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明治逢戀帖  作者:
第一章 逢偶ノ刻
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「そう……ですか。ええ、それは、うん。大変ですね」

 千紗の話を聞いた先生の、開口一番がそれだ。

 全然大変そうじゃない先生の口調に、もしかするとこの状況ってそんなに悩むことでもないんじゃないか―――と思ってしまった自分の思い込みの強さが恥ずかしい。

「疑わないんですか? たとえば……泥棒とか」

 恐る恐る聞いた千紗の問いに、先生は軽やかな笑い声をあげる。

「だとしても、電気を引く余裕すらない私の家なんかに盗られるものなんてありませんよ。泥棒なら……そうですね。この時間まで掃除を手伝ってくれるのなら、泥棒でもむしろ大歓迎でしょう?」

 先生の物言いに千紗は思わず噴き出した。

 電灯をつける人が多いこの近所ではいまだランプを使っている先生の家は珍しいらしい。少々割高でも使い勝手のいい電気をなぜ取り入れないのか。千紗が興味本位で聞いてみると「眩しすぎるし、もったいない」と返ってきた。

(眩しすぎるって……虫じゃないんだから)

 どうにも先生の価値観は千紗には一朝一夕では理解できない。

「千紗さんのそれは、まるで「胡蝶の夢」のようではないですか」

 先生は、ほうと自分の思いつきに満足したような吐息を一つついて、ほんわかと笑った。

 落ち着いているその姿は、先ほど我を忘れて千紗ににじり寄り大目玉をくらった(主に那美子に)この家の主とは思えない。

 目の前に置かれた湯呑に静かに口をつける。

 正座した千紗の前には四つの湯呑が乗ったちゃぶ台。

 先ほどまでは大根の煮つけに焼き魚、菜っ葉のあえ物が乗っていたけれど今はもうその影もない。いつもなら母親に作ってもらった癖に「食べたくない」と文句をいう味噌汁やあえ物も、今日は何も残さず食べた。

 どことなく苦みの残る野菜は、今まで千紗が食べてきたどんなものよりも味が濃く歯ごたえが抜群だ。

 何度も噛まなくていけないご飯には四苦八苦したけれど、結局出されたものを全部平らげると食事を用意してくれた那美子は嬉しそうに笑った。

 何度も洗い物をするため立ち上がった千紗の手伝いの申し出を那美子が固辞したので、千紗はやっと今日ここに来た理由をこの家の主に説明していた。

 未来から来た、という奇妙奇天烈な話はすぐには受け入れがたいだろう。

 千紗は気づくと新橋に立っていて、今は自分がどんな人間でどこへ帰ればいいのかさっぱり見当もつかないということだけを、たどたどしく話した。

 千紗の話が終わるまで桐野はその場に入ることもせず、難しい顔をして部分が剥がれかかっている障子に背を預けていた。

 目をつぶっていたから、結局今日の疲れで眠り込んでいるだけかもしれない。

 夜になれば千紗をここに置いてどこかに行ってしまうのではと不安だったから、眠っていたとしても桐野がこの場にいてくれるだけで十分に心強い。むしろ起きているとどんな厭味がその口から飛び出してくるか、わかったものじゃないので黙って座っていてくれるだけで満足だ。

 聞き覚えのない言葉に千紗は首を傾げ繰り返す。先生の言葉はいちいち難しすぎていけない。

「こちょうの……ゆめ?」

「ええ、荘子の説話ですよ。夢の中で目覚めると蝶になっていた男が、目覚めてどちらが本当の自分なのかわからなくという話です」

「……どっちが自分……?」

 はたして今の千紗が「千紗」と言えるのだろうか? 鏡を目にしていないこの世界で制服を着ていたはずなのに海老茶色の袴を履き、ほんのり茶色がかった髪の毛は黒く艶めいている。

 運動音痴は言わずとも、ほどほどの運動(主に体育)をこなしてきた手足は筋肉質とまではいかないけれど締まっていたはずなのに、まるで何年も運動をした覚えのないように細くたおやかだ。

(この世界が私の生きる場所なんてことは……絶対にないと思う)

 千紗は揺らぐランプの灯りをみつめた。

 この世界にとって、今の千紗はランプの炎のように危なっかしい。吹き消せば、それこそ「胡蝶の夢」のごとくあっさりと溶けてしまうくらい儚げだ。

 気持ちがおぼつかなくて、千紗は桐野を振り返った。

 目を瞑っていたはずの桐野はすでに目を開けていて、千紗の不安げな視線を受け止める。

 何かを思案する風な顔はついさっきとはいえ出会った時から変わらず、間に芽生えた何かの感情は千紗が掴むまでもなくすぐに霧消した。それで決心する。

 ちゃぶ台に近付いていた体をずらし、千紗は頭を下げた。

「私……なんでもします。なんとか、ここに置いてもらえないでしょうか?」

 さらさらと流れる黒い髪は座敷の畳に広がった。

 これを断られてしまったらもういる場所などないのだと思うと千紗は怖くて仕方がない。

 先生の返答を待たずに、畳に額を擦り付ける。

「お掃除でも買い物でも、できることなら言ってくれれば文句も言いません。もし、記憶が戻ったならすぐにここを出ていくことをお約束します。勿論、失った記憶をもとに戻すために努力もします。お願いします」

 もし夢の中で目覚めるのなら、千紗も蝶であればよかった。

 こんなに不安に思うこともなく、きっとふわふわと飛んでいられただろう。気持ちよく風に揺られ、いつか夢が覚めるその時までもうひとつの自分を疑問なく楽しむことができただろうと思う。

 夢と割り切ればいいのだと簡単に思い込むにはこの夢は長すぎて、目覚めの時をぼんやり待つ時間なんて残されていない。

「その人は――――」

「え?」

 千紗が顔を上げると、先生が桐野のほうを見て楽しそうに笑っていた。

 似合わない金縁眼鏡は着物の胸に収まり、千紗が雑巾で殴りつけた額はまだ赤くなったままだ。

 千紗がその視線を辿り振り返った先で、ゆらり揺らぐ炎がまた目を瞑ってしまった桐野の横顔を照らした。

 何か言いたげな表情。桐野の唇がわずかに開き、視線が先生を経由し千紗に辿り着くと躊躇したように口ごもってしまう。

 もしかして桐野はこの「千紗」の何かを知っているのかもしれない、とほんの少し思う。

 何も知らずに見も知れない人間を連れてくるのはどうにも都合がよすぎる話だ。いくら行く当てがないと頼られたとはいえ、千紗であれば警察にでも連れていくのが本当だろう。

(でも……桐野さんはここに連れてきた)

 千紗を警察に連れていくことができないのだと、桐野は判断したのかもしれない。千紗が目覚める前、何かが理由で道にしゃがみこんだ経緯を桐野は見ているのだ。

 だからこそ、あの時「大丈夫か」と手を伸ばした―――――――――――――――?

 桐野が助けようとしたのは「現代の千紗」なんかじゃなく、この「もう一人の千紗」だ。海老茶袴を身に着け、たおやかな手足の女性。もしかすると鏡で見ると、顔は千紗と比べくもなく美しいのかもしれない。

 胸に重石のようなものがのしかかり、千紗は俯く。

 それでも何とかここに居場所を作らなくてはいけなかった。いつかこの夢が覚めて、千紗が帰る日まで。

 もう一度、千紗は頭を下げる。

「お願いします」

 先生は静かに手を伸ばすと、湯呑を隠すように両手で包み込んだ。

「……蝶になったその人は、現と夢をどちらが良いと思ったのでしょうか? それとも、どちらもまた自分であると思えたのか、只の人間でしかない私には図り知ることができないのですよ」

「……………」

 千紗は黙りこくった。

 現と夢、どちらがいいかなんて一目瞭然だ。この意味不明な夢が早く明けてくれることを祈っている。

 先生は、湯呑に唇をつけて微笑んだ。つけていないはずの金縁眼鏡が曇っているように見える。

「あなたがどちらを選ぶか、その時まで見守るとしましょうか」

 その言い方ではまるで記憶を失ったのだという千紗の話ではなく、時を飛んできた本当の千紗のことを言っているかのようだ。

(記憶を戻すのか、戻さないのか。そういうことを言ってる……んだよね?)

 その時、穏やかで優しげな「先生」を千紗はほんの少し怖いと思った。


 ぼおん、ぼおん、と時計の鐘が鳴っている。

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