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「体を動かすとあなたも腹が空くでしょう?」
本の山向こうで片付けを継続しながらちらちらと頭の天辺を見せていた先生の声に、千紗は大きく頷いた。
(はい! それはもうかなり……!)
千紗もまたここ数時間ずっと思っていた。
概算で二時間以上のウォーキングの後に数時間もの部屋掃除。
物凄くおなかは空いている。けれど、空いていても正直今は睡眠のほうが現実問題だ。千紗の体力のほうがもう限界で、今はもうこのまま冷たい床板にでも倒れて眠ってしまいたい。
なけなしの理性を総動員して、睡眠の誘惑を退けるのに必死だ。
袴を汚すのは忍びないと那美子に言われ借りた着物も、白く薄汚れ汗塗れになっている。
掃除を始めた最初こそは口うるさく文句を言っていた桐野も、空が赤らんで来る頃にもなるとむっつりと押し黙っている。投げるように洗濯物の塊を投げるものだからしょっちゅう那美子に怒鳴られていたが、何度も怒られるうちにそれすら面倒になったらしく言われるがままに手伝っている。
座敷には茜色の帯ができていた。
疲れた体と足を動かして、積み重なった本の表紙から山になった埃を全部拭き取ったころには、すでに外では哀しげにカラスが鳴いて飛んでいる。外は夕暮れだ。そう考えるだけやる気がなくなる。
そんな千紗の葛藤を知らずか、少し湿気とかび臭い本の隙間から顔を覗かせて暢気に先生は言った。
「どうも、私にはちょっと掃除が難しくていけない」
「はぁ……」
「もっと広い部屋であれば本はたくさん入るのでしょうが、すると私のほうが落ち着かないのです」
部屋だけが広くてもこの先生なら、すぐに元の木阿弥だろう。本を置く場所がないから片付かないのだと、先生は暗に言っている。
(そういう問題じゃないんだけどな……)
思案中の切なげなため息を漏らして、先生は手にした本を山の上に乗せる。すでに胡坐をかいている先生の頭は本の山に隠れ、寝癖なのか頭の天辺に揺れる一部の髪の毛だけが千紗の視界に入る。
よいしょ、情けない掛け声とともに千紗の積み上げた本を持ち上げ、壁沿いに投げ出された。
やっと先生の姿が見える。
壁沿いの本の山は見覚えのある情景だ。どこかと思い出すと、先ほどの書斎だった。
(あ……)
そんなところに並べたら結局同じような―――と千紗が提案するや否や悩んでいると、
「先生。片付けの意味がないではありませんか! 必要なものを避けて、あとは仕舞えと言ったはずですよ」
場をつんざく鋭い桐野の声が、先生の前に膝をついた千紗の上から降ってきた。
羽織を脱ぎ白い手ぬぐいを鉢巻きにしている姿は、先ほどの思案していた人間とは思えないほどに健康的だ。
顔半分を覆っていた前髪は今や汗に濡れ、可愛らしい顔立ちの割に鋭すぎる目元を剥き出しにしている。何度も重い本を持ち上げたせいか、桐野の胸元は両側を引っ張られたようにだらしなく開き、決して色濃いとはいえない胸がかいま見えていた。
一気に、千紗の全身の血が沸騰する。
「………っ!」
別になんてことのない姿のはずだと思う。
どちらかといえば体育の授業後の男子のほうがもっと剥き出しというよりも丸出しで、千紗だってそんな上半身姿の男子を気にせずに見ていたし、今までその状況でこんな気持ちになった覚えはなかった。
しゃがみこんだ自分の姿がとたんに恥ずかしくなってくる。
着物に慣れていない千紗の膝は僅かに開いていて、その分裾がくたりと床に落ちていた。
千紗は跳ね上がるようにして下から桐野を見上げていた顔を足元に戻し、膝を揃えた。その上にふたつ、拳を並べる。
どうしてだろうか、いけないものを見てしまったような気がしてしまった。
「仕舞うなんてね、私にとってはこの本もこの本も、可愛らしい子供のようなもので――――」
「いい歳して交際している女性の影もないくせに、何を言っているのですか」
桐野の反応はにべもない。
「然う言いますがね、其の件には桐野君もどうなのかって話でしょう」
「何です? 僕より十以上も上の先生にぐだぐだ言われたくありませんよ」
「しかし、かの「Les Misérables※1」ではですね―――――」
「…………」
この二人の会話は、始まるとまるで難しい本の議論をしているようだ。
(全然わからないし……)
話に参加することをあきらめた千紗は、先生が持ち出して座敷にぞろり並べた本の表紙を覗き込んだ。
ドイツ語やフランス語の題名が素っ気なく書かれた表紙の本は、先ほど千紗が二階の書斎なる場所から発掘したばかりだ。
とはいえ、書斎とは名ばかりで、その部屋は本の壁の中にかろうじて見える机がある健康的にも悪そうなかびだらけの物置だった。窓を閉め切り、ただ読書に没頭している先生の背中が見えるようだ。
片付けると言っても千紗の腕ではせいぜい持てて五冊程度。
何度もちょっと気味の悪い梯子段を行き来すると、一階の廊下を拭き掃除していた桐野が「落ちるなよ。床板が外れる」とまた厭味を言ってきて桐野じゃないけれど千紗も一瞬舌打ちをしそうになったのは内緒だ。
「……あ」
重なる表紙の中に見慣れたものを見つけて、千紗は体を乗り出した。
なんとなく、それで不毛な彼らの言い合いに終止符を打てると思った。
持ち上げたのは「King Lear※2」と書かれた本だ。さすがの千紗でもこれくらいは読める。ただし中は読めるか、正直自信はこれぽっちもない。
「これってシェイクスピアですね」
とたん――――――二人は会話をやめて、千紗を振り返った。
空気が変わったことに気づかず、千紗はいくつかの本を指さす。内容はよく覚えていないけれど、よく見知った題名に妙なテンションだ。
「これが、リア王にマクベス、ハムレット。この……アントニーとクレ……オパトラってのは知らないですけど、真夏の夜の夢とかロミオとジュリエットはあるのかな?」
「…………」
「Romeo……ロメオ…なら、これがそうかな」
「……………」
「私、あんまり詳しくは読んでいないんですけど結構好きなんです。悲劇が多いってのがちょっとあれなんですけど、それがまたいいっていうか――――――――あれ?」
今更ながら漂う微妙な空気に千紗はやっと気づき、顔を上げた。
(もしかして……私、空気を読んでなかった?)
表情のない蒼白な顔をしている桐野に、外したはずの金縁眼鏡をどこから取り出したのか装着済みの先生がこちらを向いている。ガラスはなぜか曇って、どんな目をしているか千紗から見えない。
噛み締めた先生の歯が鳴っていた。
(先生……! 怖、怖、怖いっ!)
なんだかわからないけれど、妙な迫力に押し負けて千紗は膝を上げた。
傾いだ背中に桐野の足が当たって上を見上げると、眉間に深い谷間をこさえてこちらを睨んでいる。
(こっちもなんか、怒ってる!)
まるで前門の虎後門の狼だ。
先生がわなわなと両手で握りしめた本は皺が寄って、紙の耐久力を試されている。今にも左右に引き裂かれそうな勢いに「あの」と千紗が声をかけると、
「ななななな、なんて博識なお嬢さんなんだっ!」
と、突如物凄い力で両手を握りしめられた。
哀れ、子供のごとく大切にしていると言われた本は襤褸雑巾のごとく座敷に落ち、ふやけた紙束になっている。
「え……?」
「シェイクスピアを論じるのは金田君とだけだと思っていた私に、神のごとく降臨した貴女は天使! いや、女神だ!」
「え? え?」
全く訳が分からずに困惑する千紗を放置して、桐野は踵を返す。
「あ、あの桐野さん」
「斯うなったら先生は一時間でも二時間でも「らーぶ」について語るから。責任もって相手してやって」
「過去、源氏物語と万葉集ではですね! 片思ひについて――――」
ちょっと、いやかなり怖い。
(何よりも、近すぎるでしょ!)
今にも押し倒しそうな勢いの先生に怯えて、千紗は「さぁ、掃除にもどるか」と梯子段をあがっていく桐野に悲鳴を上げた。
「桐野さん!」
にやり、桐野の口元が歪む。
「先生の執筆の糧にでもなればいいな」
もしかして初めて笑っている?なんて、桃色な感情が千紗に浮き上がる余裕なんて今はない。
(違う意味で食べられそうなんですけど……!)
千紗はシェイクスピアの本を持ってにじり寄りながら万葉集を論じはじめた先生の頭を、手にした雑巾で叩き飛ばした。
※1「Les Misérables」*明治訳「噫無情」ヴィクトル・ユゴー作
※2「King Lear」シェイクスピア作




