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明治逢戀帖  作者:
第九章 廻リ巡ル
57/61

    ◆     ◆     ◆


 高脇側から歩いて千駄木町に入ると、昨夜の風の割に雪の吹き溜まりもなく穏やかなものだった。

 外套の襟元に巻かれた襟巻を強く締め直して、桐野は小気味良い足音を立てる雪の上を歩く。きしきしと啼く雪は、朝早いだけあってまだひとつも足跡がなく、下宿屋に残してきた白紙の原稿用紙を思わせた。

 依頼されたものを書こうかと、一昼夜奮闘したものの結局書けたのは題名だけだ。然しその題名すら、桐野は未だ迷い一度消しているのだ。

「流石に寒いな」

 ぼそりと口に出すと、白い吐息が灰色の空へと消えた。

 つい先日、西との開戦が裁可され連合艦隊に出撃命令が出た。宣戦布告の後、既に幾つかの海戦も終え新聞社は大わらわだ。陸軍省も俄かに騒めき始めている。東京の第一師団が出征するまで幾許も無く、その中には恐らく史郎の名もあるに違いなかった。

「君の為なり國の為…………か」

 我こそは、と史郎は往くのだろう。目覚めた妹と顔を合わせることもなく、先生に伊沙子を託し露西亜の戦地へ赴くのだ。身の内を焦がす想いを胸に墓場まで持って行くつもりに違いない。

(実に羨ましい)

 さくり、と路地を踏んだ。先生の家の門は間近に見え、横の畑は白銀一色だった。

 突如吹き抜けた風で、まだ凍り付いていない積もったばかりの雪片が浮き上がり高く吹き上げられていく。今や止んでいるはずなのに、舞い上がった雪は風に乗ってはらりと桐野の上にも落ちてきた。

「……いや、また降り始めたか」

 手を伸ばし、手の平で受け止める。親指の先ほどの雪は、桐野に触れるなりあっという間に融けて路地へと垂れた。直ぐにどこへ落ちたのか分からなくなる。

 門には雪が積もっていた。

 慣れた様子で格子戸を鳴らさずに門を潜った桐野は、静かに玄関の戸を開けた。やはり鍵を掛けずに開いていた。

「……物騒な」

 この時分、家を訪れるのは桐野くらいだからとでも思ったのだろう。

「伊沙子嬢も居ると云うのに……先生には強く言って置かねばならないな」

 ぼそり低い声で吐き捨て白い足から雪を払い落とすと、桐野は玄関の間で立ち止まった。脱力した体で耳を澄ます。声が聞こえて来そうだった。

(何も変わらない)

 いっそ変わってくれていた方が胸の内も晴れるだろう。

 千紗がいた空気と何ら変わらず、本郷の家は存在していた。時間にしてたった一か月強、茹だる様な暑さの最中に現れた少女の面影が桐野の脳裏を辿り、桐野は強く瞼を閉じる。

 幻から逃げるように桐野は、軍装束に身を包み剱を持つ自分の姿を思った。迫る敵の中で最期、我こそはと抜刀したのならばこの空虚はいつか消えるのかと思う。しかし、仮にも桐野家の長男の身ではそれも叶わぬ夢なのだ。

(馬鹿げたことを考えた)

 桐野は自嘲すると、声を張り上げた。

「先生、桐野です。入りますよ」

 奥には伊沙子がいるのだろう。こちらの覚悟を知ってか知らずか、暢気な「入り為さいよ」という声が奥から聞こえてきた。

 踵を廊下に叩き付けて歩く。苛立ち半分、向かっているのだと知らせるの半分。このまま逃げ出しそうな軟弱な心を桐野は押し殺して、ただ無言で障子の立ち並ぶ廊下を進む。

 書斎の前に立ち、桐野は一度立ち止まった。

「入りますよ」

 声を掛けて、無造作に開ける。

 其処には紗綾形文様の着物の袖が、大きく絨毯に広がっていた。

(千紗)

 顔を見て、剥き出しの醜悪な傷から想いが溢れ出た。それは血の色をしてまだ凝固せずどくどくと浅ましい感情を垂れ流している。

 指先を付ける伊沙子の横に、先生が付き添っていた。障子を開けたものの一向に足を踏み入れようとしない桐野を、伊沙子は意に介す様子もない。

 僅かに歪めた顔をちらり見て、伊沙子は表情一つ変えず深々と頭を下げた。結い上げた髪に挿された珊瑚の簪がしゃらりと鳴った。

 聞き慣れた声が耳を打つ。それでも知らない声だった。

「初めてお目に掛かります。桂木 伊沙子と申します」

 初めて会ったわけではない。言い返そうとして、桐野は口を噤む。

 あの新橋で伊沙子が記憶を保てるほどに正常だったとは思えない。何しろ突発的に身を投げるほどなのだ。

 静かに顔を上げた伊沙子は、戸惑う桐野から視線を逸らさず真っ直ぐ顔を見てくる。そこに懐かしい面影はない。目の前にいるのは千紗でなく、やはり全く別の人間なのだと思い知らされた。

「件の話、拝聴致しました。大変ご迷惑をお掛けして誠に申し訳御座いません。お詫び申し上げます」

 桐野の背中向こうでは深々と雪が降り続いている。

 庭木に被った雪が、風に煽られて脆く崩れ落ちる度に重く鈍い音が聞こえてきた。風はなかった。今日もまた、ただ雪片は舞い落ちるだけだ。

 紫檀の文机にいつもなら山積みにされている本は、何処に隠されたのやら見当たらなかった。文箱と微かな物音を立てる火鉢が伊沙子の向こう側に見える。書棚はいつも通りに本が所狭しと並んでいるだけで、先日先生が開けた伊沙子からの手紙が入った箱は見当たらなかった。

 顔を上げた伊沙子は背を支えようとする先生をやんわりと拒み、背筋を伸ばす。

「今日はお時間を頂き、有難う御座います。何せまだ十分ではない身、急に御呼び立てして申し訳ありません」

 伊沙子は含みのある物言いをした。ここに来る前に金田からその件は聞かされている。時を待たずして金田もここを訪れる予定になっていた。金田もまた伊沙子に呼ばれているのだ。

 桐野は小さく嘆息し重い口を開いた。無様だと知りつつも、視線は敢えて逸らした。

「僕は構わない」

「良かった」

 やっとのことで言い捨てた桐野の素っ気ない返答でも良かったのか、伊沙子は無邪気に微笑んだ。

 傍目には元気に見える伊沙子には後遺症が残っている。首の傷こそは治ったものの、伊沙子は一日二時間しか起きることの出来ない体だ。

 脳に損傷を受けたのだと医者に宣告され、長い入院生活を余儀なくされた伊沙子は望み通り史郎に許され桂木の家から出た。日常生活に支障を来す気狂いの娘を嫁に受け入れるような奇特な男がいるわけもなく伊沙子の婚約は破談となり、伊沙子は今や晴れて自由の身だ。

 退院し、今伊沙子は本郷の先生の家に住んでいる。

 一日の殆どを眠って過ごす伊沙子にとって、目覚めた時に先生の居る生活がどれだけ満たされているか。桐野には想像もつかない。

 梅幸茶の着流しの上に褐色の半纏を羽織った先生が伊沙子の脇から離れ、いつもの場所に腰掛けた。それを見た伊沙子も、先生に倣い着物の裾を引くと先生の横に向き直る。

 廊下への障子を開けっ放しにするわけにもいかず、桐野は後ろ手で戸を閉めた。廊下ぎりぎりの場所に腰を下ろしたものの、慣れた格好をするわけにもいかず足は正したままに留めた。

 伊沙子は桐野の暗い目を黙って見詰め、薄っすらと紅を引いた唇を開いた。

「此れから御願いすることは、私共が了解の上での話なのです。残された時間が無いので少々砕けた物言いに成りますが、如何か赦して下さいませね」

 どさり、と庭で屋根から雪が落ちた。


「それでは」

「良いのです」

「……然し」

 桐野は言い淀んだ。目の前で微笑む伊沙子はいつの間にか先生の手を握っていた。辛うじて背筋を伸ばしたままでいる伊沙子の背に手を添え、先生はやんわりと微笑んでいる。

 話を聞いた今では、伊沙子を千紗と見紛うこともなくなっていた。やっと寄り添うことの出来たふたりは、再び永遠の別れを迎えようとしている。

(其して、其れを運命なのだと云う)

 自らの別れを知るからこそ、安易に頷くことは出来なかった。桐野は俯いた先にある拳が細かく震えていることを知る。それに気付いた伊沙子が無邪気に笑った。

「震えて居るわ。止めて差し上げましょうか」

 からからと笑い、首を傾げる伊沙子には新橋での押し込めた感情は垣間見えない。

「伊沙子さん、余り参商君を困らせないで下さい。僕の数少ない教え子なのですからね」

「其んなに大切な教え子なら、確り説得して下さいな。先生が何も仰らないから、桐野さんも戸惑って居るでは在りませんか」

 伊沙子はそう先生に言い放つと、膝を絨毯に擦り桐野の近くに寄った。

 握り締めた桐野の拳を取り、胸の前で指を一本一本解していく。全部の指が開き切った頃に、戸惑う桐野の視線に伊沙子のそれが重なった。秋の空の様に澄み切って、どこか遠い目をしていた。

「私を占ったのは……高名な易占い師と聞いて居ます」

 伊沙子は訥々と話し始めた。 

「……通り掛かったのは偶然で、何処ぞに向かう途中の気紛れでした。私の心は弱く、十八の歳を迎えることは出来ない……然う戸を開けるなり言った然うです」

 広げ終わった桐野の手の平に、伊沙子は両手を添えた。

 僅かな時間しか触れなかった千紗とは違う温かな手が、まるで桐野の手を温めるかのようにゆっくりと包み込む。

「私の心は日々二時間、少ない寿命を切り繋ぎ只生きて居るに過ぎないのです。私が斯うして居られるのも後三日」

 伊沙子は深々と頭を下げた。背中向こうでそれを眩しそうに見遣る先生の姿が見える。まるで幼子のように頬を赤くして、伊沙子は返事をしない桐野を気にすることもなく口を開く。少し急いでいるのかも知れなかった。早朝を過ぎ既に話し始めて一時間、伊沙子の眠る時間は刻々と近付いている。

「あの日新橋で私が自ら死を選んだ時に終えた筈の命は、桐野さんの手に寄って救われました。千紗さんのお蔭で、私自らの口で先生にお別れをすることも出来ました」

 思い遺すことはないのだと、伊沙子は微笑んだ。

「最期の時を先生と過ごし、伊沙子は満足したのです」

 閉ざされた障子の向こう側に僅かな影が映った。話に加わることもなく、廊下に訪問者は腰を下ろしたようだ。

 伊沙子は向こう側に桐野に向けたものと同じくして深々と頭を下げると、ゆっくり顔を上げた。

「明治の女の最期の意地を受け入れて下さいませ」

 澱むことなく出てくる言葉に迷いはなかった。

「帝國男子たる桐野さんならば、私の体を託せると信じて居ります。私の終えた未来を紡ぐ為、いつしか千紗さんがお戻りなる時まで決して傍を離れず……如何か、如何か見守って頂きたいのです」

 先の世から千紗は果たして戻って来るだろうか、桐野は思った。伊沙子は千紗が戻ることに確信を抱いているようだ。それでもまだ、桐野の心には不安が残る。

 降りかけだった雪は本格的に降り始めたようだった。細かい雪片を含む風が、窓の隙間から吹き込んで障子を揺らした。かたりと鳴る度に、桐野は口を開こうと試みた。それでも出てくる言葉が是なのか、否なのか自分でも良く分からない。

 躊躇する桐野の前で、凛と背筋を伸ばした。その姿は雪の中に咲く椿のようだ。時が来ればほろりと咲き誇るままに花を落とす様こそ、まさに近い。

(若しくは……桜か)

 潔く散る桃色の花弁を思った。

 伊沙子はすっきりとした面持ちで微笑む。薄く紅の引いた唇を静かに開き、

「私の命、お預け致します。此の先を是非綴って下さいませ」

 そう、伊沙子は言った。

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