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明治逢戀帖  作者:
第十章 逢戀帖
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 深く吐息つく自分の胸の動きで、千紗は沈んでいた夢の最中からゆっくりと目覚めた。

 薄く開けた向こう側に開け放たれた障子が見える。

(……あ、猫)

 縁側で日向ぼっこをしている猫は、うららかな日射しに大きな欠伸をした。千紗の視線に気づくなり不機嫌そうに縁側を飛び降り、どこかへ消えていく。寝転んだままで見える庭木はまだ緑僅かで、板塀しか見えない庭は随分と殺風景だった。

 陽光射し込む縁側の上には、桜色の花弁。

 つい先ほどまで見ていたような夢のことを微かに思い出す。良い夢だったのか、胸に残る温かな気持ちは覚えているのに、それ以上思い出すことが出来なかった。

 吹き込んで来た風はどこからからか花弁を運ぶ。まだ重い腕をやっとのことで動かし、千紗は丁度枕の横に滑り入ってきた小さな桃色を目の前に拾い上げた。

(……綺麗)

 視線を動かせば、片膝を立てた姿勢で障子を背にし桐野が居眠りをしていた。

 袴の裾を片足の踵で踏ん付け、両手の先は袂にしまい込んでいる。きっと寒かったのだろう。障子を開け放つ時期にしては、風が少し冷たかった。今はきっと、春は来たばかりなのだ。

 ゆっくりと起き上がると、布団が胸から滑り落ちた。

 体は温かなままで、千紗は両手を軽く開閉し、頬に触れる。耳を澄ましても自動車のエンジン音も、飛行機が飛んでいく音も、騒がしいテレビの音も聞こえない。聞こえるのは、規則的な桐野の寝息だけだ。

 枠線を無視し紙一杯に書き込まれた原稿用紙が、桐野の周囲に広がっている。

「……逢う……?」

 近くにあった一枚を手に取って千紗が読んで見ても、書いてあることを読み取ることは不可能だ。

(みみずが這った文字みたい)

 眠る桐野の足元に置かれた皿のインクは乾き切っているようだ。恐らく結構前から眠りについているに違いない。千紗が目覚めたことにも気付かず、気持ち良さそうに桐野は穏やかな寝息を立てている。余りに気持ちが良さそうで起こすことに躊躇した。

「疲れて……いるのかな」

 下半身を布団の中に入れたまま、桐野の顔を覗き込む。

(早く起きて名前を呼んで欲しい)

 そう思っているのに、こんなに穏やかな顔で眠られると起こすことなんて出来ない。

 全く険を感じない子供のような寝顔だ。触れたい気持ちを、千紗はぐっと胸に押し込める。布団から上半身を起こしたまま、部屋を見渡した。

 最初、本郷に来たばかりの頃に住んでいた客室はあの時と殆ど変わっていなかった。床の間に置かれた洋書の山もそのままだ。

 部屋の端には、先生の紫檀の文机よりも一回り小さな見慣れない文机が置いてある。机の存在意義を完全に無視した無法地帯の机上は、乱雑に本が積まれ原稿用紙が雪崩落ちている。

 飲みかけの湯呑と水差しが枕の横に置かれた盆の上に鎮座していた。小脇に置かれたカレンダーには、桐野の物なのか、筆で小さなバツ印が書き込んである。

「今はもう……春なんだ」

 小さく呟く。千紗は布団を避けると立ち上がった。

 体が重く、自分の体ではないみたいだ。ふらつく足は細く、随分と長い間眠っていたのだとわかった。髪の長さは現代の千紗と同じ長さになっていた。指で辿る首の傷も偶然なのか、同じ場所にあることを凹凸で教えてくれる。

 裸足を畳の上に下し一歩前に出すとよろめき、急いでもう一歩前に踏み出した。

(変なの)

 まるで産まれたての仔馬のような自分の姿に千紗が思わず小さく噴き出した。

「随分と危なげな足取りだね、千紗君」

 恐る恐る歩く千紗を、障子の向こう側から聞き慣れた声が笑った。掴み給え、と声の主は障子の向こうから腕を突き出してくる。

(大丈夫……とは言えないか)

 少し躊躇してから観念して、千紗は出された腕に片手を乗せる。

「……ありがとうございます」

 金田の手を借りてもまだ危なげな足取りで、千紗はよたよたと廊下まで出た。

 障子の向こう側では、三つ揃えのスーツ、英語講師と云うよりも青年実業家にしかまるで見えない端正な顔がこちらに向けている。眩しそうに千紗を見遣る金田は、最後に会った時よりも随分と空気が和らいでいた。

(あの日は散々だったから)

 金田と別れたのは、上野精養軒の玄関だ。小柄を受け取り千紗は二階へと向かった。それで最後だった。

 千紗の頭から足先まで視線を素早く走らせると、金田は細めた目を元に戻す。

「気分は如何かね」

「少し変な感じがします。ついさっきまで夢を見ていたみたい」

「……不思議だな。伊沙子嬢も目覚めた時、君と同じようなことを言った然うだよ。君達の夢と現は境目が曖昧なのだね」

 千紗は自分の手を見下ろした。

「これも夢でしょうか?」

「……夢では怖いかい」

 金田の問いに、千紗は震える唇を開く。

「でも……自分で決めて戻って来たんですから」

 それでもいいのだろう。千紗は、ゆっくりと庭へ視線を戻すと「大丈夫」と小さく言った。

 はらりと花弁が縁側へと誘われてきた。近くに桜の木があるのか、何枚もの花弁が廊下を彩っている。障子の向こうに桐野の背がある。余程深い眠りに入っているのだ。話し声を聞いても、起きる気配は全くない。

 静かな衣擦れの音の後、金田の脱いだ上着が寝間着姿の千紗の背に掛けられた。顔を上げた千紗の方を向かず、金田は薄く笑う。

「起きた端から風邪を引いて仕舞う。君が病気になると、僕的にも少し面倒なのだよ」

 千紗は首を傾げた。

「少しの間は甲斐甲斐しく世話を焼こうとする男が何人か居るだろうからね。……体を大切にし給え」

「はい。……こっちはもう、春なんですね」

 旅立つ前の現代はまだ二月、穏やかな日だったとはいえ雪がしんしんと降り積もっていた。街も木々も雪に包まれ、一面が白銀だったのだ。

 目が覚めるとすっかり春になっていた。きっと、直ぐに夏が来るのだろう。

 感慨深げに言った千紗の横で、金田は頷いた。

「然うだな。君が去って四か月、伊沙子嬢が完全な眠りについて二か月にも為るか。もう……春だ」

 伸ばした千紗の手の平の上にも花弁が落ちてきた。

「近くに桜の木があるんでしょうか? 花弁が凄いです」

 身を屈めて、金田が廊下に落ちる花弁を拾い上げた。拾っても限度がないほどに落ちているのに辟易したらしく、金田は三枚ほど拾って向き直ると肩を揺らす。

「先生と桐野君を誘って、花見にでも行こうか。締め切りの近い桐野君はきっと、千紗君が行くのだと知れば躍起になって依頼分を書き上げるだろうな」

「……金田さん、意地悪ですね」

「桐野君が悪いのだよ。僕が新聞社との連絡役を買って出て居ると云うのに、眠る君の顔を見て居るだけでちっとも筆が進まないのだ」

 枕元のカレンダーは眠る千紗を待つ桐野が書き記したものだったのだろう。伊沙子と桐野が何を話したのか。現代にいた千紗には知る由もない。それでも今、伊沙子の体には千紗が宿り、金田は伊沙子が去ったのだという。

 黙り込んだ千紗を見遣った後、金田は庭木に視線を移した。腕を組み、深く嘆息する。

「桐野君は……ずっと君を待って居たよ。只君に戀焦がれ、片時も離れなかった」

 逢いたかった。そう心で呟いて、千紗は客間の障子を振り返った。

 現代であの日記を読んだ時、千紗はどんな未来が待っていようとも桐野と越えていこうと決めた。いつか来るその時まで、必死に生きて往こうとそれだけを胸に戻ってきた。

 ―――巡り来る幾つもの季節を、いつか迎えるその日まで一緒に。

 現代に置いてきた色褪せた三通の手紙を想う。きっと母親は千紗の残した手紙に気付くだろう。両親の前を去る千紗に出来る最後の親孝行だ。小さなありがとうの手紙を読んでくれたらいい。

(私は……明治で桐野さんと生きるから)

 千紗の目線よりもずっと高い場所にある目を見詰め、千紗は口を開いた。桐野が目覚める前に、千紗にはしなくてはいけないことがあった。

「……お願いがあるんです。金田さん、聞いて貰えますか?」

 千紗の願いを全てを聞き終えた金田は、奥歯を噛み締め静かに顔を背けると「任せ給え」と言った。

 過る影を飄々とした笑顔で塗り潰し、金田は千紗に背を向ける。

「僕は彼の先生を起こして来るとするか。全く、師弟揃って昼夜の区別がつかないのだから仕方ないな。そこの無粋な男は君に頼むよ。さっさと起こして……顔を見せて遣り給え」

 屹度喜ぶだろう、そう金田は廊下向こうへ消えた。


     ◆     ◆     ◆


 風が頬を撫でた。袂に隠した腕だけでは初春の風の冷たさを遮ることが出来ず、桐野は背筋に走った寒気で重い瞼を開ける。

 崩した足元に原稿用紙が散らばっている。

 筆が乗ったと思うや否や書き連ねた話は既に依頼分を超えて、少し遣り過ぎたと思う嫌いもあった。膨らみ過ぎた話を収集付けるのに困るのは自分自身だというのに、相変わらず筆が乗ると制御が利かないのだ。空虚を埋めるために書き連ねた弊害か、思いつくままに書いて自分で墓穴を掘ることも多い。

 残り僅かだったインクを入れていた小皿の中身は乾いていた。代わりになのか桃色の花弁が何枚も乗っている。

「……桜?」

 桐野は目を細め、部屋を見渡した。縁側ならいざ知らず、こんな処にまで桜の花弁が迷い込みはしないだろう。風の悪戯かと桐野は皿の端を持ち、畳にひっ繰り返す。はらりと呆気なく花弁は落ちていった。

「居眠りばっかりしていると、新聞社に怒られますよ」

 くすくすと笑い声の混じる声が障子向こうから聞こえて、一瞬聞き間違いかと思う。

 俯いて眠っていた所為で強張った首をぎこちなく動かし部屋の中央を見遣っても、肌蹴た布団があるだけで主の姿は見当たらない。

「……っ!」

 袴の裾を踏ん付けていた桐野は、慌てて立ち上がろうとしても叶わずその場で引っ繰り返った。

 激しく叩き付けた手の平の向こう側に裸足が近付いてくる。笑う声の主はしゃがみ込み、呆然としたまま顔を上げている桐野を覗き込んだ。

「やっと起きました? あんなところで眠ったら風邪を引きますよ、桐野さん」

 口の中が乾いている。声を出そうとしても、上手い言葉が出てこなかった。抱き締める芸当も出来ず、ただ畳に張り付いた情けない恰好で桐野は空気を食む。

 ほろり、零れた涙は千紗の物ではなく自分のものだと気付くのに時間がかかった。細かい音を立てる奥歯が気恥ずかしくて、思わず噛み締める。ぎりりと頭の奥で鳴り響いた。

 擦れた声が、やっとのことで名前を呼ぶ。

「……千紗」

 呼ばれた名前を嬉しそうに噛み締めて、千紗は頷いた。

「はい」

 伸ばした桐野の指に優しく触れる千紗の指を、桐野は両手で包み込んだ。握り締めると顔を近付けた千紗は、恥ずかしそうに笑う。千紗の頬にも涙が零れていた。

 指でそれを掬い取る。手の平で乱暴に拭うと「乱暴です」と言って千紗が肩を揺らした。震える指から両手を外し、涙に濡れた頬を桐野は両手で挟み込む。

「千紗」

「はい」

「……僕を愛して呉れないか」

 弱々しく懇願する声に、千紗は笑いながら頷いた。

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