何だそれは」
「え、え? えと、ですから……」
段々近付いてくる顔がどうして怒っているのか、ダリアにはまるでわからない。こんな所を誰かに見られたらまたあらぬ噂を立てられてしまうかもしれないのに、ダリアの体は動かない。
「へ、陛下……? その、何故怒っていらっしゃるのでしょう……。やはり噂がお気に召さないので」
「俺が気に入らないのはお前だが?」
「あ、え……も、申し訳ありません」
「何が悪いのか理解もしていないくせに謝るな」
ではどうすればいいのか。どうすれば離してもらえるのか。どうすれば逃げ出せるのか。
頭が真っ白になって何も考えられなくなる。
「……はぁ。しかしもとはと言えば俺が原因か」
「あ、あの?」
「ひとつだけ。お前との仲を噂されようが、俺の名誉に傷がつく事など有り得ない。自分をあまり卑下するな。……俺はお前の事可愛いと思っているしな」
「な!? なんっ……」
突然そんな事を言われてもどうすればいいかわからない。絶対世辞に決まっているのに、わかっていても顔が熱くなるのを止められない。
「陛下……っ」
「ん?」
絞り出した声は震えていて、それに気付いたラディムが小さく笑う。誰のせいだと思っているのか。
「そう、そういう、のは……お妃様方に仰って下さい!! 可愛いとかなんとか!!」
「またそれか。何故そうなる。俺が可愛いと思っているのはお前なのに。他の人間に言っても仕方ないだろう」
「あーっあーっ聞こえません! 聞こえません!!」
ダリアは耳を塞いで頭を振った。子供のような振る舞いだと自覚していたけれど、これ以上ラディムのペースに乗せられないようにしなければ。
「いいですか陛下! あなたがここ後宮で一番に考えるべきはお妃様の事です! 私にそんなお世辞言う暇があったら、今夜予定に組まれているリーディエ様のお好きな物でも贈る準備をなさったらどうですか!」
「リーディエ?」
「誰だとか言ったら殴りますよ」
不敬罪にも問われかねない物言いに、ラディムはぎくりと顔を強張らせて両手を上げる。図星だったようだ。
「……陛下……」
「いや、言い訳をさせてくれ」
「していただかなくて結構です。……ああもう、ますます私なんかに構ってる場合じゃないでしょう。ご自分の妃ですよ? 把握なさってください」
「正直皆同じ顔に見えてしょうがない」
「それは最低な発言です」
「しかし俺が選んだわけでもないし」
「え? そうだったんですか?」
それは初耳だ。けれど確かにラディムが自分で妃を選んでいたなら、彼女達をないがしろにするのは少しおかしい。
「父が……先代の王が俺に王位を譲る前、本当にガキの頃だぞ? あちこちの家に縁談の話を持ちかけやがった」
「言葉遣い」
「これくらいは大目に見ろ。……それで俺が即位した途端、皆こぞって娘や妹を差し出してきた。俺が断っても先王との約束だからと向こうも退かない。そのうち相手をするのが面倒臭くなって全部受け入れた」
対応が極端なのには嘆息を隠し切れないが、本人の意志をまったく無視の縁談と言うのも気の毒だ。もっとも、王族や貴族などにはそれが当然なのかもしれないが。
つまりそういう事だから、妃に興味が持てなくても仕方ないという言い訳のようだ。
「ですが陛下。結局はご自分がお妃様方を受け入れるとお決めになられたのですから。正妃を迎えるべき頃合いというのも事実ですし」
「ダリア」
「ちゃんと向き合ってもいない内から文句ばかり仰られるのは男らしくありません」
毎日毎日ラディムが来ないと不平不満をぶつけてくる妃達には確かに困っているのだが、今日は来るかもしれないと淡い期待に胸を踊らせる一面だってあるのだ。何よりダリアは後宮管理人。その務めは精一杯果たさなければならないと使命感が囁く。
ラディムは真剣に見つめてくるダリアから目を逸らし、口を閉ざした。痛い部分を指摘されて唇を尖らせる。
「……わかった。リーディエだったか? 彼女の部屋はどこにある」
「陛下……!」
溜め息混じりに呟いたラディムに、ダリアは輝かせた瞳を向ける。後宮にやって来てから今までで一番の達成感を得られたような気分だった。
「東の棟になります。後で場所を描いた紙をお渡し致します」
ニコニコ顔で答えるダリアを見たラディムは、反対に浮かない表情をしていた。ガシガシと自分の髪を掻き乱してまたひとつ深い溜め息をつく。
「複雑な気分だ」
「え? 何ですか?」
「何でもない。……なあ、条件を出していいか?」
ダリアはキョトンとして首を傾げる。
「条件」
「俺がリーディエの部屋を訪ねる代わりに頼み事を聞いて欲しい」
「ええー……本来は陛下の義務なんですよ? 何で私が……」
「じゃあ行かない」
「なっ……!」
子供か! と心の中で即座にツッこむが、現実では何とか耐えた。本当にこの王様は質が悪い。
「し……っ、仕方ないですね……! 私に出来る事ならなんなりと」
「ダリアにしか出来ない事だ」
そう言って唇の端を上げ、ラディムはダリアの頭をそっと撫でた。幼い頃父親にしてもらったのとは何かが違う。手のひらの大きさに大して違いなど無いはずなのに。
心臓が急に速くなるのを感じてダリアは頬を染めた。
「わ、私にしか?」
「そうだ。でもそんなに難しい事じゃない。……俺の方が先で良い。リーディエの部屋を訪ねた事が確認出来たら、着飾ってみてくれないか」
一瞬何を言われたのか理解出来ずに、ダリアの首が斜めに傾く。
「……着飾……?」
「一日だけで良い。ドレスを着て髪も整えてアクセサリーを着けて、その姿で俺の前に現れてみせろ」
「誰が」
「お前が」
人差し指を突き付けられ行儀の悪さを指摘する余裕すら無く、ダリアは思いっきり顔をしかめて悲痛な叫び声を上げた。




