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◆ ◆ ◆
「顔を見せないつもりかい」
誰へとは、金田も敢えて口には出さなかったらしい。知らぬ存ぜぬを貫く桐野に対し何やら思うところがあるのか、金田がほとほと呆れ返った声を上げる。
言われた当の本人は金田の反応など何のその、慣れたいつもの恰好で原稿用紙になど向き合っている。器用に筆を唇で挟み込むと、足りなくなったインクを豪快に小皿へ注ぎ入れた。その無造作ぶりで床と桐野の千筋の裾に飛沫の点々が付いていく。
無造作な仕草に金田の溜息が止まらない。
「桐野君」
「……何ですか」
「インク瓶は其の侭使い給えよ。在れだけ女性とも見紛う繊細な文を書く作者が此れでは、読者も夢破れて仕舞うだろうに」
「勝手に見た夢など、破れて仕舞えば良いだろう」
部屋に了解も得ずに踏み込んだ上、宛てつけの様に繰り返される嘆息に、桐野こそ嫌気が刺すくらいだ。桐野はだらしなく垂れた前髪を鬱陶しそうに掻き上げて、着流しの袖を捲り上げた。床に置かれた湯呑の中身を一気に煽り、その後黙りこくると膝の上に歪んだ紙束に猛然な勢いで筆を走らせる。
背中に当たる壁が冷たいと身体が冷えて震えが来る。桐野は少し思案した後、だらしなく広げた膝を近くに投げ出した羽織の中へ差し入れた。冷えも厳しくなると、治りかけの傷が痛む。既に傍目には傷跡も薄らぎつつあるというのに、奥底がしんしんと痛むような気がした。
そんな時は決まって筆が止まるのだ。
定期的にやって来る其れは胸を深く抉っていく。それでも皮肉なことに抗えない喪失感で以て書いた文は世間で高い評価を得た。
足元に広がった紙には、枡目に入らず乱雑に書かれた文字がのた打ち回っている。辛うじて振られた番号だけが、話の続きを教えていた。桐野は書き終えた原稿用紙を投げ置くだけで並べることはしなかった。広がった原稿用紙を集め新聞社に持って行くのは担当の仕事なのだ。
「新聞の連載は好評のようだね」
金田の声に返事もせず、桐野は止まった筆の所為で途切れた原稿用紙をぐしゃりと片手で握り潰した。金田の近くに放り投げると、皿に筆先を突っ込み仮名を幾つか書き込む。
あの一件で入院する羽目になった桐野は逃げるように病院を飛び出した後、結局新聞社に就職し紙面に連載を持った。
好評を得た小説のお蔭で、今や桐野の元には求めずとも依頼がやって来る。思ったよりも多額の報酬も貰い貸し家位なら十分に持てるというのに、桐野は未だ下宿屋に居座っていた。大雨が降ると天井から水が滲み出してくる。数十年は修理もせずに建っている古い下宿屋だ。そろそろ貧乏学生を追い出して建て直そうとしているとも聞いている。
出ようとは思わなかった。身の程に合う場所だ、そう思っていた。
「寒いな。桐野君、一寸貰うよ」
是と返事したわけではないのに、金田は部屋の真ん中の山積みになった本の隙間から酒瓶を取り出した。桐野に倣い空の湯呑に遠慮なくなみなみと注ぐと、一気に煽る。垂れた滴を手の甲で拭い、もう一杯、金田は満杯に注ぎ込んだ。
流石の桐野も黙っていられず、まんじりとして口を開く。
「金田君。無くなったら次のは頼みますよ」
「勿論だとも」
宙に杯を揚げ、金田は桐野が背を預けた逆側の壁に背を預けた。別にこの部屋の作法だと言ったわけでもないのに、金田は律儀にも桐野の格好と同じように片膝を立て片足を近くの洗濯物の山に突っ込んだ。満足そうに頷いている。
「成程、此れならば少しは温かい」
「……馬鹿なことまで真似しないで下さいよ」
ちらりちらりと蝋燭の灯りが揺れる。
瓦斯燈の眩しさは今の感情を逆撫でして、桐野は燃えるものばかりの部屋の中で蝋燭の灯りを唯一の光源に選んだ。隙間風吹き込む部屋の中ではそれすら危うげだ。いつ消えてもおかしくはない炎は、天井へと立ち上り向かい合う金田の顔を物憂げに見せている。
外は雪だった。あっという間に長かった秋は過ぎ、今や外は完全な冬に成り替わっている。降り続く雪は最初こそ静かだったものの、次第に強くなり外からは哀しげな風の声が聞こえていた。
はらはらと舞い落ちる雪は先程まだ静かに降っていた時分、気持ちが乗らず気分転換で外へ出た時に桐野の上へ放射状に降ってきた。見上げた額と鼻に乗る冷たく小さな塊。乗った端から溶け落ちて頬を辿り顎へと落ちていく。
部屋の中に火鉢は無かった。暖取るためのものを置かず、息が白い部屋で桐野はインクを付けた筆を動かす。覗き込んだ湯呑には、先ほど煽った所為で一滴も残っていなかった。
小さく嘆息し、丁度間に位置する卓を見遣る。このまま書き続けているよりも咽喉の渇きの方が勝った。数行だけを書き入れた中途半端な原稿用紙を脇に投げ付け、桐野は体を起こす。
手を伸ばし、瓶の細い首を掴む前にそれを奪われた。
不機嫌そうに目を細め睨む桐野に、金田が悪戯を思いついた子供のような顔をして笑う。
「付き合い給えよ。僕も飲みたい気分なのだ」
そう言うと、桐野の湯呑を出すように促した。不本意ながら掌握されてしまった酒瓶を取り返すことも出来ず、桐野は湯呑を持った手を金田に突き出す。
なみなみと酒が注がれる。
声を掛けたわけでもなく、何方ともなく杯を揚げた。互いに無言のまま中身を煽る。あっという間に空になった桐野の湯呑に、金田は瓶を傾けてくる。桐野と視線を合わせないままで金田は口を開いた。
「伊沙子嬢は健勝な然うだよ」
「然うですか。其れは良かった」
桐野は応えた。心からの言葉だ。
「然うだね。良かった、と僕も思う」
金田が一言溢すと、湯呑を煽った。
「彼女は此の数か月のことを覚えて居ない然うだ。只ずっと、夢を見て居たのだと言った」
「……然う、ですか」
上野精養軒でベランダから落下し病院へ運ばれた千紗は、落下した衝撃と首からの出血多量で一週間生死の境を行き来して、辛うじて命を取り留めた。瞼を開けた少女の目は、満身創痍な体で病室に駆け付け扉の前に立ち竦む桐野を少しも見ることもなく擦り抜けたのだ。
たった二通の手紙を残し、千紗は有るべき場所へと戻って往った。
(其れで良い)
桐野は胡坐を組むと、広がった裾の間から出た剥き出しの足の上で湯呑を手の平に包み込んだ。視線を落とすと、まだ残る酒の波に蝋燭の灯りがちらほらと映っている。
「食事と睡眠は摂っているのかね。随分と顔色が悪い」
桐野は口煩い金田に閉口した。
「……君には関係のないことだ。僕とは縁を切って欲しいとあの時、言ったはずですが」
桐野の言葉に、金田は呵々と小馬鹿にしたように笑う。
「無かったことにして呉れ、と僕も言った。君達を極秘裏に病院へ運んだ功労者を忘れたわけではあるまい」
ぐっと桐野は黙り込んだ。暫しの時間、湯呑を傾ける時間だけが続く。沈黙を破り、桐野が口を開いたのは酒瓶の中身が半分を切った頃だった。強く瞼を瞑ると桐野の視界が揺らぐ。危なげな口調で、桐野はゆっくりと問い掛ける。
「先生は……行って居るのですか」
桐野もまたどこへ、とは口にしなかった。
「然うだな、偶に顔を見せるらしい。彼の人も繊細だからね」
桐野は酒を煽る。唇から溢れ出した酒が咽喉を伝い、開け放たれた胸に伝って落ちた。半分残った酒を飲み終え一息つくと、金田に空の湯呑を突き出す。
「……ならばいいのです」
苦しくとも、未来に繋がると思えば堪え忍ぶことも出来る。桐野は僅かに歪んだ唇を、また満杯になった湯呑で隠し唇を僅かに付けた。
吐き捨てるように声を絞り出す。
「其れならば……本望だ」
本望とは何だ。そう考えながらも短く吐息つく。
夜が更けるにしたがって次第に強くなっていく風が、立てつけが悪くいつの間にやら開かなくなった窓を軋ませた。窓枠ごと揺れて、開いた僅かな隙間から吹き込んだ風が酒の回ったほろ酔いの体を冷やしていく。
本音を曝け出そうとする弱い心が咽喉を抉じ開けて出てくる前に、桐野は酒で言葉毎飲み干した。
何日も原稿用紙に向かい合い、満足に睡眠も食事も摂っていない体に酒が沁み込んで行くのが心地良いやら、不安やらで複雑だ。
「……桐野君。伊沙子嬢には会わないのかね」
金田が言った。
「会いませんよ。先程言った筈です」
桐野は言い捨てると声を出して笑う。酒の勢いなのか、自分の軟弱な考えが愉快で堪らなかった。
「会って如何成りますか。……僕が彼女との繋がりを求めて、一体如何成るのです」
「伊沙子嬢は君と話したいのだと言って要る」
金田の返答を聞いて、呵々と桐野は笑った。
笑いながら酒を煽った。醜く歪んだ唇の間から、酒がだらしなく零れ落ちる。十分に酒は全身に回っていた。酒も飲んでいるのか、ただ被っているのか分からないほどだ。
空の湯呑を床に叩き付け、桐野は上半身を金田に乗り出した。ウエストコートから覗く襟帯を掴み上げて、顔を寄せる。動じていない様子の金田は僅かに眉を上げただけだった。
「……僕を彼女に会わせて如何しようと言うんです。もう僕がすることなど無い筈だ。放って置いて呉れ、と伝えて呉れませんかね」
は、と金田は小さく嘲笑のような声を上げた。視線が桐野を突き刺す。
「……返して呉れと、云いたくなるのか」
金田は鼻を突き付ける桐野から視線を逃さずに聞いた。
桐野は直ぐに向かってくる視線から顔を背けると、金田の首から手を離し肩を突き飛ばそうとした。けれど、微動だにしない金田の所為で酒の回った桐野は簡単に尻餅をついてしまう。
苛立ち紛れに卓の上に乗った酒瓶を桐野は掴み上げ、口に流し入れた。滝の様に流れ落ちた酒に咽て咳き込み、次第に其れは弱々しい笑いに変わっていく。
笑いながら泣いた。泣きながら、声が零れ出た。
「……僕は馬鹿だ」
生きて往けるのだと思っていた。
この出会いが長くは続かない狭間の逢瀬だというのも分かっていたからこそ、互いに想いを知りつつも堪え口を噤んだ。伸びる指、微かに触れた指先。握り締めた桐野の手の中で細く脆い千紗の指が動いたのをまだ鮮明に覚えている。
「……在んな手紙だけで……生きてなど、往ける筈無いじゃないか……!」
焼けつく咽喉に酒を煽る。
酩酊した視界に転がった筆を見つけた。這うようにして桐野はそれを掴み上げ、懇願するようにしゃがみ込んだまま額を一度二度と床に叩き付ける。鈍い音の後、額に痛みが走った。下の部屋は空室だったと妙に冷静に考えた。
酒が咽喉を戻って来て咽る。激しく咳き込み、背中を折ると涙が落ちた。
「……返して呉れ」
理性で押し付けていた言葉が、酒が廻り愚鈍になった頭では抑え切れずに口から飛び出した。一度声に出すと堰を切って溢れ出てくる。
小さな掠れ声で桐野は名前を呼んだ。
「返して呉れ……! あいつを返して呉れ……っ」
叫ぶ度に、何度も酒を煽る。
金田はそんな桐野の姿を見遣り、初めて大きく顔を歪めた。両膝を付き両手を床に付ける。深々と頭を床に擦り付けると金田は口を開いた。
「……すまない、桐野君。君と千紗君の気持ちを煽ったのは僕も同罪なのだ。君が望むのなら、如何様にもしよう。許して呉れとは言わない。だから……頼む」
一度顔を上げた金田は、再度床に頭を擦り付けた。
「君は筆を折らないで呉れ。其の苦しさで以て、君は書き続けて呉れ」
「……巫山戯るな」
桐野は近くにあった原稿用紙を引っ掴むと、腕を振り回し頭を下げる金田に叩き付けた。紙の割に激しい音が響き、軽く両手で掴むほどはあった紙束が総て金田の上に広がる。辺りは白くなった。
酒の瓶を持ったまま、桐野はその場に立ち上がる。ふらつく体を壁に任せ、また酒を煽った。
「僕はお前の為に書いて居るんじゃない……!」
「知って居る。君は純粋に才能の思うが儘に書けば良いのだ。先生の文でもなく、誰でもない君の物語を書けば良いのだ。千紗君も、遠い先で其れを待って居る」
桐野は垂れた前髪の隙間から暗い目を覗かせて、凄んだ。
「何が分かる」
既に空に近かった酒瓶を床に放り出し、ふらり金田に近付いた。
「遠い先に生きる人間に遺して如何なると云うんだ……っ! 記憶が有るのかも分からない、探しなどしないかもしれない……!」
「探すよ」
桐野は金田の声に顔を歪めた。
「千紗君は、屹度ずっと先で君の痕跡を探す」
桐野の頬に涙が伝い落ちた。噛み締めた奥歯が軋み、頭に響く。金田に言い包められたようで、桐野はむきになって口を開いた。
「何もかも手中に在る人間に、僕の何が分かるって云うんだ」
震える両手で、桐野は金田の肩を掴んだ。
「偉そうに人に説教をしないで呉れ」
激しく前後に揺らすと、急に力を無くし崩れ落ちるように金田の前に膝を付いた。桐野自身、言っていることは荒唐無稽でただの八つ当たりに近いことが分かっていた。急に投げ遣りな気持ちになって、桐野は怒鳴り散らした声を落とし深く俯く。金田の顔を見ることが出来なかった。
「……放って置いて呉れ。僕は勝手に生きて死ぬ。誰にも迷惑は掛けたくはない」
小さな背中で腕を大きく広げ、史郎から満身創痍の桐野を庇っているのを覚えている。震える指で金田に借り受けたのだという小柄を握り締め首を傷付ける姿を見て、桐野は体中の痛みを忘れたのだ。
庭木と庭木の間に叩き付けられた体はまるで着物を羽織った日本人形のようだった。美しく大輪の菊が二輪ずつ、袖に伸びていた。首元は黒く染め上げられ、闇の中で見えるそのどす黒い色に桐野は我を失った。ふたつの目は固く閉じていた。
喪失感が胸を締め付ける。幻の様に消え去った女を希う浅ましい気持ちだけが宙に浮く。
「……君は」
金田は重い口を開いた。
「君は、僕が何もかもを手に入れたと言ったね」
金田はしゃくりあげる桐野の前で静かに立ち上がった。近くにあった羽織を掴み、ほぼ着流しの意味を為していない恰好の桐野の頭に被せる。羽織の裾から見える金田の手が、広がった原稿用紙をかき集めていた。部屋中に広がっていた紙の山は、金田の手によって集められ卓の上に置かれる。
顔を上げた桐野に、金田は背を向けたまま口を開いた。
「……僕にも決して手に入らないものは在るのだ」
声は笑ったようだった。自嘲にも聞こえた。
「其れを知って居たからこそ……僕は手に入れた君を羨ましく思う」
風邪を引くから着給え、と金田は言い残して後ろ手で部屋の扉を閉じた。軋む廊下を踏む足音が遠くなり、次第に消えていく。
残された桐野は、囁くような声で今ここに居ない女の名前を呼んだ。返事は無かった。




