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明治逢戀帖  作者:
第八章 綴ラレタ未来
53/61

    ◆     ◆     ◆


 白く塗られた手摺の向こう側にゆっくりと菊の花が消え、遠く聞こえる音楽の最中に重く鈍い音が響いた。

 身動きひとつ出来ず先ほどまで微笑む顔のあった今や闇でしかない部分を見遣り、史郎は揺らいでいた足を追ってやってきた人の影に一歩後ろへ引く。

「……ち、千紗っ! 千紗っ!」

 今にも後を追って飛び降りそうな勢いで上半身を乗り出し、先ほどまでのふてぶてしさは何処へやら桐野は血相を変えて叫んでいた。

 声は擦れている、声と云うよりも最早木枯らしに近かった。聞き慣れない名前が耳を打ち、名前を呼ぶ声の余りの悲壮感に違う名前なのだと咎める気も起きない。

 叫ぶ桐野の声に余程強く唇を噛み締めたのだろう。反応を返さない姿を覗き込んだ桐野の拳がベランダの床を打ち、唇からは一筋の血が零れ落ちた。

「畜生」

 吐き捨てるとその姿をただ見ていた史郎の前で身を翻す。部屋の中へと駆け込もうとして、桐野は激しくもんどり打った。腹を何度も蹴り上げられた所為で身体に自由が利かないらしい。激しく咳き込み、膝を付き桐野は「千紗」と諦めの混ざった掠れた声を上げる。

 二階のベランダから人が落ちたことに気づいたらしい客が、けたたましく悲鳴を上げたのが聞こえた。

 ほぼ同時に部屋の扉が開け放たれる。

「桐野君」

 金田だ。

 ベランダで立ち竦む史郎と、部屋の中央で腹を押さえ満身創痍な様子で膝を付く桐野へ素早く視線を回すと、金田は立ち上がる力を持たない桐野に手を伸ばす。

「要らない」

 桐野はその手を、かろうじて上げた右手で弱く叩き落とした。乾いた音がして、叩かれた金田は眉を跳ね上げる。

 無言でがつがつとテーブルに歩み寄ると、まだ並々と入っている水差しを無造作に持ち戻ってきた。全く躊躇なく、桐野の上で引っ繰り返す。修行僧のような面持ちになった桐野に、最後の一滴までご丁寧に水を被せ金田は言い放った。

「頑固なのもいい加減にし給え」

 長い桐野の後ろ髪を掴み上げ、金田は顔を寄せた。綺麗な顔だけに凄むと迫力がある。金田の声には抑揚がない。激しい憤りを強引に抑え込んでいる所為なのだろう。

「君は此処で意地を張るよりも、一刻も早く彼女の元に駆け付けるべきだ」

 知り合いに今は頼んである、と金田は継いだ。

 出血が激しいから無理かもしれない、とその次に出てきた言葉に、桐野だけでなく史郎もまた身じろいだ。水のお蔭で我に戻ったのか。桐野は金田の手を掴み立ち上がると、ふらつきながらでも扉へと辿り付く。

 指先の触れた壁が赤く染まっている。桐野自身の手でもあり、手摺におびただしくついていた血でもあるのだ。闇にも浮き上がる斑模様の手摺に、史郎は視線を向けた。そこに先ほどまでいた姿は無い。

「ひとりで行けるかね?」

「行ける」

 桐野の声に、金田は緩く微笑んだ。

「では、行き給え。僕は此処を収めてからにする」

 金田は闇に視線を向けたまま微動だにしない史郎を見遣った。

 桐野は深く頷くと「頼む」と伝え、ふらつきながらも壁を辿り廊下に足を踏み出した。ふと、思い出したように金田が桐野に声を掛けている。

「嗚呼、然うだ。桐野君」

 空になった水差しを置き、金田はベランダに一歩足を踏み出す。

「君の云った金田との縁の件、此処まで来て仕舞ったら収まりが付かないだろうから無かったことにして呉れ。あと、千紗君は動かさない様に頼むよ。万が一のことを考えてだ。医者が来るまで抱き上げるのは我慢して欲しい」

 桐野は返事もなく、薄暗い廊下へ消えた。

 見送った金田は騒然とした人の声がざわめくベランダまでやって来る。史郎の前で一度立ち止まり、ゆっくりとベランダの手摺を見遣ると顔を顰めた。

「医者は呼んだよ。此処でのことを公言しないよう、口止めも一応はした。だが無理だろうね」

 下から桐野の悲痛な叫び声が聞こえてきた。声に成らない声は「逝くな」とも「嫌だ」とも聞こえる。聞こえる度に夜風を受ける金田が強く奥歯を噛み締めているらしく、ぎりと云う音が聞こえた。

 ベランダに落ちた血だらけの小柄を金田は拾い上げた。テーブルから持ってきたのか、白いナプキンで丁寧に包むと、胸に仕舞う。

 史郎は一連の行動をただ見つめ、金田が口を開くに任せた。顔を上げた金田が暗い目を向けて言った。

「満足かい? 君の前で伊沙子嬢は身を投げた。此れから史郎君も後を追うのだろうか」

「…………」

「追い給えよ。僕も及ばずながらお手伝いをしてあげよう」

 軍人として研ぎ澄まされた感覚でも動きを読むことが難しかった。あっという間に伸びた手は史郎の筋肉質な首を掴み、たかが英語講師にしては強い力でぎりぎりと史郎の首を締め上げる。

「君の体格では其のまま落ちては骨折くらいで済んで仕舞うだろう。完全に息が止まってから此の手摺から投げて遣ろうか。何、気にすることはない。華族の方々と同じ様に金田も斯う云うことには慣れて居るよ。君らが嘲笑う成金にも其れなりの流儀が有るのだ」

 顔半分を闇に染め、夜風で崩れた金田の前髪が宙に舞った。薄い唇を歪ませ、金田は笑う。酷薄な笑みだった。

「あれは随分と猪突猛進だとは知って居たが、もうひとりのことを考えるのを僕は失念して居たよ。小柄を渡したのは、責めて君にでも切りつけることが有ればと思ったのだがまさか自分に使うとは」

 史郎の首に引き攣れた痛みが走った。金田が爪を突き刺したのだ。

 ぎりぎりと締め乍ら、金田の表情は冷め切ったままだ。唇だけを上手に歪ませ、笑みを作ることに成功している。史郎は苦しい息の中、声を絞り出した。

「あれは……お前が渡したのか」

「然うとも」

 金田は暗い顔を近付ける。

「君が桐野君を傷付けるのなら、手首から先を切り捨てて遣ればいいと思ったのだ」

 女の力で其処まで出来る筈はないだろう、そう言いかけて史郎は押し黙った。何も伊沙子がそれをする必要はない。小柄を桐野に渡したのであれば、互いに抜き只では終わらなかっただろう。

「……あの男が伊沙子の―――」

「其れが今の君の最重要事項なのか」

 呵々、と金田は天を仰ぎ笑った。

「伊沙子嬢が生きているか、死んでいるのかも分からないと云うのに、君はまだ其んな下らないことを言うのかね。執着も此処まで来たら天晴だな。実に……愚かしい」

「…………」

「桐野君を容疑者として突き出すかね。其れとも伊沙子嬢が自害したというつもりかね? 男爵継承に傷を付けない様に事態を収束させるには如何云えばいいのか、僕も一緒に考えて遣ろうか」

 殺すとまで言った口で、金田はそう言った。

「桐野君を警察に突き出したいのなら、彼が突き飛ばしたと言えばいい。伊沙子嬢だけに罪を被せたいので有れば、痴情の縺れとでも言えばいいのだ。結婚前の男爵令嬢が世を儚んで死んだことにしたらいい」

「……まだ伊沙子は死んではいない」

 史郎の声に、金田は声を落とした。

 下で狂ったように知らない名を呼ぶ男の声は途絶えていた。

「何、時間の問題だ。生きようが、君の拘束にまた伊沙子嬢は死を選ぶよ。彼女を蝕んだ呪いは然う云うものだ。運命とでも言おうか」

 史郎は押し黙った。

 本当に血の繋がった兄妹であることを、史郎はずっとひた隠ししてきた。故に下谷に暮らしていた本当の母親に金を払い、幼い伊沙子を養家へ出し下谷に出来るだけ近づかないようにさせたのだ。

 妾腹であることは桂木の家では禁句だった。伊沙子が知って居るとは思ってもいなかったのだ。只、伊沙子は養家を飛び出して、数年下谷で貧民の様に暮らしていた。史郎が知ったのは伊沙子の女学校への入学を控えた年だ。養家には既に伊沙子の影もなく、行方不明だと言われた史郎はまず下谷を探し回った。

 そこで見た目こそ汚いものの、美しく育った伊沙子を見つけたのだ。

 兄様、と伊沙子は呼んだ。小さな手で史郎の手を掴み、いつも後ろを付いてきた。

 妾腹でありながら嫡子である史郎に、桂木男爵の正妻である夏子は厳しかった。籍は死産だった夏子の子供の物であっても、史郎の方が実際二か月早かった。名前も総て違う、下谷でつけられた名はこれただ。伊沙子と一文字同じくして、永遠に失われた名前だ。

 同じ血を持ちながら、裂かれた運命を憎く思った。

 時が過ぎる度に美しくなる姿に胸が掻き乱され、兄と妹の垣根を越え想いが育った。膨らんだ想いは少しずつ病み、繋がりを奪う人間への憎しみへとなった。

(好かれなくとも、憎んで呉れたら良い。然う思うようになったのはいつからなのだろうか)

 史郎はままならない呼吸に薄らいできた視界の中で、伊沙子の姿を探した。最初は微笑んでいた伊沙子は、桂木の家で少しずつ笑顔を失っていった。長い欧羅巴の留学を終え戻ってきた史郎の目には、伊沙子は既に少女ではなく女になっていた。

 何も知らない無垢な子供ではなく、苦しみも切なさも良く知るただの女になっていた。

「殺して呉れ」

 史郎は懇願した。

「間違いを正す方法を知らないのだ。既に失われたものを悔やんでももう遅い。必要なら遺書を書こう。金田には迷惑を掛けない」

 史郎は下を見下ろした。駆け付けた医者と数名の看護婦、それに桐野が横たわる体の傍に寄り添っている。広がった大輪の菊が、土に広がった血を吸って夕暮れの中で咲いているかのようだ。

 成程誰が伊沙子を想おうと勝手だ、と史郎は思った。生きていつか、兄として認めてくれたのであれば傍にいなくとも構わない、とも思った。

 締め付ける手に僅かな抵抗を見せて力を入れていた首から、史郎は完全に力を抜いた。真意を探る様に覗き込む金田の顔を見遣り「伊沙子を頼むと伝えてくれ」と言った。

「……然う遣って君は逃げるのか」

「…………」

「此の件で、君の家には記者が殺到するだろう。伊沙子嬢の婚約も破談になり、膨大な婚約破棄慰謝料も発生する。廃爵になった場合、借金が残る。君にはもうひとり、妹が居るだろう。君はそれを総て、久美子嬢に被せるのか」

「……久美子」

 気の強いもうひとりの妹を、史郎は思った。流れる血が半分違うことを知らない久美子が、本当のことを知るとどう思うのか考える。

「死ねば終わりか。君が追い遣った男爵は如何なる。君が死ねば伊沙子嬢は助かっても間に合わなくとも尊厳を失うのだ。責任をふたりの妹に被せるのか、情けない」

 金田は強く吐き捨てると、史郎の首を投げ捨てるように手放した。

 「妹の為にも生き汚く成り給え、桂木中尉」

 一度、手すりの下を覗き込み嘆息すると金田は足音高らかに史郎から離れていく。足音はそのまま開けっ放しの扉を抜け、廊下へと消えた。

 ベランダの床にずるりと腰を下ろした史郎は、血濡れた自分の手を見て危なげな呼吸を繰り返した。天を仰ぎ、星の瞬く空を見上げる。

「…………伊沙子」

 残した金田の言葉に、史郎は初めてひとつ涙を溢した。

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