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明治逢戀帖  作者:
第八章 綴ラレタ未来
52/61

 静かな森の中、闇の奥に浮き上がりぽつんと大仏が建っている。

 時の鐘と呼ばれる建物の合間を抜けた場所に上野精養軒はあった。二階建ての洋館、正面向かって二階にはベランダがあり、大きな窓向こうには煌々と電灯に照らされた窓がある。

 森は暗く、濃い闇色に染め上げられている所為だろう。窓の明るさがより眩しくて、千紗は浮かび上がる建物を見る目を思わず細めた。

 千紗と金田は、馬車を走らせた遠い森の向こう側で夕刻六時の鐘を聞いた。

 上野の時の鐘が鳴らす定刻の鐘だ。朝六時と夕六時、正午にもまた鳴るのだという。響く捨て鐘の音が胸を騒がせ、ぼそと呟いた金田の「正確過ぎて反吐が出る」と珍しく毒のある言葉にも、千紗は反応を返すことすら出来なかった。

 車輪を軋ませ、店の前で馬車は止まる。客の来訪を知り、開けられた扉に飛び込もうと千紗は身を乗り出した。

「……桐……っ!」

「千紗君」

 ぐいと袖を引かれ、咎めるように千紗は振り返った。金田が小声で背後から引き止めたのだ。

 落ち着いている場合ではない、そう言いかけてぐっと押し黙った。無理やり押し掛けて通してくれるわけがない、そう金田が暗に言っている。

(任せよう)

 千紗は外套の裾を強く掴み、唇を噛むと頷いた。

「……はい」

 身体はその場に留まっても心は逸る。直ぐに戻ると御者に言いつける金田の声をどこか遠くで聞きながら、千紗は闇に浮き上がる洋館を見上げる。

 人の影が窓向こうに見えた。目を凝らそうにも暗さに慣れた今の目では、誰なのか判別することも難しい。きっと晴れた空には映えるだろう建物は今や屋根が何色なのかも分からなかった。店の中から漏れてくる微かな音楽にはまだ喧騒も何も混ざってはいなく、それにまずは安堵する。

 金田がまず先に悠々と店に入って行った。

 迎えた店の人間は、金田と千紗を見るや否や恭しく頭を下げた。

 先生の家のガス灯や闇に慣れた千紗の目に眩しいほどに電灯で照らされた店内は、華族行きつけのレストランというだけあって入り口からして様子が違う。今は男爵令嬢の皮を被る千紗でも、銀座のビアホールとは明らかに違う空気に思わずたじろいだ。

 だが過去、伊沙子も利用したことが有るのだろう。そんな挙動不審な千紗に気付いていたとしても、あからさまに店の人間が不審げな視線を向けてくることは無かった。

 外套を後ろから静かに脱がされる。千紗は店の使用人の手に収まった仄かに温まった外套に振り返った。

「ごめんなさい。このピンだけは外しても良いですか。持っていたいんです」

「畏まりました」

 千紗が取るより先に、丁寧な仕草で真珠のピンが外套から外された。手のひらに乗せられたピンを強く握り締めてから胸につけると、千紗は少し前で店の人間と話をする金田を見遣る。

 耳を澄ませば静かな音楽が聞こえてきた。行進曲にも軍歌にも聞こえてしまう一本調子のそれは食事をする場にしては少し胸を騒がせて、千紗は忙しなく周りを見渡した。

 どこも変わった様子は見られない。けれど大人しく二人が話に甘んじてくれているとは思えなかった。恐らくまだ顔を合わせたばかりなのだろう。

(……良かった。間に合ったんだ)

 鼻を擽るのは食欲を煽る匂いだった。歓談する声がわずかに聞こえてくるのをみると、店は随分と混み合っているらしい。

 胸に仕舞われた手紙を着物の上から押さえつけた。

 前を向いていた金田が、話を終えたらしく千紗に振り向く。

「伊沙子さん、君の兄上は二階だそうだ。早く忘れ物を届けに行かなくては」

 千紗は頷いて、金田の視線を真っ向に受け止める。

「……はい」

 恐らく史郎は人払いを頼んだのだろう。そう易々と人を通さないよう、固く言いつけていたに違いない。金田と千紗を案内しようと、店の使用人がひとり前に立った。

(……連れて行った方が丸く収まる?)

 千紗は、動向を待つ金田を見遣った。

 店の人間の前では史郎も流石に無体な真似はしないだろう。でももし店内で史郎が激昂して桐野に手を上げることが有れば、店の人間が同じ場にいればどんなに隠したとしても下にいる客には伝わってしまう。ここで食事をするのは桂木家に関係ない客ばかりではないだろうし、男爵家の威信が届かない侯爵や伯爵に子爵なる人物もここにはいるのかも知れなかった。

「あの」

 千紗は前で案内しようと待ち受ける男に首を振る。

「兄に忘れ物を届けに行くだけなんです。皆さんは仕事を続けて下さい」

「……しかしお嬢様」

 戸惑う使用人に、胸の手紙をちらり見せる。

 と、背後で戸が開いて新しい客が入ってきた。美しい着物姿の女性と、燕尾服の男性だ。客は立ち止まる千紗と金田、それに店の人間を見て訝しげに顔を顰める。確かに玄関先で押し問答はあまりいいイメージではない。千紗はちらり、後ろを見てからなおも首を振った。

「たったこれだけなんです。どうしても今日渡さなくてはいけないと言っていたのに。だから、大丈夫です」

「……ですが」

 どうやら使用人は金田の存在を気にしているらしい。

 千紗はちらり、金田を見遣ると向き直った。店内に案内されていく男女を視線で追い、千紗は笑いかける。緊張と焦りで強張った唇がぴくり震えてしまった。

「金田さん、先に席で待ってて貰えますか? 私、お兄様に声を掛けてから直ぐに戻ってきますね」

「ふむ」

「もしかしたらもうひとり増えるかもしれないから、席は三席お願いしたいんです。お食事はここでしたいから」

 内心を押し殺した千紗の機転に、にこやかに金田は応じた。

「構わないよ」

 胸から出したハンカチを千紗に手渡し、すぐ金田は半身を返す。

「紅が少しはみ出て居るから、此のハンカチーフでお直しなさい」

 千紗は首を傾げた。紅は桂木邸を出るときからすでにすっかり取れていたというのに、闇の中では影になって見えなかったのだろうか。千紗は少し大き過ぎるハンカチを怪訝に思いながら両手で受け取る。

 手の中に僅かな感触があった。

「………」

「君はお転婆だから其んな恰好で行くと兄上に叱られて仕舞うよ。余り兄上を怒らせない様にし給え」

 金田に言われるがままに唇に軽くハンカチを当てた。落とさない様にそれをうまく包み込むと、千紗は素早く胸に仕舞い込む。

「これで、いいですか?」

「ふむ、良いのではないだろうか」

「ハンカチは綺麗にして返しますね。それじゃないと気が済まないんです」

「気に入っているので綺麗なまま返して呉れると嬉しいよ」

「……はい」

 中に包まれているのは小さく細長いものだ。千紗は胸を上から押さえた。

(これを出来るだけ使わない様に……ってこと)

 千紗はいまだ納得がいかない顔の店の使用人へ微笑みかけた。一歩、足を踏み出しても追ってくる様子はない。

「ごめんなさい。お部屋は二階でいいですか?」

「はい」

 頑固なお嬢様に押し通された形で強引に予約されていた部屋を教えて貰う。千紗は小さく深呼吸をして二階への階段をひとりで上がった。

 店内に比べ、廊下は比較的灯りを抑えているようだ。通りすがる客同士の顔が見えない様な配慮だろうか、誰もいない廊下を勝手に通り、静かな部屋の前に立つ。

 小さな声が聞こえる。声を落とした男の声だった。

(良かった。まだ話してる)

 本郷を経てもなお、間に合った。千紗は胸を撫で下し、先ほど渡された金田のハンカチを開いた。

 真鍮製の柄を持つ小柄だ。中を引くと真っ直ぐ伸びた刃は薄暗い電灯を受け鈍く光っている。レターカッターにしているのか、端に小さな紙切れがついていた。

 かたん、と小さな物音が鳴る。それが呼び水になったように、次いで激しい音が千紗の目の前から聞こえてきた。開けようとした扉が軋み、僅かに部屋の明かりが廊下に漏れてくる。

「……っ!」

 千紗は唾を飲み込み、ノックをしようとした手を思わず止めた。

 扉の向こうで桐野の声が聞こえる。随分と低いところから声は聞こえ、くぐもって聞こえた。扉に背中を預けているのかもしれない。

「僕が此んなことを頼むのはお門違いだとは理解の上だ。然し、其れを承知で此処で懇願して居る。伊沙子嬢を桂木の家から解放して遣って欲しいのだ」

 桐野の声に、呵々と史郎が高笑いを返した。

「何を馬鹿げたことを。わざわざ時間を作らせてさぞかし馬鹿げたものを見せて貰えると思ったが、こんなものでは興ざめだな」

「僕は至って本気だ。彼女には好いた男が居る」

 何かをひっくり返した音がして、千紗は扉の取っ手にしがみ付いた。声を張り上げようと口を開いた向こう側で物音がする。

 掴んだ取っ手はまるで鍵がかかったように開かなかった。

(入って来るなって言ってるの?)

 千紗は廊下を見遣った。二階には他の客もいるだろうか。もしいたとしたら、ここで千紗が中の二人に大声を出すことは出来ない。千紗は力任せに取っ手を掴み、力任せに引いた。廊下側へ外開きになるだろう扉はやはりびくともしない。

 史郎の物騒な声が、向こう側から聞こえてくる。

「……私に殺されたいと言って居るのか。婚約者の居る令嬢に手を出して只で済むと思って居るわけではあるまい」

「勘違いするな。相手は僕などではない」

「其れを信じろと? 此の様なところまで伊沙子の為に来ておいて、関係が無いと云うのか。馬鹿げたことを言うな」

「如何思おうと君の勝手だ。僕は、彼女の幸せだけを考えて動いて居る。彼女を望む人間と結びつける為なら、僕如きの命など惜しまないと決めたのだ。君は」

 声が一度途切れた。

「……君は妹を殺したいのか」

 桐野の低い声に、激昂したらしい史郎が足を出したのだろうか。鈍い音の後、苦悶に喘ぐ声が聞こえた。

 千紗は我慢できずに扉にしがみ付いた。震える手でも周りに配慮して扉を小突き扉に顔を摺り寄せると、囁くように声を出す。

「桐野さん……桐野さん。ここを開けて下さい……っ」

「いつしか伊沙子嬢は君の束縛に病んで仕舞うだろう」

「其れが如何したと云うのだ。お前には関係のないことだ」

 史郎はせせら笑っているようだった。

 桐野は狂気じみた史郎の様子にも動じないふりで、言葉を続ける。

「君は其れを待って居るのか、桂木中尉。君は妹と共に死にたいのだろう?」

「………」

「……桐、野さん。桐野さん……っ!」

「桂木中尉、君は伊沙子嬢と生きては結ばれないのを知って居るのだ。追い詰めて、追い詰めていつしか死を選ぶとき、共に逝こうと考えて居るのだろう」

 鈍い音が連続して聞こえて扉が激しく軋み、千紗は小さな悲鳴を上げた。飛びつくように取っ手にしがみ付き、回す。頬を付けると、甲高い囁き声で懇願した。

「お願い! お願いします! 手を離して私を入れて……っ!」

 叫び声を上げられないように史郎は腹部へ集中して蹴りを入れているのか。扉の向こう側の桐野の声は何か水を含んだようなくぐもった声だ。

 史郎が拳を叩きつけたのだろうか。扉の向こう側で一際大きな音が聞こえ、千紗は扉から飛びすざった。

「……伊沙子」

 こんな時には不似合な程、優しげな声を出して史郎が呼びかけてくる。

「待っておいで。今、此の男を片付ける」

「止めてっ! 止めて下さいっ!」

 千紗は拳を握り締めて、扉を叩いた。ここで誰かが廊下に出てきたらどうしよう、そんなことを考える余裕もなかった。桐野は命知らずなのか、それともただ単に言いたいだけなのか。口を閉じることはない。

 それが千紗には恨めしかった。

「君が追い詰めても、共に死ぬことも叶わないのだ。共に逝けるとでも思ったか、伊沙子嬢が君の知らない所で死を選ぶとは考えないのか。……伊沙子嬢の周りの絆を総て君が強引に絶っても、彼女には既に心に住んでいる男が居るのだと考えないのか」

 桐野は笑った。顔の見えない千紗には、ただ咳き込んだだけにも聞こえた。

「愚かだな、桂木中尉。さながら君は、手に入らない玩具を前に地団駄踏んでいる我が儘な子供だ」

 激しく鈍い音が聞こえて、一瞬桐野が気を失ったのか。掴む取っ手に抵抗が薄れた。千紗は勢いよく扉を引き、そのまま足元に転がってきた桐野の姿に声を失う。

「……き、桐野さん……?」

 唇には血が滴った跡がある。蹴りつけただろう史郎の軍靴のつま先には桐野の血がこびりついていた。

「伊沙子、この様なところにまで如何した」

「………」

 千紗は微笑む史郎を睨み付け、後ろ手で扉を閉めた。

 廊下を通る客に桐野と史郎のことを知られたくはない。後のことを思うと、せめてここだけで話を終わらせたかった。

「桐野さん? ありがとうございます。私はもう大丈夫」

 しゃがみ込んで倒れる桐野を胸に抱き寄せた。

 ついこの間までまるで何も知らないただの高校生だったはずなのに、こんな時に妙に冷静になっている自分が千紗はおかしくて仕方がない。二か月と少し、それがまるで千紗の十七年間に迫る勢いだ。

 こうやって、伊沙子は史郎と向き合ったら何かが変わったのだろうか。今はもう、分からなかった。

 腫れた桐野の頬を優しく指で辿る。痛みに唇を歪めた桐野は僅かに目を開き、千紗は安堵で微笑む。

(良かった。意識はある)

 緩んだ顔を強張らせ、千紗は史郎に向き直った。

「この人は関係ありません」

「伊沙子、其処を退け」

「退きません。関係ない人を切って、どうするんですか」

「関係ないとは思えない。其んなに血相を変えて」

「兄が人を切ろうとしているのを見て、普通でいられる妹がいるわけないじゃありませんか」

 史郎が一歩足を踏み出した。千紗は自らの身で守ろうと、また意識を失った桐野を背に隠し両手を広げる。羽織った着物の袖がぱらりと広がった。美しい大輪の菊が、天へと昇っている。

「伊沙子、如何遣って家から抜け出した」

「教えたくありません」

「私が彼奴と話をすることを誰から聞いた」

「教えたくありません」

 史郎の指が乱暴に千紗の顎を捉えた。唇の下に食い込む指に、千紗は顔を歪める。

「此の男は如何云う関係だ」

 千紗は唇を噛んだ。俯きかけた顔を、無理やり史郎に向き直し歯の拘束から唇を離す。

「私のお慕いしている方のお知り合いです。この人は関係ないです」

 ぎり、と顎に指が食い込んだ。

「……其れを信じると思ったか。来い」

 史郎は桐野を庇うように広げた千紗の腕を掴み、窓際へと引き摺って行く。千紗は扉前で横たわったまま動かない桐野を振り返った。足をどんなに踏み締めようとも、軍人の力には敵わない。千紗の身体はどんどん桐野から引き離され、窓の近くまで連れて行かれてしまった。

 史郎の身長よりも大きな窓枠がある。向こう側にはどこまでも続くように見える深い闇があった。

(ここって外から見たベランダ……)

 開けたベランダに千紗は投げ出された。手摺にしこたま額を打って、千紗は悲鳴を上げる。

 裾の広がった着物を慌てて戻し、千紗は覆いかぶさる様に近付いてきた史郎を仰ぎ睨み付けた。胸に隠された小柄に思わず触れる。最悪の事態になるまで抜き取ることはしないと決めていた。

 その時が、近付いているのかもしれない。

 細い千紗の首を片手で掴み、史郎はいともたやすく手摺に押さえつけてしまう。千紗の身体は半分ベランダの外へと投げ出され、腰から下を史郎の身体で押さえつけられる形で何とか留まっていた。

「言え、あの男はお前の何だ」

「……関係ない人……です。私は違う人が好きなんです」

 言いながら涙が出てきた。

「あんな人じゃない。もっと優しくて素敵な人なんです。苦しむ私をずっと励ましてくれた人です。あの人なんかじゃない……!」

「はは」

 史郎は千紗の涙を優しげに拭った。それを口に含み、指を舐め取る。

「如何でも良い男の為に泣くか」

 ぎり、と千紗の首が絞められた。呼吸の出来ない苦しさに喘ぎ、千紗は手から逃れようと上半身を大きく逸らせる。

「お前は私のものだ。伊沙子」

「千紗っ!」

 史郎の背後から、桐野の声が響いた。

 千紗は史郎の背中越しに扉に背を預け、体を引き摺る様にして立つ姿を見つけた。腹が痛むのか、片手で腹を押さえ、片肩から右手がだらりと垂れている。もしかしたら蹴られた衝撃で脱臼しているのかも知れない。想像すると背筋が寒くなった。

 千紗は満身創痍な桐野の姿を見て、思わず叫ぶ。史郎が首を拘束する指を緩めたのに気づいたのだ。

「こ……来ないで! 来ないで下さいっ! 桐野さん!」

 史郎の目はもはや千紗を見ていなかった。伊沙子である千紗を、桐野が「千紗」と呼んだことにも気づいていないのか。桐野が千紗に近付いていること自体に苛立ちを感じている。

(桐野さんが殺されてしまう)

 千紗は手摺を掴んでいた指を外し、胸の中に突っ込んだ。手に当たる小柄の感触に唾を飲み込む。

 拘束する史郎の指は今にも千紗から離れそうだった。千紗は覚悟を決めて、小柄から鈍く光るものを抜き取る。首に当てた。

「……如何云うつもりだ」

「あの人を殺すなら、あの人と共に私も死にます。史郎さんはそれが赦せますか?」

「千紗っ……止めろ、千紗っ!」

 桐野の懇願する声を聞きながら、千紗は首に冷たいものを押し付けた。引かないと切れないのは知っている。それでも脅す為には本気であることを見せなくてはいけない。

(金田さん、ごめんなさい)

 皮膚に痛みを感じるほどに容赦なく千紗は刃を押し当てた。史郎はそんな千紗を見て、嘲るように笑う。

「はは、震えて居る」

「本気です」

 ぶつ、と鈍い音がして皮膚を刃が破り、史郎が持ち上がった口端を下した。首筋に流れてくる血は千紗の首から鎖骨を通り、着物の襟を汚している。生暖かい感触が下に落ちていくさまは気持ち悪かった。痛みではなく熱湯を注がれたような熱さが首筋にやって来て、千紗は顔を歪める。

「あの人だけじゃない。誰かを殺したら、その人と共に死にます。長根さんも、お父様も一緒です」

「……父上もか。あれは人として壊れて居る」

「それでも、です」

 睨み付ける史郎は首筋を掴む自分の指に垂れた鮮血に驚いた素振りも見せず、ゆっくりと指を離すと手の平に真っ赤なそれを擦り付けた。どこか夢見心地な表情で千紗を見る。

「お前は私のものだ」

「私は史郎さんの物にはなりません」

「他の男の物になるのだろう。私の前から去っていく」

「それでもずっと、私は史郎さんの妹です」

 口から流れるように言葉が飛び出してくるのを千紗は感じていた。心の奥底でずっと伊沙子が兄を案じている。伊沙子を大切に思うが故、十八まで生きることが出来ないという呪いは伊沙子だけではなく史郎までも蝕んでいた。

 伊沙子がそれに絶望を抱きつつ救いを求めていたように、史郎はいつか失うものの恐怖に怯えていた。

 千紗は小柄を持ったまま、片方の手を手摺から外し目の前の頭に手を伸ばす。恐る恐る髪の毛に触れて、出来るだけそっと優しく史郎の頭を胸に抱き寄せた。

 心の奥底に伊沙子の存在を感じる。千紗は浮かぶ言葉に任せ、ただ心のままに従うだけだ。

 少し離れた場所で桐野がこちらを向いていた。血だらけの身体を見て桐野は大きく顔を歪めている。千紗は少しだけ視界の片隅にそれを入れてから、そっと瞼を閉じた。

「……情合などで結びつけずとも、伊沙子はずっと史郎お兄様の妹です」

 ゆっくりと史郎の頭を撫でる。胸の中にいる史郎はまるで癇癪を起した子供だ。宥めるように静かに撫で、頬を擦り寄せる。

「此の身が果てようとも、ずっと其れだけは変わりません。だって……お兄様は伊沙子の本当のお兄様ではないですか。お父様もお母様も一緒の本当のお兄様ではないですか。伊沙子を下谷へ迎えに来て呉れたのは、他でもないお兄様ではないですか」

 伊沙子が千紗の中で泣いている。

 伊沙子の母親でもある女は、桂木男爵の子をふたり産んだ。妾を外に持つことは何ら珍しいことではない。ひとりは秘密裏に小石川の桂木の屋敷に連れて行かれ、身体の弱かった正妻の夏子が産んだとされた。その後何年も経て、変わらず桂木男爵が通っていた女には、歳離れて伊沙子が出来た。

 女であれば使い道がない。捨て置かれた伊沙子を桂木に向かい入れたいと言い出したのが、史郎だ。女児を生み落し、男爵の寵愛を失った女は下谷で生きていくだけでぎりぎりの生活をしていた。幼い伊沙子はいつ死んでもいいような生活だった。

(だからなの? ここまで執着するのは)

 当時、史郎は十二歳。幼い頃から嫡子として教育を受けた史郎は、その血のことをひた隠しにして来たのだ。伊沙子を穢れた血だと厭いながら、自らの血を呪っていた。呪いながら同じ血の流れた伊沙子を突き放せず、求め執着し縛り付けた。

 ただ、妹故に。

「誰がお兄様の味方でなくとも、伊沙子はお兄様の味方です。男性としてお慕い出来なくとも、お兄様は私の宝物です」

「………」

「……ご免なさい。お兄様と向き合って……お話するのが怖かった。先に逃げて仕舞ったのは私ですね」

 ふわりと体が宙に浮きあがった気がした。首を流れる血が胸を染め抜いてしまっていることに今更気づく。

 血に濡れた指で史郎の顔を撫でた。既に千紗の意識は伊沙子のものと取り替わり、奥底で伊沙子がすることを黙って見ていることしか出来ない。妙に体が重く、自分の意思では指を一本も動かせない。

「……私のお兄様」

 息を浅く吐いたようだった。それ以上の言葉は唇から出てこない。。

 史郎の髪に触れていたはずの千紗の指は宙を浮き、体はそのままベランダの向こう側にのけ反った。

 流れる血で汚れた首筋が夜風で冷たく感じる。天高く伸ばした指が闇に向かい、目を見開いた史郎の顔を見つけた。

 誰の手だろうか。手が千紗に向かって伸びている。叫ぶ声が聞こえた。見開いた史郎の目はそのまま車の中で、パイロンの列から飛び出してきた千紗を見遣った男の顔に重なっていく。

「千紗っ!」

 叫ぶ桐野の声が遠い。伸ばした指の向こう側で、手摺から体を乗り出して桐野が叫んでいた。

 ほろり、冷たいものがスローモーションに落ちていく千紗の向こう側に見えて、ベランダから下に叩き付けるまでがこんな遠い筈はないと冷静に千紗は思う。

 だから、分かってしまった。

(泣かないで、桐野さん)

 泣きながら千紗は思う。

 いつかこんな時が来ることを知っていた。伊沙子が自分の時代で未来に進む道を切り開くだけが千紗の仕事だったのだ。少しでも桐野の傍に近寄りたくて、指が天に伸びた。白い伊沙子の指は千紗とは違う美しい白魚のような指だ。

 未来を切り開き、前を向いて泣きながらでも歩く。それは未来の千紗がこれからしなくていけないことだ。

(分かっているのに)

 今にもベランダから落ちそうになりながら叫ぶ顔を見て、心が壊れそうになった。

 胸から想いが溢れそうになって、震える唇を開いた。これから起きることに戦慄いた声が、助けを求めて名前を呼んでしまう。

「桐野さん、桐野さんっ! ……桐野さん……っ! 私」

 声が出たのかは定かではなかった。それでも構わない、ただ声を張り上げた。

「帰りたくない!」

 涙が流れた。誰に謗られようと、後ろ指を差されようと、決して赦して貰えないとしてもそれでも告げたい想いがある。せめて最後なら我が儘を言いたい。千紗は張り裂けそうな声を上げた。

「……私、あなたが……あなたが好き、好きなんです……! 桐野さんっ!」

 行くな、と声が呼ぶ。

 行きたくないと、心で叫んだ。


 耳に入る乱雑とした人の声と車のエンジン音に、千紗は大きな涙を何粒も溢した。

 明治時代と何も変わらない澄んだ青い空を一機の飛行機が飛んで行った。

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