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小石転がる路地と慣れないブーツに足が痛む。
立ち竦むと「何」とまた素っ気なく聞かれて、千紗は素直に足が痛いのだと答えた。
「だからって馬車に乗れとでも云うのか? お前、何様だよ」
と、大仰なため息のあと、厭味らしきものが降ってくる。
別にそんなこと言った覚えもなく、慌てて首を振ると「一等三銭、二等二銭」と戻ってきた。けれど、千紗にはさっぱり青年の言っている意味が分からない。
右足を引き摺る千紗に手を伸ばすこともせずに、青年はがりがりと頭を掻く。
(困らせてしまった……)
きっちり締められた編み上げブーツの紐を緩め、千紗はもう一度膝に力を入れた。日頃から運動を怠っているせいか、久しぶりの過酷なウォーキングに体中が悲鳴を上げている。
辺りは住宅街なのか庭先の竹垣が目についた。門の格子は雨風で色も剥げていて、上からはのっそりと庭木が覗いている。
軒先に置かれた木製の桶になみなみと湛えられた雨水を見て、思わず喉が渇いていることに気づいてしまった。
今は一体何時だというのか。空高く上った太陽は一向に陰る様子も見せない。着慣れない和装は容赦なく千紗の体力を奪って、今や腰から下の感覚も曖昧だ。
でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。かろうじて残るやる気を奮い立たせて体を起こす。
「大丈夫、です! まだ……なんとか行けます!」
強がりを言った千紗の顔を、これまた呆れた視線が突き刺してきた。
強張る顔をごまかそうと笑った千紗の頬に、たらり、汗が流れる。
前髪の隙間から、眉間にぐぐっと寄った皺が見えた。
(ああ、また怒らせた)
千紗のやる気のメーターが、眉間の皺に反比例してダダ下がりしていくのがわかる。
「……仕方ない。先に先生の家へ行くか」
ため息交じりに青年はそう言い捨てると、千紗を待たずに早足で先へ歩いて行ってしまった。
「えっ、あの? ま、待って! 待ってください!」
いつの間にか羽織から指も離れてしまったのに、まるで鎖でつながれている飼い犬のように千紗も後を追いかける。
人通りも少なく、目の前を歩くのは見知らぬ人間だ。
この世界でたった一人の頼みの綱というのはもちろんだが、相手は十分に大人ともいえる男性だというのに、千紗は警戒心を抱くのもすっかり忘れてしまっていた。
足にぶつかる土の道路に、木の壁。どこかからか聞こえる子供の泣き声に、男の癇癪声。背中を追いかけていた駆け足がゆっくりとなり、そして止まる。
慣れている自動車行き交う騒がしい喧騒でなく、無駄な機械音のないこの場所はなぜか心地よい。さわさわと風が前髪を流し、汗に濡れた額を剥き出しにしていく。
耳に触れる鳥の鳴き声に―――――――――――――――――――――爆発音。
「きゃあっ!」
突然の激しい音に、千紗はその場でしゃがみこんだ。
耳をつんざくような大きな音とは言い難いけれど、明らかに何かを打ち上げた音はそれ一回きりで、それでもいまだ辺りに余韻を与えて響いている。
「何っ」
じゃりと石を踏む音に顔を上げ、少し離れた場所から駆け込んでくる青年を見上げれば、千紗の声を聴いて慌てて戻ってくれたらしい。着物の裾が少し乱れていた。
しゃがみこんだ千紗を見て、顔をゆがませる。
「虫でも居たの」
「いえ……なんか、物凄い音が…して」
千紗が答えると、冷え切った表情を向けてきた。
虫のたかった残飯にでも向けるような、なんとも表現しがたい表情だ。間違ってもびっくりしてしゃがみこんだ女性に向ける表情なんかじゃない。
(本当、どうしてこんな言葉と表情に容赦がないんだろう……)
態度だけ見るとそんな悪いというわけじゃないのに。千紗は見下ろす青年の機嫌を取ろうとぎこちなく笑って見せる。
速攻で舌打ちが返ってきた。
「今更何言って居るんだ。昼ならドンが聞こえるだろう」
「ドン……」
「記憶障害も此処まで来たら痴呆に近い。良いから黙って足を動かして呉れないか? 小さいことに然う何度も付き合って居たら夜になってしまう」
青年はそう吐き捨てると、またすぐに背を向けて歩き出す。
「は、はいっ! 今すぐ!」
敬礼に近い返事をして、千紗は踵を砂利道に叩きつけた。
青年の背中を追いかけながら、千紗は彼の名前すら聞いていないことに今更ながら気づく。
離れてしまっても名前すら呼びかけられないことに愕然として、千紗は走るスピードを上げて青年の背中を追いかけた。
踵はとっくに靴擦れを起こしているに違いない。さっきから中でぬるりと足が滑る感触がしている。
(でも、置いていかれたくない)
袴の裾を蹴飛ばして走る千紗をこの時代の人間はどう思うだろうと思う。実際、格子戸から顔を出した年老いた女性は走る千紗を見て、僅かにぎょっとした表情を向けた。
小さく会釈した千紗に、微笑み返したかどうかわからない。
それでも、
(私はここの人間じゃないから)
どう思われようとどうでもいい。
割り切ってしまうと少し足が軽くなった。いつか戻る時が来るのまではこの時間をほんの少し楽しんでみるのもいい。もしかすると実は事故に巻き込まれた影響で長めの夢をみてるのかもしれない、とも思う。
軽くなった足取りで古びた壁の角を曲がると、そのまま勢いよく何かに突っ込んだ。
「――――ぶっ!」
少しごわりとした布の感触が顔一面に広がり、続いてじんわり打ち付けた鼻が痛くなってくる。
(痛ったぁ……)
立ち止まった千紗の耳に、少し高めの暢気で優しげな声が滑り込んできた。
「おや、桐野君では在りませんか。まだ約束した刻限ではありませんが、これまた随分とお早い」
ぶつかったのがその「桐野君」と呼ばれた青年の背で、しこたま打った鼻を撫でながら千紗が不穏な気配を感じてゆっくり見上げると、人を殺しそうな視線とかち合って飛び上がった。
(ひい……っ!)
前髪向こうで奥歯をぎりと鳴らす音が聞こえる。
厭味の一つでもまた聞かされると身構えた千紗の前で、桐野は一吐息つくと庭先からかけられた声に体を向けた。
「……先生、何ですか。其のインテリぶった金縁眼鏡は。然う云うものは似合う人こそ着けるべきで、先生が着けても全く似合いませんよ」
出てくる毒舌。どうやら桐野のこれは千紗に対してのみではなく常に平常運転らしい。
「いや、金田君がね。急に「先生、ぷれぜんとですよ」と持って来て呉れたのですよ」
「彼奴の「ぷれぜんと」為るものには碌なものがないと言ったでしょうに。前の「びいる」為るものだってさっぱりだったではありませんか」
「いや、「びいる」が口に召さなかったのは桐野君だけではないですかね。私はあの口を擽るのがなかなか癖になると云いますか……蒲鉾と合うな、と思う訳ですよ」
「……然うですか。如何やら先生は僕とは味覚が合わないようですので、今後、森永の西洋菓子を持って来るのを止めましょうか」
「き、桐野君っ。私も如何も「びいる」は合わないようですよっ……っと」
視線が合った。
縁側にしゃがみこんでいた「先生」が立ち上がり、桐野の背に隠れていた千紗にもやっとその姿が見える。
薄茶色の着流し姿で、紺色の縞帯をゆるく締めていた。ぼさぼさの短い髪。色白く、血色の悪い顔には金縁の眼鏡がかかっている。眼鏡をかけていてもさほど視力は変わらないらしく、千紗の顔を目を細めながら見る。
なんかとても眩しそうだ、と思った。
(確かに似合わない……)
どこにもインテリ要素もなく金縁メガネが浮きまくっている壮齢の男性は、遠慮なくまじまじと眺めていた千紗に人懐っこい笑みを浮かべて見せる。
「おや、可愛らしい子猫を連れて来るとは。桐野君も隅に置けないですね。金田君が地団太踏んで悔しがるでしょうに」
「此れの何処が子猫ですか、立派な…………………あんぱんでしょうに」
千紗はどことなく納得できないものを感じて、唇を尖らせる。
(アンパンって……)
千紗は桐野の羽織をついと二度引いた。
それでも背中を向けている桐野は頑なにこっちを見ない。そんな桐野と千紗の間に視線を往復させた「先生」は何がツボに入ったのか、突然噴き出した。
「いや、また、結構なものを見せていただきました! いや、然うだ。なんて今日は良い日なのでしょうか!」
「?????」
「せんせい……」
不穏な空気が桐野の周りに立ち上る。
訳の分からないままで、二人の会話を聞いていた千紗はこの終わりのない会話を終わらそうと一歩前へ踏み出した。
門だとてっきり思っていた場所は垣根の壊れた跡で、その向こうには水仙の咲く庭がある。
縁側には団子の乗った皿と湯呑。つい先ほどまで先生の膝で昼寝をしていたのか、のっそりと立ち上がった猫が折角の休日に飛び込んできた千紗に抗議しているのか、にゃあ、と鳴いた。
「あの、初めまして! 尾崎 千紗といいます。桐野さんとは先ほど、新橋で初めて会いまして……その」
千紗は言葉を濁した。
一体、何と説明すべきか。未来から来たと突然話しても頭の悪い子だと一蹴されそうで言葉に詰まる。もじもじと海老茶色の袴を掴んだり離したりしていると、桐野がため息をついた。
「わけありですよ。那美子さんは居るのですか?」
足を踏み出した千紗の前に、桐野が体を割り込ませる。
(余計なことは言うな……ってことかな)
ここは大人しくしていたほうがいいだろう。千紗は視界を横切る肩の線を頼もしく見る。
「ああ、確か今日は浅草に買い物に行くと言って居たはずですよ」
「浅草……ですか。確証はありますか?」
疑わしげな桐野の声にもめげずに、先生は団扇片手に悪びれず笑った。
「何しろ私は本を読んで居たのだからね、桐野君の方が良くわかっているでしょうに」
小さく舌打ちが聞こえた。
「……近くに居るな」
「まぁ、桐野さんではありませんか!」
桐野の声に応えるように、軽やかな声が家の奥から聞こえてきた。
結い上げた髪もたおやかに、質素ながら清楚な女性だ。わずかに引いた紅がつやっぽく、千紗の目から見てもドキッとするほどに女らしい。
ただ着物の袖を紐でたくし上げ、今にも重い荷物を持ち上げそうなところが微妙に残念ではあった。
「今日は夕方来られると聞いていましたから、浅草にも行かないで急いで掃除をしてましたのに…………ね? 先生」
まるで受付嬢のような余所行きの笑みを浮かべた那美子は、手にしたはたきで縁側から立ち上がった先生の肩を叩く。
どれだけ長い間掃除をしていなかったのか。ばさりと、埃が舞った。
目を宙に泳がせた先生は「ああ、そう……だね」と力なく言って、着流しの裾を翻すと縁側に戻っていく。
湯呑と団子の乗った盆を片手で持ち上げると、似合わない埃まみれになった金縁眼鏡を外し千紗と桐野を振り返り苦笑した。
「まずはお入りなさい。そして、掃除の続きをやらなければ」




