4
「謹啓。
返事が遅くなり済まない。如何しても、自分の弱さ故に先生へあの日記を手渡すのに時間がかかって仕舞った。だが昨日、彼の先生に伊沙子嬢の日記を渡して来たから安心してほしい。
今後、僕が君に出来ることは何なのだろう。只、然う考え続けて居た。
僕は文字を書くこと位しか能のない人間だ。人の力になろうなどと烏滸がましいことなど考えたこともなく、只自分の為に今日此の日まで生きて来た愚かな男だ。
今後、君は僕に手伝うことを望まないのだろう。故に此処からは僕の勝手だ。勝手に君を心配し、勝手に君の為に動いた愚かな道化だと思って欲しい。
君が迷い立ち止まるのならば、僕が背を押しても良いだろうか。此の先、手を離す時が来ても背に触れた馬鹿な男のことを君は、少し頭の片隅に覚えて呉れるだけで良い。
尚、此の手紙の返信は要らない。手紙はもう十分に貰って居る。
少しばかり文字が下手で、少しばかり無作法な手紙を有難う。敬白」
零れ落ちた涙が、急ぎの風に煽られて後ろへと流れていった。とめどなく流れて頬を転がると後ろに次々と飛んでいく。
「桐野さんの意地悪」
呟く声は小さく、回る振動と車輪の激しい音で掻き消えてしまった。
手紙には史郎に会うなどという言葉など一言も書かれていなかった。縋り付くようにして桂木の使用人に史郎の行く先を聞いた千紗は、金田との食事の席が史郎の予定に入っていることを知った。
今日夕方六時、上野公園不忍池の畔の精養軒。史郎は陸軍省から真っ直ぐに向かったそうだ。千紗は空も暮れつつある中で、久美子が用立てた馬車に乗っている。
馬車に飛び乗って、直ぐ精養軒と行き先を告げようとして千紗は言いかけた口を閉ざした。
視線を落とした場所に乗る二通の手紙。今回久美子と取引をしてまで屋敷から出た機会は、最大限利用しなくてはいけない。気持ちは直ぐに精養軒に駆け付けたかった。
(でも、出来ない)
頭に桐野の言葉が過った。
口にした行き先は本郷千駄木町、先生の家に先に手紙を届けることを千紗は優先したのだ。
(小石川から上野に向かう途中で本郷に寄ったとしても物凄く時間がかかるわけじゃない)
千紗は心の中で自分に言い聞かせた。温かさなど感じるはずもないのに、伊沙子と桐野の手紙を抱き締める。
俯くと見える真珠のピンがかろうじて残る夕日の欠片を反射した。
空は半分を紫かかった色が覆い、次第に濃い群青色に変わっている。秋空の向こうに見える建物の影は、あっという間に太陽を吸い込んで辺りを薄暗く染めていく。夜風が頬を撫でて、濡れた場所を何もなかったように乾かしていった。
千紗は苦しそうに瞼を閉じると、車輪がもっと早く回るようにと祈った。
突然飛び込んできた闖入者を、見開いた眼で書斎の男たちは見上げた。
何のことはない本が乱雑に置かれ崩れた絨毯敷きの部屋、真ん中に置かれた紫檀の文机の前に主人はいなく、暗く何も見えないだろう縁側の戸を開け放ち、そこに先生は立っている。
千紗より一歩早く訪れていたらしいもう一人の客人は、艶やかな着物姿のまま肩で息をし口を半開きにしている千紗に、僅かな怯えを見せた。
「……神出鬼没にもほどがあるまいか、君」
上半身を半分倒した金田に千紗は声なく頭だけを下げ、廊下を足早に踏み締めると先生に駆け寄った。
こんな突然の出来事にもまるで動じていない風の先生の胸に、千紗は手紙をやんわりと押し付ける。千紗よりも少し高い場所にある目線が、千紗の目を捉えた。ゆっくりと口を開く。
「……千紗君」
「先生、読んで下さい」
空虚な表情を浮かべていた先生の指がゆっくりと持ち上がる。美しい四季の彩られた封書の端に、指を乗せた先生は僅かに唇の端を上げ千紗に向き直った。
「これは……僕宛て、なのでしょうか?」
「そうです」
千紗ははっきりと応えた。
「これは先生に読んで貰いたいんです。私も勿論だけど……誰よりも伊沙子さんがきっと」
「……僕は日記を読みましたよ」
然う然う、と言った風に先生は言った。千紗は手紙を押し付けて、首を振る。
「違うんです。あれは私も桐野さんも間違っていたんです。あれは先生に向けるものではなかったんです。本当はこれだけを―――」
伊沙子さんは読んで欲しかった。
桜の花弁が散っている。伊沙子が猫先生と再会した日を思い出しているのか、先生は千紗の手と自分の胸の隙間から封を取り出すと、瓦斯燈の光に透かした。
「綺麗な封書ですね。実に、伊沙子さんらしい」
千紗は顔を歪めた。
桐野に送った手紙を何度も書き直し、千紗は机に仕舞われていた便箋を使っていた。綺麗に漉かれた桜の花、雪と見紛う満開の桜便箋は先生に伊沙子が送るために用意されたものだったのだ。千紗はその便箋を千切り、破り捨て、書き損じとして捨てたというのに。
(ごめんなさい、伊沙子さん)
知らなかったとはいえ、そんな安易に使っていいものではなかった。
「まるで……あの日のようです」
「……遅くなってごめんなさい、先生」
「いえ」
いいんですよ、と先生は笑った。
胸から眼鏡を出し、先生は封から手紙を引き出すと広げる。千紗が見終えた後の手紙でも、皺になるわけでもなくはらりと先生の手の中で広がった。
目が文字をゆっくりと辿る。先生は伊沙子の遺した心を一文字一文字に感じているのだろうか。僅かに微笑むように持ち上がった唇が震えて、先生は小さく何かを呟いた。
「……伊沙子さん」
小さな声で先生は呼んだのだ。
静かに便箋が閉じられる。畳まれたものを先生は胸に仕舞いこむと、唇を歪めその場に立ち竦んでいる千紗をやんわりと抱き締めた。
「有難う、千紗さん」
宥めるように軽く背中を先生は叩いた。
「伊沙子さんの手紙は確かに受け取りました。あの方らしい、情けない僕のことを最後まで案じる手紙でした」
手の平が千紗の髪の毛に触れるか触れないかという場所で止まる。零れる千紗の涙が、先生の着物の袖を濡らしていった。
渇いた場所に千紗は顔を押し付けた。先生の胸は、少し埃臭くて千紗は泣きながら唇を持ち上げた所為で変な表情になってしまう。それが恥ずかしくて、より顔を押し付けた。先生がそんな子供のような顔を見て、困ったように笑う。
「泣いて居てはいけませんよ。君はまだすることが有るのでしょう?」
「……はい」
強く頷いた千紗の後ろから金田の声がかかる。
「其れでは、此れからは僕がお役に立てるだろうか」
振り返ると、後ろでのけ反っていた金田が此方を向いていた。手元にあった外套を金田はひっ掴み、見慣れた帽子を被る。
気取った素振りで紙の束を文机に置いて、金田は先生に恭しく頭を下げた。視線のみで文机の上を指す。上に置かれているのが、原稿用紙の束なのは千紗にもわかっていた。
「先生、此の話はまずは無かったことに」
「然うですね。君たちに任せましょう。元より僕は、了承するつもりなどないのですから」
話の内容が読めずに、千紗は先生の前から動かず金田を見遣る。千紗の顔を見て、金田は「鼻が赤いぞ」と噴き出した。
「蚊帳の外は性に合わん。君を送り届ける名目であれば、僕も立つ瀬が有るというものだ。千紗君、上野に向かうぞ」
「でも、金田さん。路地に馬車を待たせてあるんです」
強引な金田の物言いに、千紗は首を振った。直ぐに戻ると言いつけてあった。あのままでは付近の住人に迷惑が掛かってしまうだろう。何せ桂木男爵家の馬車なのだ。
金田はさほど重要な問題ではないと判断したらしい。如何でもよさげに片手を振る。
「其んなもの、放っておけば良いのだ。いつか勝手に戻るだろうよ。今はご近所の問題ではなく、あの大馬鹿者が面倒なことを引き起こさないか、友人である僕が監督せねばなるまいのだ」
いつも飄々としている男の割には珍しく、苛立った口調で金田は罵声を吐き捨てた。
「約束した手前、名目が居る。千紗君、これ以上嫌がるのならば抱き上げてでも連れて行くぞ」
其れは本意ではあるまい、と金田は千紗を睨み付ける。千紗は慌てて先生に頭を下げ、廊下を先に行った金田の背を追った。




