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明治逢戀帖  作者:
第九章 廻リ巡ル
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 まだ残る橙色を反射して、長く横に伸びた雲が次第に藍色になっている。

 闇色までは染まらない中で、空を映す窓ガラスもまた同じ色だ。遠くにカラスが数羽飛んで行った。ちらほらと見える街灯と、店のショーウインドーは明るくぽっかりと少しずつ暗くなる街中で浮いている。

 祖母の病室に向かう廊下で千紗は黙りこくり、ただ色を変えていく空を見ていた。

 十八歳になったというのに実感がなく、来月の卒業式にも自分が出席しないというのもまた現実味がないままだ。長く伸びた髪の毛の上から巻き付けたマフラーを千紗は静かに外し、コートを腕に掛ける。袖口がまだ涙に濡れたままのニットで手首を隠し、千紗はその中で真珠のピンを握り締めた。

 バッグの中には日記だけが入っている。

 通り過ぎる看護師に頭を下げ、千紗は外を感慨深げに見遣った。

 これが、千紗としての最後の夕焼けであることを知っていた。涙は不思議と出てこなかった。

 千紗は、音をたてないように病室の扉を開ける。

 車輪が転がる音の後、窓が開け放たれていたらしく冷たい風が千紗の頬を撫でていく。廊下から病室を隠す入り口のカーテンが千紗の顔に触れ、扉を閉めると静かに元の場所へと戻っていった。

 外は一面の雪景色だ。緑など少しもあるはずがないのに、本郷の家で嗅いだような緑深い雨の後の匂いがした。

「……千紗」

 待ち人は目覚めていた。千紗は「おばあちゃん」と声を掛けようとして、少し思い悩むと結局口を噤んだ。複雑に絡まり合った糸が、千紗と祖母を不思議な関係にしている。

「帰って来たの?」

 声は小さくか細い。ベッドの背を起こして、祖母は細く木の枝のようになってしまった腕を上げている。近くに来るように、千紗を促しているのだ。

 千紗は畳んだコートをいつも通りに窓際に置き、小さなパイプ椅子を出すことなくベッドの脇に膝を付いた。下から千紗が祖母を覗き込むと、祖母は嬉しそうに薄い唇端を上げて微笑む。その唇に懐かしい面影を見た。祖母はもう、何もかもを知っているようだった。

 千紗はやんわりと首を振る。

「……今は。でも……また、行くよ」

 布団の上に落ちた指に千紗は手を置き、握り締めた。一度開いた口を閉じ、深呼吸をして祖母に向き直る。小さな声で恐る恐る問い掛けた。

「私、……行ってもいい?」

 祖母は当たり前だと言わんばかりに、大きく頷いた。つい昨日まで長く眠っていた人間とは思えない強い眼差しで、千紗の弱虫な心を一蹴する。

「勿論よ。千紗が、行きたいんでしょう?」

 微笑む顔にすぐ、うん、と応えようとして千紗は微かに奥歯を噛み締めた。

(これで、千紗はもう消えてしまう)

 涙を流した母親は、こうなることを知っていたのだろう。過去に箪笥の奥に隠された娘の運命に母親もまた抗い、半信半疑ながらきっと生きて来たのだ。それを思うと胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。たったひとりの子供を失った両親は悲しむだろうか。

 俯いた千紗の手を握り、祖母が首を振った。

「良いの」

 頭を優しく撫でてくれる。

「千紗、あなたが決めたのなら良いのよ。お母さんも分かっているから」

 珍しく静かな病院だった。千紗が来るのは明日の誕生日のはずで、今日までは母親が祖母に付き添うのだと言っていた筈なのに母親の影もなく、窓際にコートやバッグの置いている様子もない。席を外しているわけではないのだ。

 太陽が沈み、侵食された橙色が闇に覆われると病室の中も薄暗くなってきた。部屋の総てが濃色に染まり、祖母の顔もまた曖昧になっていく。

(時間がない)

 混ざり合う過去と未来の線は、夢と現実の様に千紗を少しずつ溶かしていく。優しく掴む祖母の指の感触が薄らぐにつれ、明治に戻りたいとあれだけ願っていたはずなのに今の肉親と自分の生きていた時間を愛おしく思った。

「おばあちゃん……」

 小さな声で囁くと、目の前に小さな少女が現れた。愛らしいワンピースを着た姿、長い髪はまるで千紗の幼い頃の様に後ろで括られ、ピンクの細いリボンが付いている。

 か弱く千紗の手の平よりも小さな手が、千紗の指先を掴んだ。

 顔を上げるとそこは病室ではなく満開の桜の並木で、伊沙子と先生が再開した女学校の通学路だと何故か分かった。千紗は小さな少女の手を引きながら歩く。

 空を見上げても、咲き誇る桜の花で空が霞み見えない。雪の様に花弁が降り積もり、踏み出す足の下はさながら桜の絨毯だ。

「お母様、弥千子は桜が大好きです」

 愛らしい声が千紗をお母様と呼んで、千紗の頬にほろり、と涙が零れ落ちた。

 返事をしない千紗を訝しんで、弥千子は手を離すと前に回り込んだ。足が花弁の山を蹴り飛ばし、一瞬で桜の山が消えていく。長いワンピースの裾を意にも解さない様子は、きっとかなりのじゃじゃ馬なのだと思った。

 弥千子は千紗を心配げに覗き込む。

「お母様、泣いて居るの? 何処か、痛いの? 弥千子が撫で撫でして挙げる」

大きな目がくりりと回った。本気で撫でようと両手を差し出して見せる姿に思わず微笑んだ。想いが胸にこみ上げて、声が詰まる。

「大丈夫、痛くないの。……大丈夫よ」

 思わず小さな体を強く抱き締めた。柔らかくどこか懐かしい匂いがする。

 弥千子の胸に付けた鼈甲のブローチにふと目に留まった。見覚えがある。

(おばあちゃんの宝物)

 指で辿ると、弥千子は何を勘違いしたのか嫌々と首を振った。両手でブローチを覆い隠し、薄い唇を文句ありげに突き出している。弥千子は一歩、千紗から離れていく。

「此れは弥千子がお父様から貰ったのだもの。お母様が欲しがってもあげないのだから」

「……大切なの?」

「……お母様を困らせないようにしなさいって、お母様はお体が弱いから、弥千子が頑張らないと駄目だよって。だから頑張る為にお父様が内緒で」

 そんなことをするような人には全然見えなかったのに、と千紗は長い間逢っていないような気のする人のことを想った。そんな優しい気遣いをするようには見えなかった。いつも優しさはどこか不器用で、素っ気ない。

(でもいつも見ていてくれた)

「お母様、怒って居る?」

 弥千子が垂らした千紗の腕を掴み、覗き込んだ。いつかずっと先で千紗の祖母となる存在だというのに、目の前の姿にただ愛おしさが込み上げる。弥千子がいずれ成長していく姿を想像して、また切なくなった。

「怒ってないよ」

 しゃがみ込み、柔らかい頬を撫でた。微笑むと安堵した弥千子は、千紗に倣い笑う。下に落ちた花弁を両手で掬い、しゃがむ千紗の上にたくさん振りかけた。

「お母様、雪みたいね」

「うん」

「お母様、冬になったら雪で遊びましょうね」

「……然うね」

「お父様とお母様と一緒に、ずっとずっと居ましょうね」

「………………うん」

 優しい夢は、少しずつ溶けていった。

 次に目覚める時には、あの懐かしい本郷の家にいるのだとそう願って千紗は静かに瞼を閉じた。

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