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桐野は田端の下宿屋に戻るや否や、濡れた外套と着物を脱ぎ棄て、肩から着流しを羽織っただけの状態で紙と向き合う。だらしなく帯も締めずに前を広げたままの恰好で、首からは手ぬぐいをだらりと下げていた。
いつの間にやらほどけた髪からは、拭き損ねた雨粒が滴り落ちる。今日で雨に濡れるのは一体何度目なのか、濡れ鼠になるのを厭い呪いの言葉でも発しているようだ。じっとり濡れた髪はうねると桐野の肩と首に巻き付き、やんわり締め上げた。
先生の家で書き記した物語を、桐野はそのまま辿る。総ての原稿用紙は本郷に置いて来てしまった。故に先は総て記憶頼りだ。一言一句忘れぬように、度々目を閉じて考え込みながら話に没頭する。
仮名を書き記すたびに、女が生き生きとしていった。
つい先日まで終幕を如何にして締めるのか其れだけが思いつかなったことが嘘のように、額に擦り付けて書き記す物語は澱みなく流れて往くのだ。身分差という壁を嘆き、ただ入水自殺を試みるだけだった女が、愛しい男の背を顔を歪めるだけで見つめて居られる。先を往く男を、無言で押し出す気概を持って居る。
何も結ばれるだけが未来じゃない。何もともに生きることだけが、幸福なのではない。共に幸せを祈り、先を往く情合を向けた人を求めずに見送るのもまた違う愛戀の形なのだ。
伊沙子もまた、死を選ぶことにより総てを諦めたのではなかったのかもしれない。勇気のない先生の背を押し、自分という重過ぎる荷物から解放したかったのだ。居場所を失った先生に、下谷という存在を赦される場所を作るための人身御供となった。心が壊されていったのは、ならば運命の悪戯か。
伊沙子は鎖に縛り付けなくても、桂木の家の恩を忘れなかっただろう。例え、先生の情合を得ること叶わず意に染まぬ縁談が来ようとも、先生から聞かされた「位高ければ徳高きを要す」という戯言を信じ抜き、耐え忍ぶつもりだったのだ。
それは千紗の産まれる未来に結びつかないかもしれない。
「然し、其れもまた違う物語のひとつなのだろうな」
あの兄の存在さえなければ、伊沙子の物語もまた違う幸せの完結を迎えることが出来たのだ。
瓦斯燈を付ける時間ももどかしい。桐野は漏れ出る微かな月の灯りだけでも構わず書き続ける。いつの間にか雨も止み、空には暑い雲に遮られていた秋の月が見えた。
落ち葉が散り、朝にもなると下宿屋の前は色鮮やかな路になって居るだろう。その路を桐野はひとり往くのだ。小石川の桂木の屋敷、彼の人の閉じ込められている鳥籠は余程のことが無ければその門を開かないだろう。
門番である男は、血の繋がりを以て伊沙子を桂木に縛り付けている。逃れることも叶わない、狂うことも叶わない。身を投げてなお伊沙子は縛り付けられているのだ。千紗という存在が違う未来を確約して居るにもかかわらず。
流れる水の如く、書き記す物語は既に原稿用紙を四十枚超えた。それでもなお未だ湧き上がるものに桐野は感動を禁じ得ない。この話は屹度自分を世に押し出すのだろう。何処にも居場所を見つけられなかったのは、伊沙子だけではない。桐野もまた一緒だった。
夢であった帝國大学への未来を壊され、親戚や家族の夢を一身に背負ったものが無くなった。荷の無い背中は軽く、世間からの同情の風に容易に吹き飛ばされ、自分の存在を見失った。金を工面し、研究の徒となり、ひたすら勉強をして書生として生きてきた自分から、今までの苦労である勉強を取ったら何が残るのか。
帝國大学が夢だった。いつしかそれだけが夢となり、周りの期待を叶えることだけに心を砕いてきた。
「なんて情けない」
ぼそり、書き終えた原稿用紙を脇に放り桐野は自嘲した。
たった小さな、桐野にとっては友人ひとりを失ったくらいで教壇を下り、教鞭をへし折る先生を見て、尊敬を向けた人間に裏切られたような気がしていた。
自分の立つことの赦されない帝國大学の教壇に立つことこそ幸せであると、精神を病み自らの行動を恥じそれでもなお教壇に立てと、それが先生の為になると桐野は思い続けてきたのだ。情合を向けるたったひとりの女を自尊心の為と切り捨て背を向けた、と話す先生の話を聞いて桐野は息を飲んだ。
何のことはない。桐野もまた進学の道を閉ざされたことを恥じ、自らの殻に閉じ籠り、奥底に芽生えた感情を自覚しながらも先の見えない不安から蓋を閉じ、手遅れにならない前にと千紗を桂木へ追い返そうとしていたのだ。
「……先生と僕は何ら変わりがないじゃあないか」
輪廻の如く、運命は廻る。伊沙子と先生が掴み取れなかった未来への糸口を、一時の代理として千紗と桐野が勤め上げるならば、次は先人の道を辿るままでは決して切り開くことが出来ないのだ。千紗が伊沙子のように心を病んでも先には進まない。本来は先生が進むべき道は、既に先生自ら閉ざしてしまっている。
(ならば)
桐野は書き終えた物語を床に投げ出した。
下宿屋の床は原稿用紙が敷き詰められ酷い有様だ。それでも書き終えた達成感に、桐野は微笑み、休むことなく紙を集め始めた。インクで汚れた手は白かった原稿用紙の端を容易に汚し、乾いていないインクは紙の裏側を染め上げていく。
「読むことさえできればいいだろうさ。僕がどうせ読むわけではない」
は、と短い声を上げて笑う。新聞社に頼まれた原稿は一度渡してある。納得のいかない面白味のない良くある物語だ。つい先日まで順調に書き上げていた話が妙に安っぽく見えた。確かに書いていた時は筆も乗り、先に渡したものと差し替えてもいいのだと思っては居たのだ。
書き終えた紙の重みが、桐野の指にかかった。
話は此れで総てではない。物語は三部構成、一部を終えた今まだ先に残る物語が有る。其れも総て桐野の頭の中には出来上がっている。細かい粗筋を書き記し、紙にして残してあった。あとは其れを話にまで昇華し、世に出すだけだ。
千紗は既に運命の輪に囚われている。手紙に心配するなと記し、ひとりで苦しみを押し込めただ口を閉ざすのだ。待ち往く未来は新橋のように身を投げる未来か、霧の如く消え去る未来か。
させてたまるか、そう怒りが胸に込み上げた。
「彼奴は絶対に帰して見せる。同じ轍など踏ませてたまるか」
「憤るのも分かるが、沿うそう人をこんな遅くに呼び出すものではないよ」
桐野は顔を上げた。
金田が呆れた様子で、下宿屋の立てつけの悪い戸に背を預け立っている。金田は暗闇に染まった部屋を見渡し、足元に広がった原稿用紙の山をつま先で選り分け乍ら部屋の中央で胡坐を組んだ桐野の前で腕を組んだ。
「随分な有様だ。泥棒が入っても此処までにはなるまい」
「遅かったではないですか。待ちくたびれましたよ」
「……君が今は人が眠りにつく時間だと云う認識はあるのかね? 此れだから生活破綻者は困るのだ」
遣れやれと首を振った金田はいち早く桐野の手にした原稿用紙に視線を落とし、それが何であるか気づいたようだ。
「書き終えたのか」
「ええ、一部完ですが」
口端を緩ませ応えた桐野に、金田は大きく頷いた。
「成らば大作だな、実に喜ばしい。君自身、納得のいくものが書けたようだ」
「読みますか」
聞かれた金田は、かろうじて互いの顔を認識できる暗さの部屋を見回し、闇の中で僅かに眉を顰めたようだ。廊下の明るさに触れた桐野の視界も、先ほどまで月の明るさで筆を進めていたとは思えないほど闇に覆われていた。金田の顔すら良く見えない、正直目が疲れた所為もあるのだろう。
「此の暗さで書く君も君だが」
躊躇する声の後に、桐野の手から紙の束が奪われた。軽くなった手の上に、温かいものが手渡される。
「此処で読もうとする僕も僕だな。まずは腹ごしらえをし給え、握り飯だ」
どっかと部屋の端を陣取り、金田は廊下の明るさのみで読み進めることにしたらしい。瓦斯燈の灯りは不要と言いたげな桐野の意思を汲み取ったようだ。
静かで甕に湛えた水のような話だ。揺らぐこともなく、決して零れることもない。然し、湛えられた女の想いは只満たされ、隠しようのない心が水鏡に映っている。告げたくともかなわない。然し、それでも構わないと女は云う。
男は只女の優しさを受け止めて、促されるままに背を向けるのだ。決して総てが幸せとは云えない、其れでも想いを胸に抱き女は死なずに前を向く。
背を押した自分の決断を信じている。ならば、男はどのように苦悩するのだろう。二部は男の苦悩にかかっている。背を押した女の強さを無下にして仕舞うのか。
「ふむ」
金田は頷いた。
「君はこの最後の文言を遺書と説くのかね」
続きの二部は手紙から始まるのだ。長く、後悔の念に苛まれる男が居る。
桐野は金田から紙の束を受け取り、握り飯の粒が付いた指を舐め取った。長く腹に何も入れていなかったせいで、僅かな食い物の味が妙に濃く感じた。
「……其れは此れからにかかって居る」
桐野は金田に向き合った。
「金田くん、頼みがあるのだ」
様子が違うことを訝しんで、金田は居住まいを正したようだ。桐野は闇の中に居る友人に向かって口を開いた。
「僕と縁を切っては呉れまいか、此れからのことは僕ひとりの責任に収めたいのだ」
「……其れは急なことだな。桐野君が無理を云うのは慣れたことだが、其れにしては突然過ぎないか」
「僕が仕出かすことは、屹度此のままでは金田の家にも譴責が及ぶのだろう。僕は其れを避けたいのだ。君を友人だと思って居るからこそだ。この通り」
桐野は頭を下げた。首から下げた手拭が床に付き、既に半分乾いた髪の毛がそれを追って床に零れ落ちた。渡された紙の束を、床に置く。その上に手を置き、桐野は闇に目が慣れつつある金田の姿を見遣る。
掴みどころのない複雑な表情をしていた。
「此の話は君に渡そう。僕に何かあった時に遺作として発表して欲しい。先の粗筋は既に行李の中に入って居る。先生ならば、僕の意を汲み最後まで書き終えてくれるだろう。僕は然う、信じて居るのだ」
「桂木の家に行くのかね」
質問に桐野は頷いた。
「伊沙子嬢の兄に、彼女は好いている男が居るのだと言って来ようと思うのだ。彼女が言えないのなら、僕が突破口を開いて見せようとも」
「桐野君。君は……」
金田は天を仰いだ。乾いた笑いをし飽きるほどに笑った後、肩を揺らしながら向き直る。
桐野の目にもはっきりと見えた。如何にも成らない馬鹿な男を友人に持った男の顔だ。道化になるしかない男を如何にもならないと小馬鹿にしながらもまた、金田も桐野を羨んでいるのだ。
片や確実な未来を持つ男を羨み、片や命を賭けるほどに没頭する女を見つけた男を羨む。
(人は得てして、持ち得ないものを望むのだろう)
「この傑作を、遺作にして如何するのだ。馬鹿な男だ、真正面に向かって行くだけが総てでは有るまい。相手は華族だ。血なまぐさい醜聞にも慣れきって居るのだよ」
金田の言葉に桐野は笑った。
「小細工で如何にか出来るのならば、これまで君が如何様にもしただろうさ。鳥籠の鍵は決して世には出ないのだ。ならば、寿命を迎える前に僕が鳥籠に蹴りを呉れてやろう。揺らぎ歪んだ籠から逃げ出して、最後に元の飼い主の元に帰れば良いのだ。何処の飼い主に戻るかは、運命とやらが知って居るのだろう?」
だからこその頼みなのだ、と桐野は頭を下げた。
「彼女は廻り来る運命とやらに巻き込まれつつあるのだ。急ぎ話を付けたい。桂木 史郎との話の席を君が都合して呉れないか。僕との縁は其れを最後に切って欲しいのだ」
金田の返事はないままだ。納得できないのかも知れなかった。
「そして、何が有っても君は僕と無関係を貫いて欲しい。馬鹿な友人の最後の頼みだ、聞き遂げては呉れまいか」
丸い月が馬鹿な男の頭を照らしている。秋の空は美しく、群青色の広がりを見せていた。落ち葉の敷き詰められた路に金田の姿が通り過ぎるまでには暫しの時間が必要なようだ。
閉ざされつつあった本の頁は再び捲られ、ゆっくりと既に綴られていた未来へと向かっていく。
――――――然し、誰も今はそれを知る由もなかった。




