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明治逢戀帖  作者:
第八章 綴ラレタ未来
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 桂木 伊沙子と、名前で締められた手紙から目を離すことが出来ない。くたりと手の中で弱弱しく垂れている便箋は繊細で、少しでも力を入れると破れてしまいそうだ。

 胸の奥で警鐘が鳴り響いている。凄く間違ったことをしてしまった気がしていた。

「……駄目」

 呟くと、千紗は手にした手紙を丁寧に畳む。元の様に封書に仕舞い込みドレッサーに置くと身を翻した。箪笥の扉を勢いよく開け放つ。中に顔を突っ込んだ。

「駄目、先生にあの日記じゃなくこの手紙を渡さなきゃ……!」

 掻き分けて箪笥の中を手当たり次第に漁り、目についた外套を引き摺り出して身に羽織る。手を通すのももどかしい。

(羽があったなら、今すぐにでも本郷の先生の家に行くのに……!)

 部屋を飛び出そうとして、千紗は押し留まった。ベッドの上に広がっていた桐野の手紙を両手で集めて、いつも通りに胸にしまい込む。引き出しの中に入っていた真珠のピンを少し悩んで外套の胸に刺した。ピンを刺す指が震える。

 最後に伊沙子の手紙を手に持った。繊細な和紙を破りたくはなくて、千紗は手の平で優しく包むと胸に抱き寄せる。

「あの日記は、先生に見せちゃ駄目だったんだ……!」

 伊沙子の心が剥き出しになって書かれた日記。決して先生に向けることの出来ない愚痴や悲しみ、切なさも総て凝縮されているのがあの日記だ。伊沙子はきっと胸に抱いた愚痴や悲しみは先生には見せたくなかったのだろう。ただ綺麗なままで伊沙子は先生の記憶に残りたかったのだ。

 そして強いままの自分で、立ち竦み前に進む勇気を持たない先生の背を押してあげたかった。

 千紗はドレッサーの前の自分を見遣った。ベッドの中で泣いたせいで、白粉は剥げ紅も落ちている。髪は乱れ、簪はまだシーツの中にある。泣き虫な千紗がこちらを見ていた。

 それなのに、まるで泣いているのは伊沙子のようだ。

 猫先生に迷惑を掛けたくない、猫先生の荷物になりたくない。

「……私と一緒じゃない」

 日記を先生宛てに向けたのは、告げられない想いを誰かの手で以て先生に届けてもらって読んでもらえることを考えていた訳ではない。

 千紗が桐野に意地を張って強い人間なのだと思って貰いたかったのと同じように、伊沙子もまた先生の背を押すために強い女に成る為に吐き出せない想いを隠し持っていただけだ。

(だからこそ、捨てて欲しいととよさんに伊沙子さんは頼んだんだ)

 絶対に誰も目に触れない場所へ先生に向けた弱い心を捨てて欲しかった。先生に送る手紙には書けなかった言葉が日記には凝縮されている。連れて行って、連れて逃げて、逢いたい、早く誰かの物に為って仕舞って、死んでしまいたい。

「早く」

 取っ手に指を掛け、戸を跳ね開けた。同時に激しい衝撃が走って、開いた戸の向こう側で小さな悲鳴が上がる。鈍い音と衣擦れと音に、千紗が訝しんだ顔を向ければ廊下には久美子が転がっていた。

 尻をぶつけたらしい、顰めた顔を千紗に向けている。耳に障る甲高い文句が久美子の唇から飛び出した。

「急に開けないで下さらないかしら。危ないじゃあないの」

「……ちょっと急いでいたの」

「……どこかに、お出かけになるおつもり?」

 言葉を濁す千紗の服装を久美子は見遣る。外套を羽織っているのだ、外に出ようとしているのは見ればわかるだろう。

 千紗は胸に抱いた手紙を見下ろした。先ほどの衝撃でも破れたり撚れたりはしていない。封筒はしっかりと胸に抱かれたままで安堵した。

 千紗は廊下に膝を付いたまま、同じく廊下に尻を付いた久美子にしがみつく。先日、カップを投げつけた相手だということは忘れていた。だが相手はそう思っていなかったらしい。しがみ付く千紗から逃げるように身をよじる。

 久美子の袖を掴もうとした手が宙を切って床に落ちた。千紗は勢いに任せ、そのまま床に頭を下げた。

「どうしても行かなくちゃ駄目なの! 戻ってきたら史郎さんには謝るから。久美子さん、お願い見逃して……!」

「……私がここで見逃しても」

 久美子はそんな千紗の暴挙をせせら笑うと立ち上がった。屈みこんだままの千紗を見下ろし、尻についた埃を汚らしいものを叩き落とすように執拗に払う。

 千紗の反応を試すかのように、久美子は笑った。

「門で、誰かが伊沙子さんを引き止めるのではないかしら。桂木の屋敷から伊沙子さんを出さない様に屹度お兄様がお話してらっしゃるわ」

「……そう……だよね」

 落胆で体から力が抜ける。千紗は伊沙子の手紙を両手で包むように抱き締めた。日記は一週間以上前に桐野へ渡してしまった。今更行っても、きっと先生は既に日記を読んだ後だろう。

(でも、それでも早く先生に渡してあげたい)

 もしみねを探して預けたなら、先生の元へ届くまでどれ位かかるのだろう。一度考えて千紗は首を振った。出来るのならこの姿で届けたい。伊沙子の姿を持つ千紗が届けなくてはいけない、そう思ったのだ。

 先日窓から抜け出した時は、何も咎めなく門から外へ出ることが出来た。でも使用人の通用門を使って逃げても、きっと既にそこには手が回っているに違いない。

 門を出ようとしても、先日の闇にまぎれる学生服は既に金田に返してしまった。袴ならまだましだというのに、こんなに足元を巻き込む邪魔な着物では木登りも塀を乗り越えることも出来ない。

(どうにもならないじゃない!)

 俯き強く瞼を閉じた千紗の耳に衣擦れの音が聞こえた。近付く気配に恐る恐る目を開けると、久美子が前にしゃがみ込んでいる。

「久美子……さん?」

 ゆっくりと口を開く久美子の顔は、血色も悪く能面のようだ。とても白粉を塗っている所為とは思えなかった。訝しい顔で見上げる千紗の前で久美子は、千紗とは違い綺麗に紅を引いた唇を開いた。

「お手伝い……して差し上げましょうか?」

「え……?」

 返事は随分と気の抜けた声になった。即答しようとして、千紗ははたと開けた口を留める。手紙を胸元に隠し、千紗は居住まいを整えると久美子を見返した。せめてもの威嚇のつもりで声色を低くする。

「……条件が有るんでしょ?」

 それはきっと史郎に関することなのだろう。

「然うよ」

 久美子は頷いた。お願いしているのは千紗の方なのに、泣きそうになっているのは久美子の方だった。取引ではなくて、まるで久美子が千紗にお願いをしているようなのだ。

「伊沙子お姉さまが聞いて下さるなら、私、ここから出してあげても好くってよ」

 千紗は唾を飲み込んだ。

 どんなことでも聞く覚悟はとうに出来ている。結局このままでいたら、既に残り四か月を切った結婚の日を迎えるだけなのだから。

「聞くよ、私は何をしたらいいの?」

「お兄様に結婚をしたくないと言って。お慕いしている方が居るから出来ないって言って」

 千紗は顔を上げた。そんなことをしてしまったら、と言い返そうとして口を閉ざす。

 久美子は真面目だった。それがどんなことを引き起こすのか理解した上で言っているのだ。婚約をもし破棄したのなら、桂木の家は婚約金を全額返還することになる。婚約中に違う男の元に走ろうとする男爵家の令嬢の話は新聞記者の格好の的になるだろう。そして桂木男爵がてんきょういんに入り、日常生活が不可能なことも明るみに出てしまうに違いない。勿論、醜聞は避けられない。

「桂木の家から追い出されても構わないから、其の方と添い遂げたいのだと言ってよ」

 千紗は声を失った。千紗の脳裏に浮かぶ顔は誰でもない桐野の顔だった。震える唇が随分と乾いている。下唇を噛んで湿らせてから、千紗は声を絞り出した。

「……でも、それじゃ……相手に迷惑がかかるじゃない」

「然うね。お兄様は怒るでしょうね。相手の方を殺して仕舞うかもしれないわ」

「出来ない」

 首を振った。

「出来ないよ」

「史郎お兄様は……どうせ長根様も如何かしてしまうおつもりなのよ」

 久美子は小さな声で吐き捨てた。

「……お兄様には」

 見開いた千紗の瞳を覗き込んで、久美子は突然乱暴に千紗の外套を掴んだ。

 淑女足らぬ行動に面喰ったのは千紗の方だ。軽い音の後に、のけ反った千紗の頬に弾けた感覚の後、熱さがやってきた。

 頬を叩かれたのだ。

「お兄様にはこの家も爵位もお金も、もう関係ないのよ。だから、お父様の心も簡単に殺して仕舞われた」

 また頬に痛みが走った。恐怖で閉じた瞼の向こう側で、久美子が叫んでいる。

「……伊沙子さんの所為よ! 伊沙子さんが居なければ、お兄様はあんな方にはならなかった! 伊沙子さんの為なら、史郎お兄様は私もお母様も簡単に殺して仕舞うのよ!」

 外套が引っ張られて、人形のように千紗の身体が揺らいだ。だらりと垂れた腕の横で、久美子の頭から滑り落ちた簪が転がっている。

「……返してよ。史郎お兄様を久美子に返してよ!」

 真珠の真円が狂ったように喚く久美子を映し出している。

「何度も言って居るじゃあないの! 如何して……如何して、伊沙子さんは聞いて下さらないの!」

「……く、久美子さん……っ」

 外套ごと久美子は千紗の首をぎりぎりと絞め付ける。苦しさと混乱で千紗は懇願の声を上げた。声が聞こえたのか、首にかかる重圧が消える。咽喉の奥に新鮮な空気が流れ込んで来る。

 急に興味を無くしたかのように、久美子は大きく開いていた口を閉ざした。座った目が千紗を感情なく見下ろして来る。

「……お兄様に、伊沙子さんの大切な方なんて殺されて仕舞えば良いわ」

 吐き捨てると、久美子は千紗から手を離した。繋がれた糸が切れた操り人形のように、千紗は廊下に崩れ落ちる。肩で大きく息をして千紗は、ゆらり立ち上がった久美子を見上げた。

 廊下の中央に立つと久美子は、無邪気に首を傾げている。愉悦に満ちた笑みを浮かべる久美子もまた、何処か壊れつつあるのだろう。心臓の激しい動悸が止まらない。ただ史郎に似過ぎている久美子を怖いと思った。

 久美子は顔を歪めたまま何も言えずにいる千紗を見遣ると、着物の合わせに指を入れて畳まれたものを引っ張り出す。指先で端を摘まむと、重力に負けて畳まれていた部分が広がった。

 丁度、便箋のような大きさのもの。原稿用紙の裏に書かれた素っ気ない文字。

 広がった紙の中に、待ち望んでいた文字が連なっている。いつもよりもずっと乱雑な手紙は急いでいたのか、決して整っているとはいいがたい文字がより歪んで斜めになっていた。

(勝手に読んだんだ!)

 千紗は咄嗟に久美子へ手を伸ばした。いつもなら封に入っているはずなのに剥き出しになっていた。

 飛びつく千紗を、久美子は華麗に避ける。

「伊沙子お姉さま、如何なさるおつもり? このお手紙の方、屹度お兄様に殺されて仕舞うわね」

 そう言うと、久美子はころころと愉しげに笑った。 

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