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 まだ夜が明け切らない、空が薄暗い時間に彼女の一日は始まりを告げる。ベッドの上で伸びをし、軽くストレッチ。体が幾分か解れた所で本格的に活動を始める。

 地味過ぎないシンプルな服に袖を通し、髪は後ろで一纏め。気休め程度の薄化粧を施した後、寝起きとは思えない程機敏な動きで部屋を後にした。

 彼女が向かう先は、朝食の支度をする為に女官達がせわしなく動き回っているであろう、厨房。近付くに連れて食器が触れ合う音が大きくなってくる。


「おはようございます」


 凛とした、しかし堅すぎず穏やかさも込めた声音で挨拶をすると、作業をしていた女官達が一斉に振り向いた。


「おはようございます、ダリア様」


 挨拶を返しつつも手は止めない。それを見てダリアは満足げに頷き、自らも腕まくりをして水で手を洗い始めた。


「何か問題はありましたか?」

「いいえ、特にはございません」

「それは良かった」


 使い終わった調理器具を洗いながら、ダリアは笑顔を見せる。女官達も誰ひとり不満そうな顔をせず、順調に作業を進めていく。


「味見をお願いできますか?」

「あ、はい。貸してください。……ん、大丈夫です。丁度良い」

「ダリア様ー、グラスはどうしましょうー」

「今見に行きます」


 女官達は事あるごとにダリアを頼るが、どれもひとつひとつ丁寧に解決していく。それが彼女の仕事だからだ。


「さて。そろそろお部屋にお持ちしましょうか」


 皆起き出している頃だしね、と明るくなった外を一瞥して腰に手を当てた。女官達がその言葉に従い、出来上がった料理をトレイに乗せていく。

 なにもかも順調で素晴らしい。よく働く女官達には後でお茶でも用意してやろうとダリアが考え始めた時、不穏な音が耳に入り込んだ。

 遠くから段々近付いてくる、バタバタという忙しない音。誰かが廊下を走る音だという事は、その場に居た全員が気付いていた。女官達は一斉にダリアを振り返り、気の毒そうな表情を彼女に向ける。

 音が最高に大きくなった瞬間、勢い良く女性が厨房に飛び込んできた。涙ぐみ息を切らして、一直線にダリアへと向かっていく。女官達はこの事態から逃れるべく、そそくさと料理を手に次々と出ていってしまった。

 この切羽詰まった様子の女性が、何の為に自分の元へやって来たのか、ダリアは既にわかっている。


「あの、シェンナ様」

「ダリア女史!! 聞いてください!!」


 こちらの話など一切聞く気の無い女性に肩を掴まれガクガク揺さぶられながら、ダリアは頭が痛くなって思わず天を仰いだ。


*****


 朝食のトレイを手に廊下を歩くダリアの顔は険しい。擦れ違う女官は例外無く全員が憐れみの視線を注ぐ。


「昨夜も?」

「そうみたい」

「ダリア様、お可哀相に」

「ファイトです!」


 小声で交わされるそんなやり取りが聞こえ、ダリアは溜め息をつく。この苦労をわかってくれる人が居るだけ、まだマシなのかもしれない。

 目的の部屋に近付くに連れ、眉間のシワも深く刻まれていく。絨毯がなかったら足音は建物中に響いていたかもしれない。


(まったく! まったくもう!)


 怒りに脳内を支配されてうっかり通り過ぎてしまった後、ゆっくり目的地まで後退する。

 数ある部屋の中でも一際仰々しい装飾の施された扉。部屋自体も一番広く、日当たりが良い。この中で今も暢気に惰眠を貪っているであろう人物を思い浮かべれば、自然と目も吊り上がる。


(この!)


 トレイを左手で持ち、自由になった右手が扉へ向けてストレートなパンチを放った。案外重そうな音がして、傍に控えていた女官がびくりと肩を震わせる。


「朝食をお持ちしました。失礼します」


 地獄の底から這い出るような声で告げると、中からの返事を待たずにダリアは扉を開けた。カーテンは閉まったままの、薄暗い室内。ベッドの上の塊は規則正しいリズムで小さく上下している。

 トレイをテーブルの上に起き、ダリアは思い切りカーテンを開けた。光が一気に室内を明るく染め上げる。

 ベッドの上の塊はまだ動かない。枕元のサイドテーブルには酒瓶が数本。それを見た瞬間、ダリアの中でぷちりと何かが切れる音がした。


「起床ー!!」


 何かの号令のように叫び、容赦無く布団を剥がす。その下から現れたのは柔らかなブラウンの髪をぐしゃぐしゃに乱した、寝間着姿の青年。閉じたままの瞼は眩しそうにぴくりと動き、やがてゆっくりと押し上げられた。


「おはようございます、陛下」

「……おはよう。……朝食?」

「ええ。ご用意が出来ました。でもその前に」


 すぅ、とダリアは息を吸い込み、次の瞬間爆発させた。


「昨夜もお妃様のお部屋に行くのをすっぽかしましたね!? シェンナ様は大変落ち込まれていました! 先程私の元を訪れて泣きながら延々と恨み言を申されていったのですよ!? せっかく私が色々調整しているのに毎度毎度台無しにして! 愚痴を言いたいのは私の方です!!」


 鬼の形相で詰め寄ると、青年は気まずそうに視線を逸らし、もごもごと言い訳を始めた。


「昨夜は……仕事が長引いて」

「嘘おっしゃい。そこの酒瓶は何ですか」

「……寝酒に……」

「寝酒に四本も五本も飲まれるんですか」

「……」


 じっとりと睨み付けるととうとう青年は黙り込んでしまった。しかしこれが反省の為の沈黙ではなく、どうやって言い繕うかと思案している沈黙なのだとダリアは痛い程理解している。


「陛下。悪いと思っていないでしょう」

「いや、お前に迷惑掛けてるのはすまないと思っているよ」

「私ではなく、お妃様へ謝罪をお願いします。シェンナ様だけではありませんよ。その前はユリア様、その前はレミ様……全部すっぽかしてるのだから全員に」

「では後で花でも届けさせよう」

「だから……」


 花よりもまず先に直接会いに行くべきだろう。ダリアは言葉を詰まらせて額を押さえる。


「宝石の方が良いか?」

「そういう問題ではありません。まったく……陛下がそんなだから調整役の私にまで矛先が向くじゃないですか」

「じゃあ今日からやめればいい」


 にっこり笑う青年は、今口にした言葉にもたいした意味など込めていないだろう。深く考えていないからこそ、ダリアの神経を逆撫でするのだが。


「では、正妃をお迎えになるんですね?」


 作り笑いでそう返すと、途端に青年は苦い表情になった。薮蛇を突いた気分だろう。


「それとこれとは話が違う」

「いいえ違いません。お妃様の管理は本来正妃の役目でしょう。今はまだお迎えになられていないので私が代わりを務めているだけです」


 ダリアはそもそも後宮管理人であり、妃の管理は管轄外だ。二十歳という若さながらも、父の後ろについて色々と仕事をこなしていた姿が国王陛下であるラディムの目に留まり、後宮管理人にならないかと話が持ち掛けられたのだ。

 後宮の女官達をまとめ、食事や清掃等を行わせるのが仕事だと聞き、そういう内容なら自分に向いているかもしれないと頷いてしまったのが運の尽き。蓋を開けてみれば正妃の居ない後宮で妃達の管理までしなければいけないという、とんだ貧乏クジを引かされてしまったらしい。

 何が楽しくて王の夜伽の相手を毎日決めなければならないのか。その日の妃の気分や体調まで考慮して、偏らないように頭を悩ませる。それでも一生懸命考えて調整したが、今度はその王自身が決まった妃の部屋を訪れないときた。

 前々からそうだったらしく、前任の後宮管理人は妃の愚痴や厭味を一身に受け続けついに体を壊したのだそうだ。そんな過酷な役職に就いてしまった事を後悔していないと言えば嘘になるが、責任感の強さと真面目さが仇になってしまった。一度与えられた仕事を投げ出せるわけもなく、今日も今日とて王に振り回されながら妃達の管理に頭を悩ませているのだった。


「私がお妃様方の管理をやめる時は、正妃の方に引き継いだ時です」

「本当に仕事熱心だな、お前は……」

「恐れ入ります」


 青年、ラディムは苦笑して腕を上へ伸ばした。


「仕事で疲れて帰ってきて、更に女の相手をしなければならないなんてしんどいだろう」

「お妃様は陛下を癒す為の存在ですよ」

「どうせどうでもいい事を長々と語り媚びを売るような態度しか取らないに決まっている。面倒臭い」

「どうでもいい事が心を休ませる事もあります。媚びを売るのは陛下をお引き止めしたいからです。なかなかいらっしゃらないから」

「お前も言うな」


 楽しそうに笑う顔は少し子供っぽくて、普段の冷静な態度とのギャップにドキッとする。寝起きだからだろうか。

 ラディムはベッドから降りて立ち上がり、ダリアを見下ろした。


「お前と話すのは楽しいよ」

「……それは」

「恐れ入りますって言わないんだな」

「私はそういう立場にありませんので」


 ダリアは後宮管理人であり、ラディムの友人では無い。自分との会話を楽しむよりも妃との会話に勤しんで欲しいと溜め息をついた。


「正妃をお迎えにならないのには何か理由がお有りですか?」


 ダリアの苦労など気にも留めないラディムは、朝食のパンをかじりながら顔を上げた。


「面倒臭いからだが」

「どこがですか」

「全部」


 何でこんな人が国王なんだろうと無礼過ぎる考えが頭をよぎる。それをどうにか振り払い、ダリアは咳ばらいをした。


「ですが陛下、もう二十五になりますでしょう。きちんとした正妃をお迎えになってもおかしくない年頃です」

「そうは言ってもなあ」

「私も精一杯お手伝い致しますから。もう既に何人か候補に絞ってあります」

「え」

「陛下に見合うような素晴らしいお妃様を選びましょう! 陛下はちゃんとしていればとても優秀な国王なんですから!」


 段々説得に熱が入りダリアは頬を紅潮させて拳を握る。その様子をキョトンと眺めていたラディムは、不意に腹を抱えて笑い声をあげた。

 今度はダリアの方が目を丸くし、肩を震わせる国王陛下を見つめる。


「な、何ですか? 何で笑うんですか?」

「ああ、いや……お前の目から見てそんなに俺は優秀か?」


 ニヤニヤと口の端を持ち上げて笑うラディムに、ダリアは顔を熱くする。


「ちゃんとしている事前提ですけど」

「ふうん?」


 含みのあるような声を漏らし、ラディムは数口しか食べていない朝食をそのままに着替え始めた。いきなり無造作に服を脱ぎ出され、ダリアは慌てて背中を向ける。

 背後から聞こえてくるきぬ擦れの音がやたらと緊張感を煽るが、こんな事くらいで動揺を見せるわけにもいかない。女官達など着替えを手伝ったりもするのだから。


「お、お食事、お口に合いませんでしたか?」

「いや? 美味かった。全部食べられなくて悪いな。今日は色々やる事があるのを忘れていた」

「それなら、良いんですけど」


 食事に関してはまさに自分の管轄だ。不味かっただろうかと不安になりもする。


「せっかくダリアが高く買ってくれているからな、優秀な国王陛下は仕事を頑張ってくるよ」

「私の事はいいですから……あっ、今夜はちゃんとお妃様を訪ねてくださいよ? 今日はインドラ様……」


 釘を刺しておこうと振り返ったダリアの目に映ったのは、誰も居ない室内。扉の外に控えていた女官がそうっと顔を出し、控えめに口を開く。


「あ、あの、陛下でしたらもうお出になられました……」


 ダンッという音に女官の顔が引き攣る。笑顔で拳を壁に叩き付けたダリアからは寒々しくどす黒いオーラがだだ漏れになっていた。

 逃げやがった。きっと今夜も妃の元には訪れないのだろう。そして明日の朝も妃から愚痴られ詰られの理不尽が襲い掛かるのだ。

 胃が痛むのを感じながら、ダリアはついに叫んだ。


「いい加減に、しろー!!」


 きっと耳に届いただろうに、あの国王陛下は楽しそうに笑っているに違いない。

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