表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明治逢戀帖  作者:
第八章 綴ラレタ未来
48/61

 桐野からの手紙が途絶えて、一週間たった。

 千紗が返事を頼むと三日を待たずに返事が戻って来ていたのに今回は随分と間が空いている。それを最初、千紗は史郎の監視の目が強まったのだと勝手に思っていた。

 屋敷の中の行動は、あの一件を境にむしろ緩んだくらいだ。久美子の元お付き女中だったかつは口煩く千紗の行動に口を出し、逐一久美子に報告をしている様だったけれど、千紗の行く先を遮ることまでは出来ないようだった。

 だから、三日くらいまではあまり考えなかった。四日過ぎて少し不安になって、五日になると廊下を覗いてみねを探すようになった。六日もたつとわざと考えるのを止めて見ないふりをして、七日になって思わず考えると泣きそうになった。

 そして、今日で八日目。

 千紗は窓の外を見ると小さなため息をついた。

 青くとても遠い。暗く嫌なことばかり考える千紗の気持ちとは全く正反対の、爽やかな秋晴れの空だ。紅葉舞い散る屋敷の庭木は先日の雨で半分以上が枯れ落ちている。剥き出しになった枝には、辛うじてぶら下がる真紅の葉が風に揺らされていた。

 長く棚引いた雲が、風に乗って思ったよりも早く窓枠の向こう側に消える。外は随分と風が強いのだろう。千紗は外の寒さを思う。

(いつから……外に出ていなかったっけ)

 指折り数えてみても、もう数えるのも面倒になってしまった。どうせ出ることが出来ないのなら、数えても無駄なことだった。

 昨夜、史郎が部屋にやって来た。戸の向こうに立ち、史郎は千紗に部屋から出てくるように言ったのだ。義母である夏子と久美子と母屋で食事を取るようにと言って来た。それでも食欲がないと断った千紗を、戸を開けて史郎は強引に連れて行こうとはせず言葉少なに引き下がった。

 もしかすると史郎も、夏子や久美子に伊沙子を会わせまいとしているのかもしれない。彼は彼なりに、向かう向きは違えど伊沙子を守ろうとはしているのだ。

(だからって……受け入れることなんて出来る訳ない)

 桐野だって頑張ってくれている。手紙に書かれた千紗を奮起させる文字。角ばった神経質そうな文字を何度指で辿っただろう? 何度も何度も辿って、手紙は撚れて皺くちゃになってしまった。

 ひとりじゃない、そう思って負けそうな心でも何とか立ち上がってきた。

 千紗は届いた二通の手紙をベッドに並べた。どうしても書けなかった弱音、空元気な強がった手紙を最後に、桐野からの連絡は途絶えてしまった。

 嫌なことを考えると気持ちが揺れて千紗は唇を噛み締める。唇が震えるとどうしてもべそをかきそうになった。情けない声が千紗の口から洩れる。

「……強がらないで、本当のことを書けば良かったの?」

 ずっと考えていたことがつい零れ落ちてしまう。

 声の最後は震えていた。今更になって素直にならなかったことを後悔している。心配させたくなかっただけだというのに、素っ気なく見えてしまったんだろうか。

「………最後に付け足したのが、突き放しているみたいに見えたとか」

 書いて既に手離してしまった手紙の内容なんて、ほとんど覚えていない。記憶の中でなんとなく書いたものを思い出して後悔ばかりをしている。

 千紗と伊沙子には全く関係ないというのに、桐野は伊沙子の為に千紗に親身になってくれた。こんな面倒事、どう考えても巻き込まれて困るのは桐野の方だというのに、それでもいいと言ってくれた。

 千紗の力になりたいと―――言ってくれた。

(嬉しかったのに)

 だから弱い自分を見せたくは無かった。

 迷惑を掛けたくはない、重荷にはなりたくはない。心を砕いてもいつまでも傍に存在することが出来ないからこそ、頑張っている自分をせめて覚えていてほしかった。

 現代に戻る時、桐野の記憶に残るのは強い自分でいたかった。そんな自分を―――ただ好きになって貰いたかった。

 ぽろり、と千紗の目から大粒の涙が一粒零れ落ちた。

 ぴんと張り詰めた心はもう限度一杯で、今にもはち切れていまいそうだ。出来ることはしようと伊沙子の父親に会った。伊沙子の隠す闇に触れて、史郎と男爵の確執を知った。

「でも……それがどうしたっていうの?」

 千紗は呟いた。

 結局何も変わらない。千紗が出来ることなど何もなくて、次々と襲い来る事実に怯えただ震えるだけだ。今もまだ、史郎が用意した鳥籠の中から足を踏み出すことすら出来ずにここで泣き言ばかり。

(きっと今動かないと、私の産まれる未来は変わってしまう)

 何かをやらなくちゃいけないと知っている。

 自分の為なのだから、しっかり前を向いて頑張らなくちゃいけない。何をしたらいいのか、見当もつかないけれど、何度も何度も自分に言い聞かせて奮起させた。そして背中を押してくれる手紙。

 指で桐野の文字を辿る。

 ―――此処からは君の意思が必要なのだ。君の未来を創るためだ、逡巡してはいけない。優先するものを互いに念頭に置こう、ならば屹度道は開けるだろう。

「私の意思……」

 優先すべきは千紗の気持ちじゃなく、千紗の未来だ。手紙が来ないのは、何か理由があって面倒になったわけじゃないんだと言い聞かせた。

 千紗は腰かけたベッドの上で俯いた。柔らかな布団は千紗を包み込む。

「……分かっているのに」

 手紙が来ないだけでこんなにも怖い。桐野はそんな人じゃないと理解しているつもりなのに、いつしか自分が消えてしまう存在であることを考えると別に桐野がここで千紗を見限ってもおかしくはないと思ってしまう。

 桐野には明治時代の絆や結びつきがある。

 千紗の消えた後に、桐野はきっと誰かと恋をして結婚をして家族を築くのだろう。どんなにそれを聞いて胸から気持ちが溢れて来そうでも、千紗が出来るのは桐野に手紙という存在の証拠を残すだけだ。

 千紗もまた未来に戻り、いつしか桐野の生きてきた足跡を見つけるのだろう。

 書いていた小説、桐野の生きてきた明治時代という過去、どの様にして生きてどのようにして死んでいったのか。絶対に触れることの赦されない未来で、必死になって千紗はきっと探し出してしまうのだろう。

 中には、金田や先生のことを書いたものもあるだろうか。下谷や本郷、千紗が明治時代で触れ合った場所。先を待つ戦争という残酷な出来事に否応なく巻き込まれ、日本という国は未来へと進んでいく。

 皆が苦しんでいたことを教科書で知ることもあるだろう。それでもそれは既に過ぎ去ったことで、桐野が千紗にしてくれたように千紗が手を差し伸ばすことは出来ないのだ。

「……………」

 千紗はベッドに突っ伏すとシーツを引き摺り、中へ潜り込んだ。嫌なことがあった時は何も考えないようにして耳を塞いでしまえばいい。そう言っていたのは誰だっただろうか? 鼻を啜り、まるで饅頭のように膝を抱える。

 ―――千紗は泣き虫さんね。

 声が聞こえる。優しい声が、弱虫の千紗を笑う。

「……おばあちゃん」

 泣けばいつも祖母が頭を撫でてくれた。両親が忙しい千紗の家で、泣くと傍に寄り添ってくれるのはいつも祖母だった。怖い夢を見て無く千紗の頭をゆっくりと撫でて、祖母は笑うのだ。

 ―――千紗はそんな弱い子じゃ無い筈でしょう?

 記憶の中の女性は、いつも優しくて穏やかだ。確か、静かにゆっくりと話す人だった。薄れていく記憶の中で靄のかかった懐かしい姿が此方を見ている気がする。

「……おばあちゃん、弥千子おばあちゃん。……逢いたいよ、苦しいよ」

 もう嫌だ、そう思っているのに千紗の唇からはどうしても「帰りたい」と今は出てこないのだ。戻ってしまうと、もう二度とこの時代に戻れないだろう。そう思うと辛くて仕方がないのに、悪戯でも口にしたくは無かった。

 顔をシーツに押し付けた。せっかく整えた髪の毛が崩れ、俯く千紗の頬横から簪が滑り落ちた。しゃらりといって俯せた顔の横に転がった。美しい真円を描く真珠の簪、転がった小さな珊瑚が真珠を守るようについている。

 真珠の滑らかな表面は情けないほどに顔を歪めた千紗の顔を映し出す。鼻を赤くして、唇を真一文字に引き結んだ顔だった。子供の頃みたいに恥も外聞もなく、声を上げて泣かなくなってどれくらい経っただろうか? 

 小さな頃、千紗は泣き虫だったのだ。

 おばあちゃんなんか嫌い。幼い千紗が言うと祖母は困った顔をした。

 ひとりで帰る参観日の帰り道、誰も来てくれない発表会が嫌だった。仕事で忙しい両親に変わって預けられた祖父母宅、戦争のせいで片足が不自由な祖母に幼い心ながら無理をさせたくはなくて、千紗は考えた末に学級通信を破り捨てた。

 ひとりなのが寂しくて、それでも泣くのを必死に我慢して祖父母の家に帰った道。何も知らない祖母に、千紗は罵声を投げつけた。

 千紗はこんなに寂しいのに、分かってくれないおばあちゃんなんて嫌い。そんな心にもないことを千紗は、祖母にぶつけたのだ。泣き喚くとき、千紗はいつもこんな顔をしていた。玄関にかかっていた鏡にも、美しく磨かれた和室の化粧鏡にもこんな千紗の泣き虫顔が映っていた。

 ―――千紗、いいものを見せてあげようか?

 そんな時、決まって祖母は宝物を見せてくれる。絹の手袋、鼈甲のブローチ、梅に鶯の彫られた髪飾り。そして―――曾祖母からの最後の贈り物の、箪笥の奥に隠されたまろみのある真珠のピン。

 ―――これはね、千紗。

 千紗はシーツの中で蠢いていた涙に濡れた顔を上げた。

「……隠し扉」

 伊沙子の部屋でどうしても開かない場所があった。

 床も這い廻って、探せるところで思いつくところは総て探した。それなのに決して見つけることが出来なかったドレッサーの引き出しのひとつ。

 顔を美しい菊の描かれた袖で拭いベッドから転がるように下りた。

 別珍の布の上に置かれた真珠のピンを千紗は手に取る。綺麗な金色のピンが真円の真珠に突き刺さっていた。百貨店で伊沙子が頼んでいたのか。いつの間にか、千紗の部屋に届けられていたものだ。

 真珠は虹を纏い、光沢が素晴らしいものだった。でも千紗の記憶の物とは少し違う。

「これじゃない。おばあちゃんがくれた私のピンは、もっと」

 千紗はドレッサーの引き出しを手当たり次第に引き摺り出した。中身を床にぶちまけ、化粧品や髪留めが乱雑に転がっていく。一瞬、片付けのことが頭をよぎっても、千紗はそこから目を背けて引き出しの奥をかき分ける。最後の引き出しは何のことはない。鍵のかかった引き出しの横の引き出しだった。

 奥にあった隠し扉。その奥にはぽつんと小さく簡素な鍵が転がっている。

 震える手で、千紗は鍵を差し込んだ。ゆっくりと引き出した四角いスペースには、真珠のピンと美しい桜の花に彩られた封書があった。

 別珍の上に置かれた大きく華やかな真珠と違い、少し歪みの見える真珠は大きさこそ先ほどの物と大差ないものの、抱いた光は弱く蛍の光のようだ。華やかさを持たず、控えめな真珠からは銀色の金具が出ている。

「……日記に書かれていた真珠のピン」

 そして祖母の宝物で、これこそが千紗にあの日祖母から渡された物だ。この明治時代に飛ばされたときにも、千紗はバッグにこのピンを付けていた。

 伊沙子の言うように国から貰ったものとは到底思えなかった。

 国からの下賜の割にはこの真珠のピンは素朴過ぎ、どこか武骨で野暮ったい。それなりの物ではあるのだろうけれど、物凄い価値があるとは思えなかった。素っ気なく光る真珠は千紗の顔を映さず、どこかからの光を鈍く映し光るだけだ。

 千紗は宛名のない封書を手にした。淡い色合いが重なる桜に見えたのは、紗の着物の様に何度も何度も手で漉いて作られた和紙だった。雪が降り積もるようにも、桜の花弁の舞い散るものにも見える。破らない様に慎重に千紗は封書を開く。中に折り畳んである便箋を広げた。

 中には日記の中で見た伊沙子の文字が連なっている。

 手紙は「猫先生へ」という言葉で始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ