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明治逢戀帖  作者:
第九章 廻リ巡ル
58/61

    ◆     ◆     ◆


 一週間に一度は母親が掃除をしに来ているとはいえ、誰も暮らしていない家はどこか埃っぽくてかび臭いような匂いがする。祖母がいた頃は温かい日射しに溢れていた記憶があった。でも今はどうだろう。今のリビングには温度がなくひっそりと静まり返っている。

 テーブルには片付け忘れたのか、祖母が倒れたその日の新聞が畳まれて置いてあった。湯呑は洗ってざるに上げてある。祖父の写真の前に置いてある花瓶の花は枯れ切って床へと垂れ、下に落ちた花弁が三枚、千紗が戸を開けた所為で重なり乾いた音を鳴らした。

 閉まったままの障子を僅かに開け、千紗は中を覗き込んだ。

 壁に揃って置いてある二棹の箪笥は相変わらずそこにあり、祖母が開けた引き出しが僅かに引かれたままになっている。

「……向かって真ん中の右」

 母親が言ったのは、あの日祖母が千紗に真珠のピンをくれた時に開けていた引き出しだった。

 今、千紗のバッグについている真珠のピンは、明治の伊沙子が先生に貰ったものだ。真珠は長い年月を経てもその鈍い輝きのまま存在し、蛍の光の様に優しく儚く光っている。

 和室に足を踏み入れる時、千紗は少し躊躇した。

 欄間の松も、天井の木の節も苦手で、千紗を拒むような気がする。窓があっても北窓の所為で日差しも入らず、障子を閉め切りっている所為で部屋は薄暗かった。ストーブが入っていない家の中でも、特にここは空気が一段とひんやりと寒い気がする。

 足を踏み入れると、湿気を帯びた畳がきしりと啼いた。

 靴下を履いた足裏から冷たさが忍び寄り、蔓延するようにやがて全身に回っていく。箪笥の前に辿りついた頃には全身に鳥肌が立っていた。

 引き出しは想像していたよりも静かに、そしてスムーズに開いた。

 手前に仕舞われているのは袱紗に包んだ数珠と、冠婚葬祭に使う真珠のネックレス。薄いグレーのボックスには祖母の愛用していたハンカチが掛けられ、ちょっとしたことに祖母の存在を感じて千紗は微笑む。

 奥に薄い板が貼ってあった。ただ開けただけでは気付かない。ゆっくりと引くと指に抵抗を感じた。千紗はあの伊沙子のドレッサーの時と同じく引き出しの底を押し上げ、そのまま一気に引いていく。

「……っ」

 隠されていたものは、意外なものだった。

 小石川の桂木の屋敷でずっと胸にしまっていた素っ気ない三通の封筒。

 どんなに願っても明治時代から持ってくることを許されなかった。一か月たち、二か月たつにつれ胸が痛いのも苦しいのも、実はただの気のせいなのかもしれないと思い始めていた。あの不思議な出来事が、実は夢だったのかと思うようになった。

 本を読み漁っても誰の影も見付けることが出来ない。思い出だけは鮮明なのに、まるで胡蝶の夢の様に、千紗が夢と現実の区別がつかなくなっているのかもしれない。最近では、次第にそう思うようになっていた。

(でも違う)

 震える唇で、千紗は誰にでもなく囁いた。

「……やっと、見つけたよ」

 現実だったとやっと実感した。あの日の苦しみも切なさもどうにもならないもどかしさも、総てずっと過去の明治時代に存在し、千紗はあの場所に生きていたのだ。

 頬から涙が零れ落ちた。まだ記憶が鮮明なのに手紙は随分と古びて端は僅かに破れてすらいる。それだけで長く辛い時を越えてきたのが分かる。

 懐かしい文字を千紗は指で辿った。

 封筒の上には千紗の名前はなかった。彼は配慮の上で敢えて宛名を書かなかったのだ。少し読み辛い、角ばって右上がりの少し乱暴な文字で素っ気なく自分の名前を書いている。

 ――――――桐野 参商。

「……桐野さん……っ」

 重なった一通を、震える指で取り出して千紗は中から便箋を引き摺り出した。

 破れて仕舞わないように震える指で慎重に開く。原稿用紙は既に脆くなり滲みも見えた。それでも千紗は一通目の手紙を縋るように読み始める。


「謹啓。

 僕が書けと言ったのだから僕から先に出すのが礼儀なのだろうと思って筆を取った。斯う云うものを書くのは初めてなので、拙い文は如何か赦して呉れ。

 お前、と文字にして連ねるのは如何も抵抗が有るので、手紙では君と書くことを了承して欲しい。然し、本当に書き始めると何を書いて良いのか悩むものなのだな。

 君はまだ金田の家に居るのだろう。金田君から連絡が来ない所を見ると、彼が総て上手く取り計らって呉れるものだと安心して要る。あゝだ斯うだと言いながら、僕は奴のことを一応は信頼して居るのだ。然し、此の件は奴には漏泄しない様に。金田君を調子を乗らせては正直、後々が面倒だ。君も其の件は会って短いながらも了承済みだろう。

 僕は君たちと別れてから、折り返し本郷の先生の家へ身を返した。彼の人の門は未だ閉ざされては居なかった。不用心甚だしいものだ。

 少し話してはみたのだが、先生は徹頭徹尾無関係の方針を貫くおつもりらしい。君と伊沙子嬢の意思なのだと言っても、珍しくは有るが子供のように感情的に言い返す有様でお話にもならなかった。然し、気にしないで呉れ。先日口にした通りに先生の件は僕が何とかしよう。

 君はあくまで桂木の家だけを念頭に置き給え。此処からは君の意思が必要なのだ。君の未来を創るためだ、逡巡してはいけない。優先するものを互いに念頭に置こう、ならば屹度道は開けるだろう。

 金田君に僕の気になる件を幾つか書き記して置いた。良ければ君から金田君へ渡して欲しい。

 正直、金田家に滞在して居る間は、金田君へ手紙を書けば君に渡して呉れるのだと云うことは分かって要るのだ。其れでも、あくまで君へ手紙を出すこと赦して欲しい。只の僕の我が儘だ。

 尚、返事は君が気の乗った時で構わない。先日言ったように余り深く考えずに筆を取って呉れ。敬白」


 一通目を見終え、千紗は二通目に手を伸ばした。

 読む度に、胸にあの時の想いが込み上げる。気付くと、声を出して泣いていた。


「謹啓。

 君の手紙は、向こう側に君が居るのが透けて見えるようだ。悪い意味ではない。驚いたり、怒ったり忙しい人だとは思っては居るけれど其れも君の手紙なのだろう。実に興味深いと思う。

 君が桂木の屋敷から逃げ出した顛末を読んで、流石の僕も言葉を無くした。君は少しばかり肝が据わっていると思っては居たが、無為無策なだけだ。もう少し考えて行動した方が僕は良いと思う。然う云うことだから周囲の人間が常々君に巻き込まれて仕舞うのだ。新橋で逢った時から大体君は(中略)

 下らないことで長くなった。つまり僕は只、心配して居るだけだ。

 話は変わるが、彼の先生に日記を見ることのみ了承して貰った。ついては君の持って居る伊沙子嬢の日記を此方に欲しいのだ。君自身が持って来ることはない。とよを介して、金田君にでも渡して呉れ。後は僕の方で何とかしよう。

 後、余り大丈夫だとか心配するなとは書かないで欲しい。無理をして居るのではないかと邪推して仕舞う。思ったことを其のまま君は書いて呉れて構わないのだ。其れを僕がどう判断するかは任せて欲しい。

 日記の件のみ早めに返答を待って要る。敬白」


 最後の手紙は茶色い染みが甚だしい。黒くなった場所もあって、違う手紙の封筒から剥がすのに四苦八苦した。

 この手紙を胸にしまったまま、あの日千紗は上野精養軒のバルコニーで首を自ら切り付けたのだ。流れ落ちる鮮血は手紙を染めてしまったのだろう。一番状態が悪く、文字を読み取るのに苦労した。

 所々破れ、その手紙自体の封筒は失われていた。封筒が無いのには心覚えがある。

「……そっか、久美子さんに」

 あの日、桂木の屋敷で千紗が久美子から奪い取ったのは便箋だけだ。殴る様に書かれた文字はやはり今見てもせっかちなもので、余程急いで書いたのだと云うことが知れる。


「謹啓。

 返事が遅くなり済まない。如何しても、自分の弱さ故に先生へあの日記を手渡すのに時間がかかって仕舞った。だが昨日、彼の先生に伊沙子嬢の日記を渡して来たから安心して欲しい。

 今後、僕が君に出来ることは何なのだろう。只、然う考え続けて居た。

 僕は文字を書くこと位しか能のない人間だ。人の力になろうなどと烏滸がましいことなど考えたこともなく、只自分の為に今日此の日まで生きて来た愚かな男だ。

 今後、君は僕に手伝うことを望まないのだろう。故に此処からは僕の勝手だ。勝手に君を心配し、勝手に君の為に動いた愚かな道化だと思って欲しい。

 君が迷い立ち止まるのならば、僕が背を押しても良いだろうか。此の先、手を離す時が来ても背に触れた馬鹿な男のことを君は、少し頭の片隅に覚えて呉れるだけで良い。

 尚、此の手紙の返信は要らない。手紙はもう十分に貰って居る。

 少しばかり文字が下手で、少しばかり無作法な手紙を有難う。敬白」


「文字が下手とか……」

 千紗ははらはらと畳に涙を溢しながら、思わず笑った。

「無作法って、失礼な……本当に桐野さんは」

 笑いながらも唇が震える。限度のない涙を堪えようと、天井を向くと千紗は口を開いた。

「あーあ、辛いなあ……」

 声をあげて笑って見せる。道化にも似た行動に、情けなくて涙が零れ落ちた。頬に張り付いた髪の毛が邪魔で、ニットの袖で濡れた瞼を乱暴に擦った。ウール百パーセントのニットは涙の吸い取りが悪くて、擦った端から顔中が汚れていく。

 千紗は諦めると溜息を付き、脱力した体で無理に立ち上がった。見渡す先にティッシュボックスはなかった。引き出しの中から、少し躊躇した上で祖母のハンカチを手に取る。

 柔らかいハンカチは祖母の好きだった絹のものだ。手に取ったものの涙を拭いていいものだとは到底思えない。思い悩んで視線を下した先に、千紗は真珠色の表紙を見つけた。

 小さな筆記本がある。

「……これって、伊沙子さんの日記」

 手に取り、ぱらりと一ページ目を捲った。

 捲る度に伊沙子の悲しみと苦しみが伝わってくる。

 桜の向こう側で立つ伊沙子の姿、凛と背筋を伸ばし涙を流しても見えないように背を向ける。せめてもと先生を想う姿、自分は背を向けてでも先生の背中を押そうとする潔さ。

 捲る度に隠し持っていた年相応の伊沙子が見えてくる。千紗と同じ歳で、恋に悩み戸惑う姿だった。

 伊沙子の綴る最後の頁を捲り終え、千紗はゆっくりと裏表紙から閉じた。捲れるページがその先を促してくる。見たことのない文字は数ページも渡り書かれ、最初は「千紗君」と名前を呼ぶところから始まっていた。

 千紗は震える指で辿る。

 読み終えた千紗は、誕生日の前日と知りつつ千紗はその足で病院に向かったのだ。

 そこに千紗を待っている人がいる。確信があった。

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