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明治逢戀帖  作者:
第七章 貴方ヘ綴ル声
44/61

「謹啓。

 君の手紙は、向こう側に君が居るのが透けて見えるようだ。悪い意味ではない。驚いたり、怒ったり忙しい人だとは思ってはいるけれど其れも君の手紙なのだろう。実に興味深いと思う。

 君が桂木の屋敷から逃げ出した顛末を読んで、流石の僕も言葉を無くした。君は少しばかり肝が据わっていると思っては居たが、無為無策なだけだ。もう少し考えて行動した方が僕は良いと思う。然う云うことだから周囲の人間が常々君に巻き込まれて仕舞うのだ。新橋で逢った時から大体君は(中略)

 下らないことで長くなった。つまり僕は只、心配して居るだけだ。

 話は変わるが、彼の先生に日記を見ることのみ了承して貰った。ついては君の持って居る伊沙子嬢の日記を此方に欲しいのだ。君自身が持ってくることはない。とよを介して、金田君にでも渡して呉れ。後は僕の方で何とかしよう。

 あと、あまり大丈夫だとか心配するなとは書かないで欲しい。無理をして居るのではないかと邪推して仕舞う。思ったことを其のまま君は書いてくれて構わないのだ。其れを僕がどう判断するかは任せて欲しい。

 日記の件のみ早めに返答を待って要る。敬白」



「父上に会わせろ、だと」

 千紗は穿つ視線に負けないよう、胸に潜めた桐野の手紙のことを思った。文字の羅列に熱などまさかあるはずもないのにそこから勇気が漏れ出てくるような気がする。

 有無も言わせない史郎の顔を真っ向から見つめて、千紗は強く頷いた。

「はい、伊沙子のお願いです。史郎お兄様、聞いて……頂けないでしょうか?」

「伊沙子お姉さま、少し図々しいのではないかしら?」

 反論は意図してしない所からやって来た。

 嘲笑入り混じる甲高い声、声だけでここまで嫌悪感を剥き出しに出来る人間も珍しい。むしろ大人げないともいえる。然し仕方ないのだろう。久美子はまだたかが十五歳、現代ではまだ中学生なのだ。

 久美子の介入を避けるために敢えて洋館のサンルーム、しかも久美子が女学校へ行って居る時間を史郎へ言伝たというのに、どうもこの屋敷の使用人は壁に耳あり障子に目ありなのだ。隠して行動することなど、千紗には許されていないらしい。

 千紗と同じように矢萩の着物の上に海老茶袴を履いている。一部結い上げた髪の毛は、水鏡に映る月の様に似ているけれど漏れ出てくる険が違う。久美子はどうも先日の一件をかなり根に持っているらしい。

(まぁ……確かにあれは私もやり過ぎだったとは思うけど)

 千紗は心の中で嘆息した。サンルームに入ってきた思わぬ闖入者に、眉を顰めたのは史郎の方だ。

「久美子、お前は授業は如何したのだ」

「一寸朝から具合が悪かったのです。お兄様こそ、朝から忙しなくして居たでは有りませんか。久美子の様子など気にも留めていなかったでしょう?」

 まるで気づかなかった史郎が悪いような言い草だ。千紗のことにばかりかまけている兄を、久美子は暗に咎めているのだろう。史郎へ文句を云い乍ら、睨み付けるような視線は常に千紗へ向いている。

「……」

 千紗はぐっと口を閉ざすと、久美子の顔から目を逸らした。その様子を見て、久美子は口元を袂で隠し笑う。別に視線を先に逸らしたことで負けたというわけではないのに、久美子のせせら笑いを聞くと気分が悪かった。

「其のような猿のような方、今のお父様に近づけては何をされるかわかったものじゃ有りません」

「久美子」

「だって然うでは有りませんか。感情で皿はお投げになるし、窓から逃げてお仕舞いになるし。次はお父様に馬乗りになって何かされては堪ったものじゃあないわ」

「そんなこと、しないってば!」

「然うかしら? この前から伊沙子さん、言葉使いも下品だわ。まるで伊沙子さんが此方に来られた時みたいよ。嫌だわ」

 千紗は思わず飛び出した淑女足らぬ口振りを思い返し、口元を覆った。

(だって……そんな教育受けてなかったんだもの)

 慎重に口を開くときは上手く取り繕えても、感情的になるとそうはいかない。

 丁寧であれ、そうは聞かされても実践と机上は違うのだ。少し大袈裟なほどの気取ったお嬢様言葉は、今や現代では使っている人間など数えるほどに違いない。

 読んで字の如しだ、猿の様に壁を伝い逃げ出したのは確かに千紗ではあるけれど別に内面まで猿の様に失っているわけじゃない。ただ久美子は厭味を言いたいだけなのだろう。

 千紗は久美子の件は早々に諦めて、直ぐに史郎へと向き直った。悪意がある分、久美子の説得は不可能だ。

「お兄様、伊沙子もお父様が心配なのです」

「伊沙子お姉さまには関係ないわ。お母様だって逢わせたくないと仰る筈よ」

「久美子さんは黙ってて!」

 千紗は思わず声を荒げた。

 淑女たるもの、気持ちをあらわにして声を荒げるなどというのは有り得ないことなのだろうか、驚いたように千紗の声を聞いて久美子は反射的に口を閉じてしまう。そんな千紗の姿を、史郎は何か思うところがあるような様子で黙って見ている。

 千紗は頭を深く下げた。

「お義母様の了承が必要なのであれば、伊沙子がお義母様に話します。お兄様、お願い」

「お兄様、まさかお聞き遂げなさるおつもり?」

 千紗と久美子の視線を受けて、史郎は背を椅子に預けると胸の前で手を組んだ。強く目を閉ざし、思案すると「伊沙子」と声をかけた。

「はい」

 千紗は一歩前に出て返事をする。此れで伊沙子の父親と話せないのであれば、次はどちらから攻めようか。そう云うことばかりを考えている自分がおかしかった。

 史郎は咎める視線の久美子に背を向けて、黙ったまま立ち上がる。サンルームと母屋へ繋ぐ扉に手をかけ、千紗の方へ振り向かずに低い声を出した。

「用意をしろ。出かける」

「はい」

 千紗は大きく頷くと、久美子を見ないようにして小さく会釈をしてサンルームを出た。


    ◆     ◆     ◆


 重く苦しい空気が漂っている。現代でも明治時代でも病院の持つ空気は何も変わらず、どこか息苦しくて暗い感じがする。

 どこからか低く呻く声が聞こえて来て、千紗は思わず横を歩く史郎の外套の端を摘まんだ。足早に歩く史郎はそんな千紗の指に一瞬だけ視線をおろし、何も咎めることなくそのまま真っ直ぐ病院の中を行く。

 通り過ぎた看護婦と医者らしき人間は史郎を見ても、物言わず只頭を下げるだけだった。史郎もまた、それを気にする素振りもなく行動に澱みなく何処かを目指すのだ。余程、ここには来慣れているのだろう。

 小石川へ戻ったばかりの千紗が連れて行かれた病院とはどうやら違うようだった。地理に疎い千紗でさえ、この明らかに建物からして違う設えに恐怖を感じつつあるのだ。

 広い敷地にいくつもの建物が点在している。それが現代で言うコテージのような大きさで、病院と云われても今一納得できない。

「此の棟には病人は誰も居ない」

 千紗の震えに気づいたのか、史郎が言葉少なに言った。どうやら最初に足を踏み入れた場所は、看護婦などの詰所のようなものらしい。

「父上を家に置くのは無理なのだと判断したのだ」

 木の壁、薄ら寒い空気が普通の病院ではないと千紗に訴えかけてくる。一つの扉の前に立ち、史郎は少し前で立ち竦む千紗を感情の無い目で見下ろした。

「此処は東京府巣鴨病院、またはてんきょういんと云う。父上はお前の婚約を決めて以来、少しずつ気狂いになられて此処に収容されているのだ。今や正気を取り戻す時は、月に一度あるや否や」

「……てんきょう、いん」

 ぎしりと扉が開く。ベッドがいくつも置いていてもこの部屋はひとりで使用しているらしい。思ったよりも天井が高く、大きな窓から眩しい秋の光が射し込んでいた。

 アーチ型の窓はまるでどこかの洋館のようだ。陽の暖かさに反して思ったよりも寒い秋風が、辺りの落ち葉を窓に吹き付けた。病室の周囲は余りに似つかわしくないまるで庭園のような設えなのだ。

 大きなベッドに沈み込むようにして、そこには見知らぬ男が眠っている。

(この人が……伊沙子さんのお父さん)

 遠くで一瞥しても何の感銘も感じなかった。こ削げた頬が影を作り、生きているかも疑うほどだ。かけすぎな程山なりになった布団の中は、もしかすると千紗の想像もつかないものが隠されているのかもしれない。拘束具、もしくは、とまで考えて千紗は考えるのを放棄した。答えなど知りたくもなかった。

 史郎は入り口で立ち止まったままの千紗を一瞥し、中へと入ると窓際へ立った。逆光を背にしてこちらを見ると「伊沙子」と呼ぶ。

 饐えた臭いに吐き気がした。目に入るものは何もおかしくはないのに、何処となく清潔感をまるで感じない病室の中で、千紗は首を振る。

 近くに寄れる気がしない。勝手に体の不調だと思っていた千紗は、自分の考えのあまりの軽さに恐怖を感じていさえしたのだ。

「……お、お話は?」

「出来ると思うか。鎮静剤を打たねば、直ぐに暴れ回る」

 口端を上げて、史郎は笑った様に見えた。

 ベッド脇に置かれた棚には花瓶など置いては居なかった。そんなものを置いてはこの病院では簡単に凶器にされてしまうのだ。

 外套を脱ぎ近くにあった椅子に投げ付けた史郎は、その何も置いていない小さな棚に尻を預けた。軋む音が離れた場所に立つ千紗にも聞こえてくる。

「伊沙子、戸を閉じろ。寒くていけない」

 引っ切り無しに吹き込む風が千紗の背中から吹いてくる。震える指で、外界との接点を閉ざした千紗は泣きそうな顔で史郎を見遣った。

 表情を崩す様に史郎がそんな千紗を見て表情を緩める。その姿は妹を想う兄にも、愛しい女を気遣う男にも見えた。眩暈がする。

「……私が」

 懺悔するように史郎が吐く。千紗は外套の中で強く手を握り締め、ひとりの名前だけを呼び続けた。

(怖い。怖いよ。怖いよ、桐野さん)

 助けを呼んでもここにはもう誰も来ない。自分一人で出来るのだと豪語した口が今更何を云うか、もう既に後悔をし始めている。一歩、後ろに逃げた踵が簡単に出口へとぶつかった。

 そんな千紗を史郎は重く苦しい視線で捕らえて仕舞う。容易に巻き付いた鎖が、千紗の足首を拘束してここから逃げ出すのは赦さないというのだ。

「私が父上を斯うしたのだ。お前を嫁に出すのだと云うから、私が……父上の心を壊した」

「でも……だって妹じゃ」

「知って居る」

 呵々と愉しげに史郎は笑った。当たり前なのだとでもいう風に、今更何だ、という風にも聞こえた。

「お前は二年前にも然う云ったな。兄として私を愛しているのだけれど、男とは愛せないと」

 史郎は腰を上げた。ゆらり導かれるようにして、戸を背にした千紗の傍へと寄ってくる。

「妹としてでは駄目なのか、と云ったな」

 逃げ場を探してうろついた眼が捉えたのは、背中で閉ざしている扉だった。身を翻した千紗の背中に気配が近づく。

「血が其れを赦さないのだと」

 取ってを掴んだ千紗の手首を、痛いほどに史郎の指が食い込んで拘束する。

「だが……其れが如何した」

「嫌」

 首を振る千紗の首元に顔を埋めて、史郎は低く笑う。

 擦れる鼻に背筋に寒いものが走って、千紗は叫び出したいのを必死で堪えた。手首から史郎の指が腕にかかる。振り払おうとも軍人の力に、千紗が敵うはずもない。まるで鉄の楔に打ち付けられたように、扉に押さえつけられて動かないのだ。

「嫌、止めて……っ!」

 身を捩って叫ぶ。振り返る先には白い布団で眠る伊沙子の父親の姿が見えた。向かい合った史郎に、千紗は顔を上げる。どうにもならない失望感に涙が零れ落ちた。

(伊沙子さんはこんなことまで心に隠し持っていたの……?)

 いっそ狂って仕舞いたい、いっそ壊れて仕舞いたい。逃げ出すことすら叶わないのであれば、そうやってここから逃げて仕舞いたい。猫先生の役に立てるのならもうそれだけで死んでもいい。そう願ったのは軽い気持ちじゃなかったのだ。

 誰かに連れ出して欲しかったのだろう。それか、誰かに命令して欲しかったのだ。―――死んでしまえ、と。だからこそ、久美子の言葉に笑みを浮かべ伊沙子は身を投げた。

(本当に……? 本当に伊沙子さんをこの時代に連れ戻していいの?) 

 それが一番いい道なのだと思っていた。先生との恋を貫けば、伊沙子は幸せになれるのだと千紗は思い込んでいたのだ。でも、そんな簡単なことではない。もっと複雑に糸は絡み合っている。

 千紗の腕に容赦ない力がかかって、骨が軋む音がした。痛みに千紗の視界が大きく歪む。悲鳴を漏らそうと開いた口から、もどかしい呻き声が零れ落ちた。

 地を這う低い声が耳を蹂躙する。

「私の手を振り払って、次は誰のところに行くつもりだ」

 息が耳に触れた。千紗は言葉にならない金切り声をあげる。

「あの男か……それとも金田の道楽息子か?」

「……行かない! 行かないです、何処にも行かない。嫌、お願い離して……っ!」

 千紗の懇願を、史郎は鼻で笑う。冗談でも言っているかのように、聞き流してしまう。

「然うやって、お前はいつも勝手に飛び立つのだ」

「いやぁあ!」

 千紗は頭に走った痛みに次こそ引き攣れた悲鳴を上げた。

 後ろに一部おろした髪をねじ上げるようにして、史郎は扉に千紗を押し付けたからだ。持ち上げられた足がつま先だけ床に触れて、千紗はその圧迫感から逃れようと、思わずベッドの眠る顔へ手を伸ばす。

「……た」

 持ち上げられた顎を、首を振って逃げた。

 史郎の背中向こうにまるで呼吸すら忘れているような顔で、伊沙子の父親は眠り続ける。千紗の伸ばした手の向きを見て、史郎が顔を歪めた。

「た、助けて……、助けて、助けて……! 助けてお父様ぁっ!」

 咽喉が潰れそうなほどの大声で、千紗は手を伸ばし叫んだ。

 半狂乱になって振り回した腕の向こう側で、眠っていた病人が蠢く姿が見える。布団が下に零れ落ちて、病室の中に饐えた臭いが広がった。ベッドが激しく軋み、呻き声が漏れてくる。

 背中向こうで、激しいノックの音が聞こえた。看護の人間が来たのか、開かない戸に注意喚起させる言葉を叫びながら右へ左へ取っ手が回される。

「……父上」

 起き上がり意味不明なことを叫び始めた父親を感情も無く一瞥し、憎々しげに呟いた史郎は、震える千紗の背中を戸の向こう側へ押した。障害物の無くなった戸がそれだけで激しく開け放たれ、外界へとあっさり繋がる。

 足が恐怖で動かない。そんな千紗を突き出すようにして部屋から押し出し史郎は「詰所で待って居ろ」とだけ言った。

 目の前で閉ざされた戸の向こう側で、何人もの人間が叫び宥める声が聞こえてくる。心配げに寄って来た看護師らしき女性が、ひとりで行動するのを容認するわけにはいかないことを千紗に伝え、震える千紗の手を取った。

 最後に「逃げるなよ」と史郎は言ったのだ。

 逃げたくとも叶わないことを、今更ながら千紗は思い知っていた。

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