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明治逢戀帖  作者:
終章
61/61

1 金田独白

「千紗君。

 今、君の居る時代の季節は度の季節なのだろうか?

 此方は今、春なのだ。まるで雪片のような花弁が沢山降り積もって居るよ。

 儚く脆く、凄く綺麗だ。僕は桜がとても好きなのだよ。ほら、僕の名前こそ桜のようなものだろう?


 此の僕の手紙は、手紙としては少々礼を失する嫌いに在る。然し、まあ構わないのだろうよ。知っての通り、此の筆記本は手紙なのではなくて日記なのだからね。僕は桂木 伊沙子嬢の日記の後ろに此れを書いて居るのだ。

 未来の君に伝えようとすることは別にない。此れは然うだな、只の僕の自己満足なのだ。

 君が逝く前に僕に言い伝えていた子とを、確実に守って居るのだと云うのを僕は只、文字にして残したかっただけなのだ。

 だから、此の筆記本を開いた未来の君が、薄気味悪く思って閉じて仕舞っても構わない。好いね?


 君が僕らの前を去ってから、彼の先生は君を追いかけるようにして、丁度一か月後の十二月九日に其の命を終えた。あれだけ神経衰弱やら胃病やらで細々悩まされたと云うのに、驚くほどに呆気ない幕切れだったのだ。門下生を名乗る僕と桐野君の方が呆然として仕舞ったくらいだよ。

 今わの際に先生は伊沙子嬢の名前を一度だけ呼んだのだ。君への想いも伊沙子嬢への想いも全て其れで昇華出来たのだろうか。彼の死に顔は実に穏やかで、静かで眠るような最期だった。


 君が最期まで案じていた桐野君は矢張り、僕が止めるのも構わず、志願兵として西ベリア利・ウラジオへ頑固にも行って仕舞った。英文の書ける高商出身の兵募集に志願した桐野君は、あれだけ視力が弱って居た上に高商中退なのにも係らず、徴兵検査を通過して仕舞ったのだ。

 君を失って、彼の心に遺されたものは何だったのだろうか? 僕にまだ幼さ残る弥千子を預けて、彼は君からの手紙だけを持って戦場へと出兵したのだよ。そして何を思ったのか、生き急ぐように志願して前線へ立ち、結局は病に倒れ、早々に逝って仕舞ったのだ。

 此処まで師弟ともに似なくても良いと思うだろう? 実にあっさりとした最期だ。長く友人を勤めた僕に一言も告げずに逝く等、むしろ素っ気ないくらいだとは思わないかね。なんてせっかちな男なのだろうか。縁を切れと簡単に云ったこともあったな、やっぱり友達甲斐の無い男だ。

 君は屹度、止めても聞かない男なのだと諦めて居るのだろう。確かに僕如きが彼を止めることが出来るとは思えない。彼を動かすのは、いつもどの様な時も君だけなのだからね。

 結局、桐野君が受け継いでいた先生の英文学の研究は、僕が総て受け入れることになって仕舞った。

 折角、本も売れ始めたというのに桐野君は馬鹿だろう? 文豪と云う名と娘を置いてまで戦場を選ぶなど、其んな馬鹿な男を僕は友人に持った覚えはないのだよ。其んな友人など僕は要らないのだ。

 と、云うのに如何してだろうか。彼を失ってからと云うもの、僕は哀しくて仕方がない。先生と桐野君、其して君までも居ない人生は何て味気ないのだろうか。


 然し今、僕の膝の上には君の遺した幼い宝物が眠っている。

 何度言い聞かせても布団では眠らずに僕の傍で眠るのだよ。然う云えば君も言い出したら聞かなかったな、頑固なのは血だろう。

 弥千子の怖がりは、僕や桐野君が止めるのも聞かず、君が何度も驚かした所為だと思うのだけれど如何なのだろうね? 弥千子には僕から、いつしか産まれて来る君に仕返しをしておけ、と言って置くつもりだ。其の時になって思い知るが良いよ。

 君が望む通り、僕が彼女の後見となって立派に育ててみせる。少しばかり普通の女性とは違うとは思うが、其れは君も覚悟の上だろう?


 然う然う、君が言って居た通り、未来の記憶を保てない君の代わりに弥千子の名前は僕と桐野君が考えたことにしておいたのだけれど、桐野君は其れを自分だけの手柄にして仕舞いたくて仕方がなかったようだよ。なんて大人げない男だ。其れくらい僕に譲って呉れても良いと君も思わないかね。

 早逝すると運命で定められて居る君は、弥千子に自分の両親のことを覚えて居て欲しいのだと言って居たね。

 弥千子、と名付けた君の宝物には、僕から沢山君たちの話を伝えておこう。良いことも悪いことも、総て包み隠さず話しておくから覚悟するように。

 まずは桐野君のことを頑固者とでも言っておくとしようか。

 千紗君のことは然うだな。珍妙な娘だったとでも言っておこうか? おっと怒らないで呉れ給えよ。僕に頼んだ君が悪いのだ。

 弥千子に君等がどんな情熱的な愛戀をしたのか、伝えて見せようとも。


 君は結局、千紗君としての記憶は沢山忘れて仕舞ったが、責めて僕にだけは必要なことを云い遺しておいて呉れたことを感謝するよ。

 言われた通りに僕から結婚祝いとして贈った二竿の箪笥には隠し細工をしておいた。中央右引き出しの奥だったね? 此の日記は其処に隠すよう、成長した弥千子には伝えよう。勿論、此の日記のことは伏せて置くよ。君も弥千子に此の手紙を読まれるのは本意ではあるまい。

 然うだね。いつしか弥千子が育った時、彼の先生が伊沙子嬢と君に贈った真珠のピンもまた其処に仕舞うように伝えよう。屹度、君は其れを見つけ出すのだろうね。

 其の時の君はまだ、巡り来る運命を知らないままなのだ。考えると胸が躍るようだよ。


 十七歳で此の地に降り立った君が、たった三十歳という余りにも若過ぎる寿命であることを、僕は知りつつ桐野君は勿論、誰にも話さなかった。年々、未来の記憶を失って往く君にもまた、僕は話さなかったのだ。其の判断を僕は間違って居るとは思っては居ない。

 君と桐野君は実に仲睦まじく、終わりの時が近付いて行くのを知る僕は、何度其の運命を呪ったのだろうか。僕もまた、君たちの時間を見て居るのが余りに幸せで、其して君を失いたくはなくて必死に足掻いたのだ。

 然し定められた運命と云うものは残酷なものなのだね、あっさりと君を連れ去って仕舞った。

 其れでも、僕は此れを知って居たのが僕だけで良かったのだと思って居る。

 千紗君が其んな若い身空で命を失うのを知れば千紗君の意思を無視して、度の様なことをしても元の時代へ帰そうとする男が約二人ほど居ただろうからね。彼らの説得は屹度、骨が折れただろうよ。


 千紗君、君は其んな短い時間だったけれど幸せだったのだろうか?

 然し、短いながら愛おしい男と生き、あっという間に明治から大正を駆け抜けた君は、屹度其れでも良いと笑うのだろうね。其してまた、屹度桐野君と巡り逢い愛戀をする運命を君は迷いながらも強い心で選ぶのだろう。

 君は然う云う人だ。


 弥千子が僕の膝で眠って居る。

 僕が眠る君の寝顔を見たのは本郷でのたった一度だけだったけれど、弥千子は驚くほどに君に良く似て居るよ。

 叶うのであれば、君の隠し持つ情熱的な一面を彼女にも持って欲しいと僕は願うのだ。此の時代に負けずに、自分の大切なものを自らの力で掴み取って行って欲しい。

 屹度、出来るのだろうよ。

 何故なら弥千子は、千紗君。僕の愛する君と僕の大切な友人である桐野君の心を継いで居るのだから。


 弥千子の、弥とは渡って往くという意があるのだ。幾千の夜を往き、君の子供達はいつしかまた千紗君、君と云う朝に辿り付くのだろう。千の薄絹を重ねた紗の着物を羽織る君の元へ。

 其して、違う僕に逢いに来て欲しい。

 然うなれば、また存分に君と桐野君の紡ぐ物語を見せて貰うとするよ。

 

 君は、永遠に繰り返し綴られる「明治逢戀帖」の主人公なのだから。


             桜舞う明治東京の空より  君待つ桜」


                

  

              「明治逢戀帖」  ――― 完 ―――

長い間、有難う御座いました。


後日談ですが「明治爾今帖」も御座います。細やかですが併せてどうぞ。


 参考文献

〇明治のお嬢様 角川選書 黒岩比佐子著

〇明治・大正人の朝から晩まで 素朴な疑問探究会(編)

〇NHK歴史への紹介8 日本放送出版協会 鈴木健二著

〇新潮日本文学アルバム 夏目漱石 新潮社

〇「百年前の日本-モースコレクション」 小学館

〇文豪ナビ 夏目漱石 新潮社文庫編

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