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明治逢戀帖  作者:
第九章 廻リ巡ル
56/61

    ◆     ◆     ◆


「千紗」

 白い壁紙の向こう側を隠すように、クリーム色のカーテンが揺れた。

 元の色は眩しい白だったのだろう。陽に灼けてこんな色になってしまったに違いない。色はともかくとして清潔であることは分かる。ここは祖母の病室だった。

「何?」

 千紗は視線を落としていた本から、いつの間にやら病室に入って来ていた母親に視線を移した。

 ページを辿っていた指を引き、本を閉じる。表紙にある明治時代の文豪に先生の面影を見つけてからというもの、千紗はいつもその作者の本を持ち歩いていた。古本屋で買った本は昭和初期に出版されたものだったけれどページの色が代わり、随分と趣がある。お気に入りだ。

 母親は肩に雪がまだ残るコートを小さく丸め、窓際に置いた。窓際は暖房がある分だけ乾きが早い。千紗のバッグに飲み物のペットボトル、それにコートと窓際はちょっとした物置場になっている。

 顔を上げた千紗と視線を合わせずに、母親は口を開く。

「お願いがあるんだけど、いい?」

「いいよ、別に何もすることないし。お母さんがここにいてくれるんでしょ?」

 本を大切にバッグの中へしまい込むと、千紗は小さなパイプ椅子から立ち上がった。伸びた髪は肩を滑り落ち、胸の前まで垂れてくる。

 かすかに褐色かかった千紗の髪は、いつの間にやら伊沙子のように黒く艶やかなものになっていた。

 最近は太陽光を受けて輝く千紗の髪が気になるらしく、通りすがりの知らない人にまで話し掛けられることが多い。シャンプーやトリートメントを聞かれても、千紗は困惑してしまう。使っているのは、いつも通りのドラッグストアで購入したコマーシャルで良く見るごく普通の物だ。

 外には雪が降っている。千紗は慣れた様子でコートを羽織り、視線に気付き苦笑した。

「何? そんなじっと見て」

「……夏から随分とたったわね」

 感慨深い口調で、しみじみと母親が呟いた。

 その言葉の真意を知ることが出来ず、千紗は首を傾げると「変なお母さん」と肩を竦めた。首の傷を隠すために大き目なストールを回し、手袋を付ける。いい加減撚れてきたバッグの持ち手に腕を入れると、千紗は眠る祖母に向き直った。

 暖房が利き過ぎて病室が熱い。換気のつもりで開けた窓から入った風が祖母の髪を乱している。千紗は慣れた素振りで額の前髪を避けた。白く染まった祖母の髪の毛に、手の平を這わせて微笑む。

「何か買い物? 早い方が良いよ、昼からもっと雪が降るって言ってたし」

 千紗の誕生日はもう三日後に迫っていた。例年、雪は降ることが少ない筈なのに今年は何故か雪が降る日が多かった。さらりと道路を染め上げるだけではなく、今年の雪は一面を白く染め上げてしまう。異常気象だとニュースでは言っていた。

(寒いけど雪は嫌いじゃないな)

 積もる雪は声を吸い上げる。降り続く雪は、雪と同じようにはらはらと涙を流す千紗の姿を隠し白く染め上げてくれる。考えると雨も嫌いじゃない。思い出す明治の雨は季節が夏から秋に掛けてだったせいか、どこか温かくて剥き出しの土の匂いがする。

「……誕生日プレゼント、何にしようか」

 微笑む千紗の前で母親が言った。千紗はゆっくりと首を振る。

「何も要らないよ。欲しいものは無いの」

「……そう」

 丁度ベッドを挟む反対側でパイプ椅子に腰掛けた母親が小さな声で応えた。黒いダッフルコートに身を包み、雪降る冬にしては麗らかな日射しの入る窓際に立つ千紗を眩しそうに見上げる。

 眩しい日の光に目を細めている所為で、母親は泣きそうな顔をしていた。それでも柔らかに微笑む母親の顔を見て、祖母に似ていると思った。

 そう思ったのは初めてだった。

 昔話をしようか、先日千紗が祖母に話しかけたように母親も言った。こういう所に血の繋がりを感じてしまう。

「……私はね、小さなころから悪戯っ子だったの」

「まさか」

 千紗は驚いた声を上げた。

「お母さんが?」

「そうよ。しちゃいけないことをして、ダメだと言われたところばかり勝手に開けて、いつもおばあちゃんに叱られたっけ。良くおじいちゃんを驚かしたりもしたわ」

 千紗は思わず噴き出した。

 思っていた母親と随分違う。千紗の良く知る母親は、キャリアウーマンで家庭より仕事を優先するワーカーホリックだ。出張でほとんど日本にいない父親は、この一か月程千紗も会った覚えがない。それでも夫婦仲は良いのだというから、男女の繋がりは分からない。

 会社の先輩後輩の仲だった両親は、どちらかというと戦友のような印象だ。

 千紗はしまい込んだパイプ椅子をまた引き出すと腰掛け、両手を祖母の上に投げ出した。

「私と逆だね。私はいつもおばあちゃんに驚かされて、もう……泣きそうになったよ。脅かすのに全力なんだもん」

「……そうね。千紗は……そうだったわね」

「五歳の時のこと、覚えてる? お母さんが迎えに来るときにおばあちゃんと二人で隠れて、階段に寝そべってたんだけどおばあちゃんの方が驚かすのに本気で笑ったなぁ」

 曾祖母が悪戯好きだったのだと聞いた。千紗の知る伊沙子にもそんなところがあっただろうか。とにかく儚く、それでいて気丈な女性のイメージだけが残っていた。

 ゆっくりとベッドを跨ぎ、母親が手を伸ばすと千紗の手を握った。

「……千紗」

「どう……したの? お母さん、泣いてるの?」

 母親は千紗の手を優しく握り締め、はらはらと頬に涙を落としている。

 落ちる涙を拭いもせず、母親は千紗の手の平に頬を摺り寄せた。温かい母親の頬で、少し体温の低い千紗の手の平は温かくなっていく。満遍なく涙に濡れていった。

「千紗、お願いがあるの」

「……うん。あんまり怖いこととか、難しいことは無理だよ? 私……あんまりその……自信ないし」

「大丈夫よ、簡単なことだから。……おばあちゃんとお母さんからの十八歳のプレゼントを、取って来て欲しいの」

 なんだ、用意してあったんじゃない。千紗は困惑しながら、頷いた。

 千紗と同じくらいの大きさの手が、包み込み指を撫でる。ベッドの上で顔を上げた千紗の頭をやんわりと撫でて、母親は千紗の髪の毛に頬を寄せた。

(小さな子供になったみたい)

 千紗は瞼をゆっくりと閉じる。

 遠い向こうで看護師が話す声が聞こえてきた。ワゴンを引く音が病室の前を通り、行き過ぎていく。どこからか微かに聞こえてくるナースコールに、見舞客の声。足音と騒めく声は少しずつ意識の向こう側に消えていった。

「……どこに? 家のどこかに?」

「……おばあちゃんの家にしまってあるの」

 はあ、と母親は深く吐息ついた。

 撫でる指がゆっくりと離れて、顔を上げた母親は戸惑い見上げる千紗の顔を微笑みながら見下ろした。眠る祖母と千紗の顔を交互に見て、震える唇を開く。

「千紗とおばあちゃんはそっくりね」

 母親の涙はまだ止まっていなかった。目尻から伝う滴が、ぽたりと顎先から落ちる。

「誕生日の前の日にそれを受け取ってから、千紗は病院に来なさい。お母さんは明日おばあちゃんについていられるから、千紗は明日来なくていいわ」

「……お母さん、でも」

「……和室の奥にある和箪笥の真ん中、分かる?」

 千紗は記憶を掘り起こした。

「……うん、多分」

 欄間の松の彫りがなんとなく恐くて、千紗が足を踏み入れることが出来なかった奥の和室には、二棹の箪笥がある。曾祖母からの最後の贈り物なのだという美しい箪笥は決して触れないようにと固く祖母に言い聞かされてきた。

「向かって右の引き出しの奥に、隠し扉があるの。知っていた?」

「知ってる……けど、そこは開けちゃダメだっておばあちゃんが」

 弱々しく言い返した千紗の前で、母親はゆるく首を振った。

「違うのよ、小さな千紗には見せちゃ駄目だったの。あれは……十七歳の千紗の物だから」

「……でも」

 触れていた千紗の手が強く握られた。俯く千紗の顔を母親が覗き込んで、唇を戦慄かせた。立ち上がり千紗の横にしゃがみ込むと、胸に千紗の頭を抱き寄せる。

 頭の上で声が聞こえて、涙が沁み込んでいった。

(温かい)

 別に哀しいことなんてないのに、最後のような気がして千紗の目からもまた涙が零れていく。震える腕を母親の背に回し、千紗は子供みたいに抱き付いた。漏れてくる声が水気を帯びて「お母さん」と呼ぶ。

「千紗、大好きよ。千紗は……お母さんの宝物よ?」

 初めて聞いた母親らしい言葉に千紗は思わず噴き出した。笑った癖にからかう言葉は出てこなかった。素直な心からの気持ちが口から零れ落ちる。

「私も……お母さんが大好きだよ。あんまり傍にいてくれないけど、それでもお父さんもお母さんも大好きだよ」

「初めて聞いたわ」

 母親は可笑しそうに応えた。

(初めて言ったもの)

 小さなころから傍にいて貰った覚えなどなくて、母の日の絵を描く授業で千紗は祖母の絵を書いた。行事に母親が来た覚えもなく諦めていたところもあった。おばあちゃんがいたらいい、言い聞かせて我慢していた。

「大丈夫、大好きだよ。今は……そう言えるよ」

 たったひとりの人を見つけた。もう逢うことの出来ない人は、空洞だった千紗の胸一杯に収まって千紗の胸を締め付けて揺らす。大切な人を大切だと素直に思う心を、今は知っている。

 鼻を突き付けて、近くから向かい合った。少し痩せたような気がする母親の顔は眠る祖母よりも少し骨ばっている。綺麗に薄化粧された顔からは、ほんのり香水にも似た匂いがした。

「……千紗、箪笥の隠し扉の中身をあげる。十八歳のお祝いに、おばあちゃんとお母さんからとても大事なものをあげるわ」

 だから、誕生日におばあちゃんに逢いに来なさい。

 母親は微笑みながら言った。

 涙は止まっていなかった。はらはらと花弁か雪片のようにシーツの波に落ちていった。


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