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「先生」
桐野は容赦なく降りしきる雨の中、見つけた影に声を掛けた。
下宿屋ではまだ瓦斯燈も要らないほどの明るさが残っていたというのに、今や空は黒く重く厚い雲に覆われている。太陽の欠片も見えず、濃紺の空と黒く染まった雲、雨に濡れた濃い緑が視界に入る色の総てだ。
総てが濃色の中で、場に馴染む黒い蝙蝠傘と浮き上がるはしばみ色の着流しの組み合わせが目立った。余程長い時間、先生は墓地に立っていたのだろう。紺地に白模様の帯から下、裾にかけては激しい雨の跳ね上がりで濡れそぼっていた。
「此処に居らしたのですか」
桐野が声を掛けても先生からの返事はない。
次第に激しくなる雨の中を只ひたすらに駆け抜け、桐野が本郷千駄木にある先生の家についた頃には既に昼ドンの時刻は過ぎていた。珍しく閉ざされた門戸に桐野が立ち往生していると、通りがかりの那美子に声を掛けられたのだ。
先生は、早朝から友人の墓参りに出掛けたらしい。然程遠くもない寺までの短い散策とはいえ寄りによってこんな天候の日を選ぶことはないだろうに、と毒づき乍ら足を伸ばした護国寺の墓地で、桐野は傘を持ち立ち尽くす先生を見つけた。
桐野に渡したものと同じ蝙蝠傘は、金田が持ってきたものだ。天候構わず友人の月命日になると墓参りをする先生を気遣って、蛇の目よりも頑丈なものを持ってきたのだ。緑深い中で、葉から滴り落ちる雨粒が傘の山に叩き付けられ軽妙な音楽を奏でた。
雨音の激しさに、桐野の掛けた声が聞こえているかも自信がない。俯きがちに、何をするでもなく立ち尽くしていた先生は暫しそのままの格好を保ち、やっと満足にいったのかのろのろと顔を上げた。
「日記ですか」
そういうと、桐野に向き直る。
「わざわざこんな日に御苦労様です」
僅かな皮肉も忘れない。先生は本来こういう子供臭い方なのだ、と桐野は内心で嘆息する。伊沙子の日記に書かれた先生は、伊沙子を諌め注意し説得するまさに教師たる人間だ。厭世的であれ、今のように心を開かずにただいるだけの人間とは違う。
桐野にとって激しい感情の起爆剤が千紗であるとするのならば、先生にとって感情の火種が伊沙子なのだろう。点けられた火は火種が消えても火種の周りからじわじわ広がり、ゆっくりと燃え続ける。そしていつしか火種から遠く離れたところで、先生の火は消えるのだろう。
(其の時を……先生はずっと待って要るのか)
静かに消えて欲しいのだろう。焔を煽ることなくゆっくりと何もなかったように風化していくまで、土を掛け続けているのだから。そうなれば、その想いを掘り起こそうとする桐野はきっと罪人に違いない。
ひとりの未来を得るために桐野は、消えていくのを望む想いをまた煽ろうとしているのだ。
桐野は手からひしゃげた蝙蝠傘を庭へ投げ出した。外套の肩と剥き出しの頭を強い雨が打って、桐野を濡れ鼠へと変えてしまう。投げ出さずとも、既にもう傘は限界に近付いていた。其れでも投げ出したのは、少し頭を冷やしたかったからだ。
外套の奥に大切に抱え込んでいたまだ乾いた風呂敷包みを胸に抱え、桐野は震える唇を開く。
「日記を持って来たのです、先生。約束通りに読んで頂きたい」
先生はふ、と困惑した風に笑う。着物がより汚れるもの気にせずに、泥濘の中を叩きつけて歩き近寄って来た。
「宜しいでしょう。然し、まずは着替えが先ですよ。風邪を引かせては、僕が千紗さんに叱られて仕舞う」
先生は、濡れ鼠の桐野に傘を差し向けた。
着替えた先生は、いつもの紫檀の文机の前に腰掛けると見慣れない眼鏡をかけた。
手拭を頭に掛けだらしなく腰帯を締めた、先生に借りた着流しの姿の桐野は、いつも通りの場所に腰掛ける。足の踏み場もないくらいに広がっている本の山が、丁度桐野の定位置の部分のみ空いている。先日、伊沙子の手紙が入っていた文箱は、書棚の一番上に蓋を閉めて置かれていた。
桐野は慣れた様子で片膝を立てた。開けっ広げの裾がはらりと垂れて、未だ濡れている感触の足を剥き出しにする。其れに全く頓着もせず、桐野は風呂敷包みから原稿用紙を取り出した。日記は既に先生の文机の上に置かれている。
あとは先生が表紙を開くだけなのだ。
(どう転ぶかは、僕にももはや分からない)
インク壺に先を突っ込み、桐野は執筆に没頭する。
部屋から出ていけと言われなかったので、桐野はあえて書斎に留まった。先生も其れを咎めず、互いに互いの存在を無視している。向き合うのは、桐野ではなく消えた伊沙子なのだ。先生はむしろ一人きりにはなりたくなかったのだろう。そう勝手に桐野は判断した。
桐野もまた同じ思いだった。ひとりにはなりたくなかったのだ。
ぱらり、頁が捲られる音がする。其れを聞きながら桐野は何も書き上げられていない紙に顔を寄せた。
暗い部屋の中で視界が悪い。霞む文字から離れがたくて膝の上に乗った原稿用紙に顔を寄せた。肩が強張り、頭痛が激しくなる。其れでも書く手を止められない。
(屹度、僕は先が長くはないのだ)
霞む目とたまに起こる頭痛は年々激しくなっている。神経を病み胃病を患う先生と同じように、桐野にもまた流れる物書きの血は長く生きることを阻む。
自分の中に存在する澱んだものを敢えて覗き込み、其れに手を突っ込み抉り取り作品に仕立て上げるのだ。書き上がったものがどれだけ長く時間をかけ愛着が湧いていようとも、人の評価を得なければ世には出ることもない。長い時間が無に変わる、それがどれだけ悲痛であることか。神経衰弱していってもおかしくはない。
先が長くないのであればそれも由なのだろう。ただ紙とインクに埋もれ、誰も知らない場所で勝手にくたばって仕舞えばいいのだ。桐野は、女の嘆きを書き写しながらそんなことばかりを考える。
老い先ならば此の先、屹度楽なのだろう。手から零れ落ちたものを嘆く時間は短ければ短い方がいい。
筆が紙の微かな傷に引っかかり、インクが零れ落ちた。垂れる墨を手の平で擦り取ると、桐野は汚れた手を見遣る。
静かな夜だ。そう思ってから、やっと桐野は思考の海から浮き上がった。いつの間にか夜になっていたのだ。
飯のことを考えずただ書き続ける時間、朝まで寝ずに書き続けていたことも忘れ、桐野の周りには書き終えた原稿用紙が所狭しと広がっている。
先生は只、閉ざした日記と向き合っていた。
「……先生」
「読みましたよ」
読んでいないのか、と咎める前に先生からの返事が来た。文机の上に閉ざしたままの日記には何の変化もないというのに、桐野は確かに先生が頁を捲る音を聞いているのだ。ならば屹度読んではいるのだろう。
「其れで君は」
彼の先生は背筋を伸ばしたそのままの体制で桐野に問い掛けた。膝を立てた格好で正面に腰掛ける桐野には、瓦斯燈の灯りで出来た影で隠れることなく前を向く先生の顔がはっきりと見えた。
見えているのに、感情は読めなかった。
「千紗君を僕に寄越すと言うのですか」
「……彼女はいつしか帰る身です。先生と添い遂げるわけではない」
「であっても、今は千紗君ではないですか。ならば伊沙子さんになってから僕に譲り渡すおつもりですか」
桐野は押し黙った。
いつしか雨は止んでいた。吹き付ける強い風の音も聞こえない。海の底に居るような静かな夜だった。聞こえるのは呼吸の音と、衣擦れの音だ。膝を戻し体を起こし、先生に改めて向き合うために桐野が着物の裾を引いたのだ。
「先生が云うならば、僕は身を引きましょう」
言った言葉に自らの心が引き裂かれる。開いた傷から剥き出しの肉が膨れ上がり、見る見る間に鮮血に染まっていく。先生は日記に静かに片手を乗せた。
「君が引いたのならば、千紗君は如何なります」
「先生が是非、支えてあげて欲しいと思うのです」
大きな音が鳴った。
乗っていた先生の手が、日記の表紙を叩いたのだ。決して衝撃には強くない文机が、絨毯の上で滑った。前に一方の足だけ進んだ間抜けな状態の文机を、先生は元の位置に戻すこともせずに口を開く。
「僕が彼女を支えてあげることが出来ると、君は思って要るのですか」
教師然とした物言いだ。桐野の矛盾を突いて、鋭く攻めてくる。桐野は先日のように両手を床についた。先生は其れを見て「土下座などおやめなさい」と静かな声で諌めた。
「僕はそんなことでは動かない。参商君の意思を聞きたいのです。僕に責任を押し付けることなど、止めて呉れないか」
「此れは僕の希望なのです。今の僕が彼女の傍に居て如何成るでしょうか? 悪戯に気持ちを荒らすだけではないですか」
「では、このまま引くと?」
桐野は拳を握り締める。是とも非とも応えることが出来なかった。
「僕は先日も言いました。気持ちは変わって居ないのです、先生」
「参商君は先日、僕に言ったのでしたね。伊沙子さんの本当の気持ちを疑って、僕が向き合おうとしないのだと」
先生は自嘲気味に継いだ。
「その通りですよ、僕は只逃げていたのです」
先生は閉ざしたままの日記を手に取った。
その表紙に視線を落とし、唇の端を持ち上げ笑うと指をゆっくり日記の縁に這わす。
「伊沙子さんは総てを捨てて呉れると言いました。でも僕は」
次の句を拒むように、先生は口ごもる。
「僕は、彼女の為に全て捨てることは赦されなかった。僕には彼女よりも、守るべきものがあったのです」
「其れは」
「下らない自尊心ですよ。僕は自分を守るために、伊沙子さんを受け入れることが出来なかった。だからこそ、僕は参商君や金田君の尊敬を貰えるような人間ではないのです」
先生は笑う。泣き出しそうな顔をして、ゆっくりと日記に指が辿った。
「彼女が僕に愛戀の情を抱いてくれていると知って僕の胸は高鳴った。歳が離れていても、彼女は無邪気で僕には掛け替えのない女性だった。けれど、それだけなのです。苦しむ彼女の隠す心の闇を、僕は見ないふりをして蓋をした。助けて欲しいと嘆く伊沙子さんを置き去りにして、僕は欧羅巴に旅立ったのです」
「其れは国の命令ではないですか」
「然し、伊沙子さんのことを想うのならば僕は悪戯に彼女に提案するべきじゃなかった。君たちの前に、下谷で子供たちの面倒を見て居たのは伊沙子さんです。僕のいない間に、沢山の子供が寒さや飢えで死んでいった。僕に繋がる下谷を必死に守ろうとして、伊沙子さんは自分を捨てることを決断したのです」
桐野は日記の内容を思い返した。日記の最後には縁談相手に、下谷への援助を申し出ることが書き残されていたのだ。その後に新橋の件があったのなら、史郎が激昂していたのは其れが原因なのだ。
「彼女を大切に思うのであれば、英吉利から戻って来てから僕は伊沙子さんの兄に殺されようとも、逢いに行くべきだった。でも、僕は其れをしなかったのです。僕は彼女からの気持ちを受け取ったことで、もう満たされていた」
日記の最後には、何と書いてあっただろうか。もう死んでもいい、と書き残してあったのだ。
「伊沙子さんは僕の幸せだけを祈って呉れて居た。でも僕は、さっさと誰かの物に為って勝手に幸せになって仕舞えばいい、とまで思っていたのですよ。そんな僕が、誰かを幸せに出来るのだと思いますか?」
「……先生」
「悪いことは言わない。僕に総てを預けようと思うのはやめなさい。そして、千紗君もまたこのままでは伊沙子さんと同じように狂い壊されてしまう。参商君、君は知ってるのですか? 千紗君がどんな状況で、どんな中にひとり居るのか」
桐野は胸に手を当てた。いつもならあるはずの感触が指に触れず、辺りを見回す。濡れた着物を着換える時にどこかに落として仕舞ったのか、周囲にはらしきものが見当たらないのだ。
急に背筋に冷たいものが走った。こうやって千紗は桐野の前から消えていくのだ。確かにあったものが不意に無くなる。濃密な感情と鮮明な思い出だけを残して、指から零れ落ちて仕舞うのだ。
そう思うと只怖くなった。
「然し……僕では彼女の未来を創ることが出来ないのですよ。彼女は存在しない夢のような人ではないですか」
「そうして、僕のように逃げますか?」
「逃げるとか逃げないとかいう問題ではないではないですか。僕はいつだって蚊帳の外だ。今、彼女が悩み苦しんで居ても、いつか伊沙子嬢に戻った時に消えていくだけではないですか。ああ、違う―――!」
いつか未来に戻るのだと言っても、今現在感じている苦しみや悲しみは消えるわけではない。寧ろ知らない場所で自分ではない人間に向けられるものに、今千紗は苦しめられているのだ。
大丈夫、大丈夫だと言っている時に限って強がっているのだろう。桐野は強く拳を握り締めた。
考えてみると、兄と話してみると言っていたはずなのにその後の件には一言も触れられていないのだ。桐野は辺りに散らばった原稿用紙をかき集めて、離れた場所に滑り入っていた千紗の手紙を飛びつくようにして掴み取ると乱暴に開いた。
―――手伝ってくれている桐野さんや金田さんをがっかりさせないよう、それに自分の未来の為にも、私は出来ることから頑張っています。
強がること、それが今千紗が出来る精一杯のことだったのだろう。未来に帰る身であるならば、可能な限り総てを自分一人で終わらせるつもりだったのだ。
桐野は立ち上がると、先生を振り返った。
「先生、今日の件に関しては少しお時間をいただきたい」
「構いませんよ。僕は……参商君、君も千紗君もまた幸せになって欲しいと思って要るのです」
「……失礼」
桐野は広がった原稿用紙をちらり見遣ると、それを拾わずに踏み締めて廊下へ繋がる障子を開けた。
小説の中の女が紅を塗り、泣いていた顔を拭き前を向く。嘆いていた過去を諦めて、未来に向かう。
泣いていた主人公はいつしか、気概をある女になっていた。




