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明治逢戀帖  作者:
第七章 貴方ヘ綴ル声
42/61

「謹啓。

 僕が書けと言ったのだから僕から先に出すのが礼儀なのだろうと思って筆を取った。斯う云うものを書くのは初めてなので、拙い文は如何か赦して呉れ。

 お前、と文字にして連ねるのは如何も抵抗が有るので、手紙では君と書くことを了承して欲しい。然し、本当に書き始めると何を書いていいのか悩むものなのだな。

 君はまだ金田の家に居るのだろう。金田君から連絡が来ない所を見ると、彼が総て上手く取り計らってくれるものだと安心して要る。あゝだ斯うだと言いながら、僕は奴のことを一応は信頼して居るのだ。然し、此の件は奴には漏泄しない様に。金田君を調子を乗らせては正直、後々が面倒だ。君もその件は会って短いながらも了承済みだろう。

 僕は君たちと別れてから、折り返し本郷の先生の家へ身を返した。彼の人の門は未だ閉ざされては居なかった。不用心甚だしいものだ。

 少し話してはみたのだが、先生は徹頭徹尾無関係の方針を貫くおつもりらしい。君と伊沙子嬢の意思なのだと言っても、珍しくはあるが子供のように感情的に言い返す有様でお話にもならなかった。然し、気にしないでくれ。先日口にした通りに先生の件は僕が何とかしよう。

 君はあくまで桂木の家だけを念頭に置き給え。此処からは君の意思が必要なのだ。君の未来を創るためだ、逡巡してはいけない。優先するものを互いに念頭に置こう、ならば屹度道は開けるだろう。

 金田君に僕の気になる件を幾つか書き記しておいた。良ければ君から金田君へ渡して欲しい。

 正直、金田家に滞在している間は、金田君へ手紙を書けば君に渡して呉れるのだと云うことは分かって要るのだ。其れでも、あくまで君へ手紙を出すこと赦して欲しい。只の僕の我が儘だ。

 尚、返事は君が気の乗った時で構わない。先日言ったように余り深く考えずに筆を取ってくれ。敬白」



 遠くに史郎の姿を見つけて、千紗は背を伸ばした。

 借り受けた山吹色の銘仙、裾には紅葉が散っている。秋の設えの物をわざわざ金田は見繕ってくれたのだ。かもじを付けてまで結い上げた髪は髷を捩じり乍ら結い上げる複雑なもので、千紗が口に出すまでもなく金田ともう一人の手によって決められたものだ。

 きりりと上げた髪に背筋が伸びる。怯えて逃げ出してしまいそうでも、現代ならいざ知らずこの明治時代には逃げ場などないのだ。

「済まないね、姉の古臭い着物など着せて仕舞って」

 金田が千紗の耳元で耳打ちすると、大きく踵を叩きつける音が聞こえた。辺りの着飾った紳士淑女がどこから来た音かと首を傾げるが、まさかその原因が千紗の横に立つ妙齢の貴婦人からだとは思いもしないだろう。

「春樹さん、お口が過ぎますよ」

「那美子お姉さまこそ、健脚で何よりだ。御歳を召しても変わりませんね。手が早い、いや、足が早い」

「おくちがすぎますよ」

 那美子は美しいローブデコルテを纏って扇で口元を隠した。慎み深く見える仕草も何のことはない、その向こう側で金田を罵る声が聞こえてくる。

(……仲いいんだな)

 千紗は一見連れ歩くには眩いほどの二人に囲まれながら、その緊張感の無さに苦笑した。

 本郷で先生の家に出入りしていた那美子は、金田の姉なのだという。今朝になっていきなり夜会に行くのだと言い出した金田が連れてきたのが那美子だった。

「我が不肖の姉上は、婚約者から逃げ出したのだ」

「あんなぼんくらに嫁ぐことなど出来ますか、春樹さんが代わりに嫁げば宜しいのです」

「斯う云うことを言うから嫁き遅れるのだと思うのだけれどね、自覚がないのだよ」

 そう言い終えた後、金田が短い吐息ついて腹を押さえた。那美子が千紗に向き直る。

 首筋から肩まで剥き出しになったローブデコルテはミセス・ビンセントという店で作られたものなのだという。黒のベルベットで作られたドレスは、明色で首元が詰まったドレスが多いホールの中で一際目立っている。千紗の物よりも濃い色の紅を引いた唇が不敵に笑った。

「それならば私、嫁き遅れで宜しいわ」

 那美子は千紗の前に立ち、代弁するかのように言う。ただし、顔はよそ行きの笑顔のままで周りの人間からしてみれば楽しそうに歓談しているようにしか見えないのだろう。それがこの姉弟の怖いところなのかもしれない。こういうことに慣れているのか物怖じしないのだ。

 但し、金田の女性不信と恐怖症が半分近く原因が姉であることだけは千紗にも良くわかった。

「お父様も春樹さんもそうやって金で手に入れた地位に酔いしれて居れば良いのよ。いつか寝首をかかれたら私、酒瓶を片手に笑ってみせてよ」

「失礼な。僕は金で地位を買った覚えは有りませんよ」

「地位を得るまで好いだけ金をつぎ込んでおいて、どの口が言うのかしらね。さっさと寝首でも掻かれてお仕舞になって」

「これ、斯うやって父上と喧嘩して家から飛び出したのだ。しかも、僕を餌にして、僕を独り立ちさせてくれたお礼なのだと先生のお世話をするために本郷に住み着いて仕舞ったのだよ」

 仰々しく首を振ると嘆息する。

「千紗君、斯うやって見ると君も伊沙子嬢も実に聞き分けのいい方だとは思わないかね?」

「……はぁ」

「だから、もっと君たちは我が儘になっても良いと思うのだよ」

 史郎に向き合うことだけで、ただ頭が一杯だった千紗は悪いと思いながらも生返事をして、次に戻ってきた金田の言葉で不意に顔を上げた。

「自分のことだけを考えたらよいのだ。家や血や、其んなことばかり考えるから迷うのだよ」

 横を見た金田は、既に視線を史郎の居る奥へと向けている。

「何も君が総ての責任を感じることはない。先生と伊沙子嬢然り、桐野君然り、いつしか運命の思うがままに物事は転がっていくのだろう。誰がどうだという結果は考えず、今はただ必死に前へ進めばよいのだ。君は―――」

 千紗の背中を軽く金田が押した。勇気がなくて、足を進めることが出来なかった千紗はそのたった一押しだけで人ごみの中へ足を踏み出す。

「伊沙子嬢ではない。今は千紗君なのだよ。其の淑女とは決して言えない図太さで、無い道でも掘り進む気概を見せたら如何かね?」

 千紗は小さく頷いた。


「史郎お兄様」

「来たか」

 千紗が震える声で呼びかけると、既に近づいているのに気づいていたのか。史郎は手にしたグラスを近くのテーブルに置き、顔を上げた。身を纏う漆黒の燕尾服は鍛えられた体をより威圧的に見せている。俯かない様に必死な千紗を射竦め、今にも吊し上げそうだ。

 そんな今にもここから千紗を連れ出しそうな史郎の様子に気づいていない振りで、金田が軽い調子で「やあ」と手を上げた。まるで旧友にでも会ったかのような馴れ馴れしさだ。

 声を聞いた史郎は千紗の手首を引き、そのまま自分の横に引き寄せた。着物の裾を気遣って千紗はされるがままに任せるしかない。

(……痛いっ)

 小さな悲鳴を上げそうになるのを、周囲の目を気にして千紗は唇を噛むと耐えた。史郎の指が手首の骨に食い込んでいる。容赦をする気はないようだった。

「君の妹君を我が家に招待していたよ。父上がいつに遊行中なのでね、姉と二人きりの晩餐は避けたい所だったのだ。実に助かった」

「金田君は物事を強引に進めることが有るのだな。責めて言づてでもあれば良かったのだがね」

「なあに、もう伊沙子嬢は大人なのだ。君に如何斯う云われることもあるまいよ」

「妹は四か月後に結婚式を控えているのだ。然う云う醜聞は出来るだけ避けたいのだけれどね」

「然うだろうね。君の爵位継承も近いのだろうし、御父上の具合も芳しくはないのだろう? 聞き及んでいるよ」

 剣呑な空気が辺りに蔓延して、いち早く異変を察知した辺りの客が数名グラスを持って移動した。

 華族会館と呼ばれるこの屋敷は、過去鹿鳴館と呼ばれていた。

 飾り天井の上からはシャンデリアがぶら下がり、秋もさ中だというのにこの暖かさは暖房設備が充実しているからだ。四百人は入ることが出来るのだというホールにはヨハン・シュトラウスの歌劇「こうもり」が演奏されている。

 ただし演奏されていても聞き惚れることもなく、銘々が話に夢中なのだ。我関せず、慈善事業を名目に集められた夜会ではなんら可笑しなことではないらしい。

 二人の物騒な会話も、足を止めて聞くこともなくただ流されているようだ。舞台に乗った人間だけが、ただ慌てふためいているだけだ。

 手首の痛みに耐えられなくなった千紗が僅かに手を引くと、それを許さないかのように腰を引き寄せられた。既に兄と妹とは思えないその仕草に、千紗よりも金田が目を光らせる。

「なんとこんな仲睦まじい兄妹愛ではお相手の方が嫉妬してしまうのではないかね。実に悩ましい、英文学の何とやらに然う云う本があったような気がするのだが、とんと思い出せない」

「たかが中学の英語教師が偉そうなことを。此れは桂木の人間だ。金田君に言われる筋合いはないだろう」

「確かに其れは然うだろうね」

 呵々と金田は笑った。笑ったままで楽しそうに口を開く。

「だが、君、犯罪はいけないよ」

 さらりと言った金田の声に、史郎は眉を上げた。千紗を寄せる手に力が入ったのが分かった。

 千紗の胸が跳ね上がる。千紗がまた桐野と会うのであれば、史郎は容赦しないのだとは聞いていた。それでも今回はまだあの道化のような男装で気づかれていないのだと思っていたのだ。それが浅慮だったのかもしれない。

「ほうら。あの、入口に立って居る男が見えるだろう」

 金田は首だけでホールの入り口を見るよう促した。先ほどまで一緒にいたはずの那美子とまるで一対の様に立って居る影がある。長く伸ばした髪を無理やり整えられ、いつものどことなくだらしない恰好は何処へやら、紳士然した桐野だ。

「然うだ。あの、今にも君を殺しそうな目をして此方を睨んでいる男だよ。ああ、余り彼を見ない方が良い。今でも十分に腹に据えかねているのだ。君がもう少し度を超えて伊沙子嬢に触れると、あの男は醜聞も恐れず君に立ち向かってくるだろうよ」

 腕を組み、こちらを見ている桐野から明らかな怒気が見える。本当に金田が言うほどのことを考えているのだろうか。

(こっちを……見てる)

 視線が千紗を絡め取る。駆け寄っていくことはもう赦されないのに、千紗の胸には今にも史郎のそばを逃げ去って桐野へ駆け寄りたい衝動がやって来る。

 金田は気分よく話を続けた。史郎の怒気にも気づかないふりを徹するつもりらしい。

「彼は僕の家の大切な書生なのだ。新聞社に寄稿する小説もそろそろ書き終え、新聞社に晴れて入社することが決まっている。君の如何でも良い嫉妬心で、僕の大切な友人と遊ばないで欲しいのだよ」

 金田が腕を組んだ。本当に金田の行動の何もかもが芝居地味ている。

「君が彼に向けた「お友達」は無事に送り届けて貰えたかね? ああ見えて、彼は腰抜けではないのだ。なにせ、この僕が授業で負けた唯一の人間なのだからね」

 彼に負けてからというものは誰とも勝負をしていないが、と金田は肩を竦めた。

 そして、ふと声色を落とす。

「いいかね、史郎君」

 今までの話の流れからまるで信用できない、表面上は一応人懐っこい笑みを浮かべて、史郎の肩を金田は軽く叩いた。

「次は無いと思いたまえ」

 史郎の横に立つ千紗からは、金田の指が史郎の肩に食い込むのが見えた。

「伊沙子嬢の件では僕も口を挟むのは心外だが、其れと此れとは話が別だよ」

「……金田の家は以降、口出し無用と云うことかね」

 金田は一度、千紗を見下ろした。気遣うような視線に千紗は小さく頷く。

(大丈夫、ここまでしてくれたんだもの。桂木の家は何とか自分でして見せる)

 最重要なことは伊沙子が桂木の家から出ることにある。それを桐野と金田から聞かされた時、千紗は出来るのだろうかと正直不安だった。タイムリミットは伊沙子と千紗の誕生日までの残り四か月弱、それまでに千紗は伊沙子と先生が未来を創る礎を作らなくてはいけない。

 身分違いの人と恋に落ちて大変だった。そう祖母は千紗に言ったのだ。失われた記憶が断片として戻ってくるということは、それが千紗の次の行動を指示しているのだろう。

 千紗は伊沙子として、このまま四か月後の結婚式を無事迎えるわけにはいかないのだ。

 千紗の力強い眼差しを見て、金田も心が決まったようだった。崩れる様に笑うと、二度史郎の肩を叩く。

「今後、僕如きに何が言えようか。君の家のことだ、自由にやり給えよ。然し―――」

 金田は史郎に寄り添う千紗の腕に触れるか触れないかのところぎりぎりをかすめて、その手を下した。

「僕にも不肖の姉が居るのだが、女性というものは得てして繋ごうとすると逃げていくものだと思うがね」

 鎖は長ければ長いほうがいい、と金田は言葉を締めた。

「熟慮しよう」

 千紗の腰に回っていた手が、そのまま手首を拘束して千紗をホールから引き摺り出した。

 横を通る一瞬だけ、桐野の歪んだ視線が千紗の顔を見遣る。伸びかけた桐野の手は、そのまま宙に留まり千紗の知らない所でぱたりと落ちたのだろう。

 史郎と共に華族会館を出た千紗には、見る術はなかった。

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