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明治逢戀帖  作者:
第七章 貴方ヘ綴ル声
43/61

「お手紙ありがとうございます。

 手紙なんて書いた覚えがないので、変なことばかり書いてしまったらごめんなさい。手紙を受け取った桐野さんをがっかりさせなければいいんですけど。

 今、伊沙子さんの部屋でこれを書いています。部屋の外には史郎さん(伊沙子さんとしてお兄様といつもは呼んでいるけれど手紙ではこう呼ぶことにします)の付けた私の担当の人が見張りのようなものをしています。先日、ここから逃げ出した時、窓枠を伝ったり塀をよじ登って飛び越えたので流石に用心してるみたいです。

 あ、違いますよ? あの時はどうにもならなかったのでそういうことをしましたが、本当の私はそんなはしたないことはしません。本当です。

 でも手紙って緊張しますね。実は今書いているのは三度目です。二度破り捨てちゃったのですが、伊沙子さんの引き出しを勝手に漁ってしまいました。字が間違っていたらごめんなさい。桐野さんのことだから赤いペンで間違ったところとか直してまた送り付けて来そうなんですけど、そういうのは止めて下さいね。落ち込んで手紙が書けなくなると思います。別に脅しているわけじゃないですよ。

 夜会から戻って、史郎さんは私を部屋に押し込むとそのまま和館に戻ってしまいました。なので今日で二日になりますが、何も進展はありません。

 一応、今晩話してみようと思います。でも大丈夫だから何も心配しないで下さいね。

 桐野さんには史郎さんの件も含み迷惑をかけています。もし何かあったらきちんと話してくださいね。私からも史郎さんに言ってみます。絶対に隠さないで下さい。

 桐野さんが気にしていた足の傷はもう血も出ていないので大丈夫です。もうあんな無理はしません。

 あと、もし桐野さんが良かったら私のことを千紗と呼んでくれると嬉しいです。いつもお前とか言って入るので、もしかすると私の名前を忘れているんじゃないかな、なんて思ってたり。

 とにかく私は私の出来ることをやってみます。金田さんから桐野さんの小説が出来上がりそうなことを聞きました。きっと素敵な話なんでしょうね。いつか、読むのが楽しみです。千紗」



 桐野は美しい仕立ての便箋を元の様に丁寧に閉じると、そのまま珍しく主人の居ない紫檀の文机の上に置いた。小さく嘆息すると、縁側で日向ぼっこをしている猫の背を撫でる先生に顔だけを向けた。

「先生」

「僕と参商君が此処で話合って如何なるのでしょうか? 空の盃で献酬するようなものですよ、実に意味がない」

「屁理屈はいいのです、先生」

 桐野は拳を付いて顔に倣い体も向き直した。今日の桐野は袴の書生姿だ。長丁場を覚悟の上で動きやすい姿を選んだ。着流しでは秋の夜の寒さの中、体に障る。

 桐野の声に驚いたのか、猫が抗議の声を上げて縁側から飛び降りて庭向こうへ消えた。先生は其れを惜しいとも思わずに、逃げるがままに任せている。むしろどうでもいいようにも見えた。

 庭だけを見るならばなんらいつもと変わらない和やかな秋の昼間だ。射し込む日差しにはまだ温かさも残り、強くもない風に枯葉の混じる葉が舞い散ってくる。然し、その穏やかな空気の中何かがおかしい。

「先生、僕は貴方を尊敬して居るのです」

「僕は君に尊敬して貰うほどの人間では有りませんよ。利己的で、自分勝手な実にくだらない人間なのです。僕に夢を抱くのはお止めなさい」

 桐野の知る先生はどこか厭世的でありながら、掴みどころのない穏やかな人間であったはずだ。それがどうしたことだろう。別人のように頑固に、伊沙子に限っては拒絶の意思を見せる。

「君に伊沙子さんの何が分かるというのです? 僕を慕っていたと言いますが、それを参商君、君が伊沙子さんから聞いたとでも言うのですか」

「だから、遺した日記があると言ったではないですか。先生は其れを見ずに彼女の気持ちを疑っているのではないですか?」

 桐野も負けじと、先生に食い下がった。会話が噛み合わないのを、千紗ではなくても桐野もまた感じていた。

「其の日記を彼女は僕に見せて欲しいのだと、頼んだのでしょうか? 誰かに託し、僕に伝えて欲しいとでも?」

 桐野は口ごもり俯いた。

「いえ」

「其れでは、その日記の中は僕の物ではなく彼女の心のものだ。受け取るべきではない気持ちを僕は受け取るわけにはいかないのです」

「然し」

「其れが伊沙子さんの意思だ」

 真っ直ぐとした先生の視線が桐野を射抜く。縁側から入ってくる日射しを背中から受けて、桐野には先生の表情が半分も読み取ることは叶わなかった。

「然し……!」

「僕は其れに背きたくはないのです、参商君」

「……ならば」

 力なく握り締めた指先が、紫檀の文机の下に敷かれた絨毯の短い毛を刈り取っていく。嗚咽するように桐野は声を吐いた。

「ならば、彼女は如何なりますか? 築くべき未来を失って、存在を維持することは叶わないのですよ」

 手の甲が血の気を失って白くなるほどに拳を握り締めた。

「彼女こそ巻き込まれた一番の被害者ではないですか。その未来の礎となるべき先達の僕らが、総てを奪い取って何になりますか。先生はきちんと向き合うべきだ!」

「僕に何をしろというのです」

 激高した桐野に対し、先生の反応はすげない。いつもの笑顔をひとかけらも見せずに、顔だけをこちらに向けている。声にはむしろ微かな呆れまでも感じられた。

「千紗君の中に居ると君らが言う伊沙子さんに呼びかけたら如何にかなるのですか? 彼女に今更愛戀の情を持っていたのだと言って、兄上を裏切れと言うのですか? 桂木の家を飛び出して、何もかもを捨てろとでも?」

 先生は僅かに唇を歪めているようだった。

 桐野は初めて見たそんな先生の剥き出しの感情に、震えが止まらない。

 文机の上には埃が積んでいた。読んだ様子もない本が奥に山積みになって居る。先生もまた苦しみ悩み、この答えを出していることも桐野は今また思い知らされているのだ。

 道が見えない。桐野は自分の原稿を思い返しながら、声なく俯いた。

 ここで金田が居たのならば、もっとうまく先生を説得できたのだろうか。桐野は考えて、その逃避の考えを一蹴した。彼の人はそんな口八丁で動くような人間ではなかった。

 先生はそんな桐野の動揺を見抜くように達者な口を開く。まるで質問の答えをあらかじめ決めているかのように、彼の人の台詞には澱みがない。

「其んなことを出来るのならば、伊沙子さんは悩まなかった。逃げ出すことが叶わないからこそ、彼女は悩み苦しみ、僕への想いを封印したのです。僕は今更其れを掘り返したくはない」

「然し、それでは……!」

「ええ。千紗君は屹度、消えてしまうのでしょうね」

「……っ!」

 残酷なことを言った割に、先生の方が傷ついたような表情をしていた。桐野は咎める言葉を見い出せず、声なく奥歯を噛み締めた。

 嫌な汗が噴き出る。長く切っていない爪が手のひらの中を傷つけているのが分かった、皮を破り肉を抉り取る。それでも握り締めるのを止めることは出来ない。

 これくらいしか、痛みを分かち合うことが出来なかった。先生も伊沙子も、そして千紗もまた傷つき苦しんでいるのに、桐野はその円の外側に立って居るだけなのだ。

「……先生は伊沙子嬢のことしか、考えておられない」

「君もまた、千紗君のことしか考えていないではないですか」

 やっと桐野が出した言葉に畳み込むように、先生もまた言った。

 先生は縁側から立ち上がり、中へと入っていく。俯き屈みこむ桐野の横を無言で通り抜け、書棚の上から小さな文箱を下した。どれだけ触って居なかったのか。下した箱の上から沢山の埃が舞い散るように落ちてくる。

 静かな声が桐野の頭上から降ってくる。

「僕は、長い間伊沙子さんを見てきたのです。もちろん、愛戀の情ではなく僕たちの関係は先生と生徒としての認識でしたが。其れでも参商君。君が言うよりはずっと理解して居るのですよ」

 開いた箱の中に綴られた伊沙子の声、愛らしい封に包まれた流れるような文字は何処となく丸みを帯びていて、千紗の文字に酷似していた。

 箱をひっくり返した所為で、ばさりと文机の上に其れが落ちる。

「これが……僕へ向けられた彼女の心の総てだ」

 先生は半ば憎しみまでも混ざったような視線で、封の山を見下ろした。

 突然絶えた手紙は英吉利から帰国するまで止まってるのだろう。帰国をした先生に伊沙子からの手紙は来なかったのだ。

 その気持ちの先は総て、伊沙子の日記の中に封じられているのだから。

「此れ以上も、此れ以下もないのです」

 愛おしげに先生は手紙を見下した。まるでそこに伊沙子が眠って居るかの様な哀しげな視線が、桐野の胸を打つ。

「僕と伊沙子さんの物語は……ここで終わりなのだから」

 山になった文机から、一通の手紙が絨毯に滑り落ちた。美しい絵が描いてある。雪の降り積もる枯れ木に見えた其れは、哀しいほどに花弁が散っていった桜の木なのだった。

 桐野は混ざり合う千紗と伊沙子の手紙を見遣って、強く目を閉じた。

「では僕は……僕は未来も返すことが出来ずに、何も出来ない愚か者では有りませんか!」

「未来を戻したとて、千紗君と結びつくのではないのでしょう? 結局は離れていく運命のであれば、戻った先で消えようとも関係ないでは有りませんか。君と千紗君の未来はないのですよ」

「然し……僕は其れでも良いのです」

「参商君」

「其れでも構わない。僕が居ない場所で幸せになるのならば……我慢も出来ましょう。然し、彼女の何のことのない其の先が失われることだけは我慢ならないのです」

 桐野は絨毯に額を押し付けた。

 長い髪が乱れて床に広がる。情けないことをしているという実感は桐野にもあった。逢って長くもない女にここまでしてやる義理もないのだということも考えた。

 それでも斯う云うものは理屈ではないのだ、そう金田が頭の中でせせら笑う。気付くと堕ちてのめり込んでいくものなのだ、とも継いだ。

(ならば……僕は、思うがままに動くまでだ)

 握りしめる拳を解いて、絨毯に手を広げる。血の滲み出した手の平がぬるりと言った。

「せめて、伊沙子嬢の日記に目を通すことは叶いませんか? 先生が其れを見て、どう判断するも構わないのです。せめて……隠した伊沙子嬢の想いを先生が知って頂けるだけで」

 叩きつけ過ぎて、額に擦れた痛みが走った。

「彼女が僕と擦れ違うまま、未来に帰ってしまうのだとしてもそれが運命なのだというならば僕は甘受しましょう。僕と繋がることは叶わなくとも、いつか遠い未来に僕の足跡を彼女が見つけてくれさえすれば……僕は其れで十分なのです。僕との未来が無くとも構わない」

 間抜けな姿だと桐野は思った。情けなくて、こんな姿は誰にも見せることなど出来ないだろう。

 其れでも父を失って夢を失い、総てを諦めたこの身に宿るものなどあっただろうか、と考える。有り得ないことだと一蹴せずに、こんな馬鹿げたことをしている自分を笑いながら桐野は誇りにも思う。

(金田君はそら見たことか、と言うのだろうな)

 有り得ない自分が顔を出す。たかが女ひとりに土下座をし、恥も外聞もなく懇願をするのだ。決して結ばれないたかが愛戀の為に。

 桐野は一度顔を上げると、暗い顔をして見下ろす先生を見上げた。

「どうか、先生」

「……君は其れで本当に良いというのですか? 伊沙子さんを選べば、千紗君は―――」

「其れが彼女の意思なのです。先生が言われるように、僕も彼女の意思を尊重したいのです」

 先生は小さな声で「君もまた、僕と同じで馬鹿なのだね」と言った。額を再度床に擦り付けた桐野の腕を掴み、先生が引き上げる。

「明治の男がそんな簡単に頭を下げるものでは有りません。参商君」

 次に来るときは日記を持ってきなさい、と言い残すと疲れた様子で先生は階段を上がっていった。

 静かになった縁側に戻ってきた猫が、温まった日向に戻って来て丸まると大きな欠伸をする。風が吹いて、落ち葉が散った。

 桐野は顔を上げて、何故か大きく顔を歪めた。先ほどまであった高揚感は消え失せて、ただ残るのは少し先で迎えるだろう喪失感だけだった。

「…………千紗」

 微かな声は秋空に消えた。

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