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明治逢戀帖  作者:
第七章 貴方ヘ綴ル声
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「お手紙ありがとうございます。

 どうしてでしょうか。桐野さんのお手紙を持っていると勇気が出る気がして、ついいつも持っています。落としたりは絶対にしないので大丈夫ですよ。なんとなく気分の問題です。許して下さいね。

 日記の件、先生と話してくれたんですね。ありがとうございます。早い方が良いと思って、手紙により先に金田さんへ渡して貰えるよう、みねさんにお願いしました。届きましたか?

 桐野さんではないけど、手紙となると書くことに悩みますね。

 多分、桐野さんは食べ物かと顔を顰めると思うのですが、今日のお菓子はシュークリームだったんですよ。桐野さんが金田さんの家で何個も食べていたあのお菓子です。とてもおいしかった。こんないいものばかり食べて、太ったらどうしようかな。

 今日の空は特に青くて綺麗です。私の部屋から見える桂木の家の庭はとても綺麗に整えられていて、今は秋桜が満開です。一斉に風に揺れるのも、なかなか見ごたえがありますよ。

 先生にお願いしてくれたこと、とても感謝しています。でも桐野さん、くれぐれも無理はしないで下さいね。

 手伝ってくれている桐野さんや金田さんをがっかりさせないよう、それに自分の未来の為にも、私は出来ることから頑張っています。千紗」



 矢張り、畳と襖の無い部屋はどうにも落ち着かない。

 言うなれば桐野は、欧化していく明治時代の波に乗り切れない不器用な人間なのだろう。金田が用意した欧羅巴風の設えの部屋では自分の居場所を見出せず、結局桐野は田端の自室に戻って来てしまっていた。乱雑なものに囲まれて、追い込まれるようにただ原稿用紙と顔を突き合わせている。

 窓硝子を叩く雨に五月蝿げに顔を向けても別段何が見えるというわけでもない。流れる水滴が外界の景色を覆い隠していた。夜半から飽きずに降り続く雨は、秋だというのに妙に温かく、陽が陰って居ても何も羽織らずとも丁度いい室温を保ってくれる。

 雲はまだそこまで黒く澱んでいず、灯りを付けなくともまだ何とかいけるだろう。桐野は瓦斯燈に伸ばしそうになった手を止めた。灯りにもいちいち金がかかって善くない。

 一心不乱に書き連ねた文字が、見知らぬ女の命を記していた。筆を止めてはいけないと、心の中から促されるままに書き連ねた物語は今のところ順調だ。

 それでも、不意に手持無沙汰になると直ぐに文机の上に視線を向けてしまう。

 思考から逃げるようにして、昨夜から憑りつかれた様に原稿用紙に向き合うこと数時間、既にもう夜は更け朝が来ていた。そろそろ他の部屋の学生が起きるだろう頃にやっと桐野の目が疲れ始めたのか、ぼんやりとした重苦しい疲れがやって来る。何もする気が起きないほどに、ただ気怠かった。

 押し潰されて煎餅の様になった布団を敷く気力もなく、桐野は辛うじて人ひとり転がることのできるほど開いた隙間に体を横たわらせた。

 天井を見上げて見えるのは、湿気で変色した天井と角の埃だ。一体いつから掃除をしていなかったというのか、埃の上に珍妙な同居人も見つけてしまう。小さな蜘蛛だ。

 枕の代わりに引き寄せたのは金田が土産代わりに持たせた英文学書だった。ごつごつして余り枕には向いていないが、高さだけは理想的で嬉しい。

 この本一冊で下宿屋の一か月の家賃にもなる高価なものだと理解していながらも、いつもならば直ぐに其れに目を通す気になるはずだというのに、如何しても手が伸びなかった。

「宝の持ち腐れだな」

 桐野は堅苦しい背表紙に耳を乗せると、ごろり寝転んでしまった。中々手に入らない装丁本を飴玉でも寄越すかのようにぽんと桐野に呉れて遣る金田は豪気というのか。それともただ単に飽きただけなのか。

「……後者だろうな」

 ざあざあと激しい雨が降っている。廊下を走る学生が傘を探している声が聞こえてきた。桐野の戸が激しく叩かれ、傘を所持して居ないか聞いてくる。聞こえていても桐野は眠ったふりをして無視をした。

 どうせ貸しても戻ってくることはない。貧乏学生との物の貸し借りは喧嘩の元だ。勿論、桐野を含み。

 強くなった風が窓枠を鳴らした。襲い掛かる脱力感に、掴んだままだった万年筆が桐野の指から転げ落ちる。もう掴み上げる気力も桐野には残っていなかった。

 文机の上に、千紗から届けられた伊沙子の日記がある。

 早く先生の元へ届けなくてはいけないという焦燥感と、届けることを拒む気持ちがずっと桐野の中で鬩ぎ合っていた。見て呉れと言った口で、次は見ないままでいて呉れと言いたくなるのだ。

 伊沙子の想いを知り、先生は何を思うというのか。千紗と桐野が願うままに先生が思い直し、今現在は中身が千紗である伊沙子とこれからのことを考えるのであれば、その後の桐野は完全な部外者だ。こうやって手紙を行き来するような関係も考え直さねばならないだろう。

 無様な言い訳で千紗に縋り付いた。いや、それも既に達成しているのだろう。

「二通在れば、もう充分だろうに」

 大したことの書かれていない紙切れが、千紗の存在の証拠となる。記憶は風化され、いつしか消えていくのだとしても、其れでも手紙だけは桐野には遺される。明治という時代に短い時間だけ生きて居た、夢のような女の存在を示す。

「……僕は、たったこんなものだけで、此れから生きて往こうというのか」

 はは、と桐野から乾いた声が漏れた。

 馬鹿らしくてそんな笑いしか出てこない。たった二枚の温度も感触もない手紙に、一生を託そうとする自分が道化にしか見えなくただ情けない。

 しかし愛戀は尚も嗜虐的に桐野を追い込み、孤独の深淵へとのめり込ませるのだ。情合を向けた女の為に畳に頭を擦り付け、沸き起こった自らの想いを土を掛けて卒塔婆を突き立て、違う男と結ばれるだろう未来へと押し返せと云う。

 割り切るべきだと心が言った。手紙を開くたびに膨れ上がる何かは、近づく別れを拒絶し胸を掻き毟ろうとも目を閉じて仕舞えと言う。

「……知って居るさ」

 桐野は片膝を立てて重たい体を起こすと、床に投げ出してあった外套を手に取った。

 書棚の前に立てかけてあったはずの蝙蝠傘は本の山に押し潰され、骨がひしゃげていた。どうせこの風では、外に出てしまえば濡れるのも時間の問題だろう。桐野は構わずに引き摺り出すと小脇に抱えた。破れた蛇の目では強すぎる雨に勝てる気がしない。

 書きかけの原稿用紙と日記を風呂敷に包み、愛用の万年筆と千紗の手紙も合わせて袂に入れる。

 そのまま桐野は、降りしきる雨の中を駆け出した。

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