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ふと女の啜り泣きが聞こえたような気がして、桐野は握った愛用の万年筆を止めた。
耳を澄まし辺りを探っても、夜風が隙間から滑り込む音だったのか、それ以降は何も聞こえない。短く嘆息するとインクの入った割れ皿に筆先を付け、再び作業に集中する。
額を紙に擦り付ける様にして顔を近付けて、桐野は文字を書き連ねていた。
那美子に借り受けた瓦斯燈は古く、あまり状態のいいものではなかったらしい。小さく朧げな光が壊れかけの長屋の壁を映し出し、さながら自らが物悲しい物語の語り手にでもなったかのようだ。その薄ら寒さを助長するように隙間風が引っ切り無しに壁板の間から吹き込んでいた。
垂れ下がった前髪が、風に煽られて揺れる。
「斯う云う場所で話すとしたら……怪談だろうな」
独り言ちた桐野の声も何処となく弱弱しい。
桐野は脇に置かれた小さな筆記本に視線を落とした。美しい装丁の表紙はどこぞの洋本を思わせる。然し何のことはない、この中身は重厚な物語ではなく日記なのだ。
しかも前半十数枚に書き込みがあるだけで、その後半の殆どが白紙のままだった。
書き込むべき人は今や、ここには存在していない。何もかもを不意に投げ出し、未来の人間に総てを託しと雲隠れをしてしまったのだ。
「馬鹿げたことを」
桐野は嘆息しつつ、投げ遣りに、ぼそり吐き捨てた。
「馬鹿げている」
言い聞かすようにもう一度言うと、桐野は伊沙子の日記から目を背けた。
それでも馬鹿げたこととという言葉だけで切り捨てられない何かも、確かに存在していた。
本郷に発つ前、金田に手渡された日記を読んでみて桐野ははっきりと思い知らされた。ただ道端で救っただけの桂木 伊沙子なる人物は桐野と全くの無関係では無かった。日記に綴られた見知らぬ女の文字、伊沙子は先生を介して桐野と下谷で繋がっていたのだ。
これを運命と言わずして何というのか。
慣れない筆先が、安物の紙を引っかけてインクの染みを作った。
本郷の先生の家でつい先日まで滞っていた女の話を、今は他人事だとは思えなかった。身分違いを嘆き、絶望し身を投げる物語はそのまま伊沙子の姿に被る。浮かんだ物語の構想はすでに書き始めて数十枚に渡っていた。それから何度も書き連ねてみても、何処となく苦しく絶望し追い込まれる話になってしまう。
この物語は現実なのではない。きっと書き直そうと必死なのは桐野の自己満足なのだろう。それでも自分で納得出来なかった。
「ああ、また駄目だ……!」
それでも何故なのか一番重要な物語の締めだけが思い浮かばない。最後に書き込んだものを結局破り捨て、桐野は両手で髪の毛をかき混ぜた。
頭から下した指先がインクで汚れている。寒い部屋のせいで、外套を着ているというのに手も体も総て芯から冷え切っていた。然し寒いのは体か、心か。
片膝を立てたいつもの恰好が妙に落ち着かないのは、先ほど千駄木の門の奥へ消えた千紗が未だ戻ってこないせいもあるのかもしれない。尻に敷かれた蓆は中が暗いことあって何となく黒ずんで見える。
桐野は再び、筆先を紙に擦り付ける。暗闇のせいで目が霞んだ。その違和感を消し去ろうと、必死に紙の束にしがみ付く。ここで逃してしまうわけにはいかない、筆を置いて仕舞えばきっと物語も終わるのだろう。
「死なせたくはない……死なせたくはないんだ」
それなのに物語の主人公である伊沙子にも似た女は頑固に死を選ぶ。総てに絶望し何もかもを投げ出し、身を投げてしまう。その度に桐野は紙を破り捨て、両手で握り潰し、部屋の中へ放った。
伊沙子の幸福を願うと、千紗の存在が消えていく。共に存在することは赦されない。千紗はこの時代には存在の有り得ない人間であり、部屋に迷い込んだ蝶のようなものなのだから。
ふわりふわりと飛び回り辺りを翻弄し、いつしか部屋から出て行ってしまう。
桐野は天井を仰ぎ、幸せだったと呟く女の部分を破り捨てた。
「……僕の物語は……存在しないんだ」
割り切ってしまえば簡単に伊沙子を生かすことが出来るのに、それなのに筆が進まない。日記を読み、彼女に同情する自分が、哀しい恋の物語を結実させるべきじゃないと訴える。
那美子に融通して貰った紙の束は、既に終わりを迎えつつあった。紙の上で構築する物語の最高潮は今の筈なのに、ここで終わると話は恋焦がれながらも嘆く男しか残らない。
頭の中で二人の女が向き合っている。共に同じ顔をして、指先を触れ合わせる。片方が涙を流し声なく俯くと、もう一方は涙を流しながらも唇を噛んで空を向く。
伊沙子ではきっと此の絶望の輪廻から抜け出すことは叶わない。強引に未来を切り開きたくとも、桐野の頭の中にはその閃きが下りてこない。それでも、物語を綴る主役が取り替わっても変わらなくとも、未来が開かれる時は一方の物語はそこで永遠に途切れてしまうのだ。
永遠の別れとなって。
「……嗚呼、また駄目だっ!」
思い切り握り潰した物語がまた闇に消えて行く。苛立ちまぎれに大きな音を立てたくとも、紙の球では軽く壁にぶつかるだけで気の抜けた音しか立てなかった。
残り少ない紙の束をひっ掴み、桐野は乱暴に片膝を上げ、足を床へ叩きつけた。ばさり、と紙の束が広がり、勢いで手を離す寸前に立てつけの悪い長屋の戸が開く。
闇に顔が隠れている。外套も下に纏う学生服も黒く、僅かに明るい長屋には入らずそのまま闇に消えていきそうだ。深く被った学生帽の隙間から零れ落ちた一筋の長い髪の毛が見えた。
何も言わずに、戸の向こう側に立っている。
千紗は唇だけを弓なりに歪ませて、失敗したらしい笑顔を桐野に向けた。
◆ ◆ ◆
千紗が書付のあった千駄木の長屋の軋む戸を開けると、紙の束を持って体を起こした桐野と目が合った。
狭く湿った長屋の空き部屋はどうやら長い間使われていなかったらしい。何処かから借りてきたのかガス灯の不安定な光が凹凸のあるガラスに反射して炎の様にゆらり揺らいでいる。
(やっぱり……待っていてくれたんだ)
強張っていた千紗の体から少し力が抜ける。そう言ってはいたけれど、実際に待っていてくれたことに少しほっとしていた。震える唇を少しだけ持ち上げた。寒さのせいなのか、大きな渦に巻き込まれている実感が今更やってきたのか、体が震えて仕方ない。
「お待たせしました」
頭を下げると、肩にかかったままの外套がずるりと落ちた。俯いたまま、顔を上げることもままならない。
頭の天辺に突き刺さるほどの視線を感じる。視線に促されるようにして千紗はゆっくりと顔を上げた。口はこれ以上開けない。これからどうするつもりなのかを千紗に窺うその沈黙に、千紗は明確な答えを持っていなかった。
先生は―――伊沙子である千紗を受けれることを由とはしなかったのだ。
長屋の壁板は一枚きりで所々に薄板が打ち付けてられていた。たったそれきりでこれから遣って来る冬の寒さを防ぐことが出来るとは思えない。それでも下谷の長屋には入り口の戸すらなかったのだから、ここはまだずっとましな方なのだろう。
壁に桐野の影が大きく映っている。だらりと垂らしたままの手に紙の束、周囲には埋もれそうなほどにあちらこちらへ投げ付けられた書き損じが転がっている。余程、切羽詰った状況だったのだろうか、中には破り捨てられたものもあった。
ただ立っているだけなのに、丸まった桐野の背中がどことなく先生に似ていた。
外套の中で千紗は拳を強く握り締める。学生服の袖が指先に触れて、指を動かすと爪が毛羽立った袖に絡まった。
千紗を見たままで動きを止めていた桐野が、ぎこちない動きで床に落ちたものを拾い上げた。
小さなノートのようなものだ。表紙は美しい真珠色をしている。物語の表紙を思わせるその装丁に、千紗は魅せられた。
――――――どうしてだろうか、何処となく見たことが有るような気がした。
「桂木 伊沙子嬢の日記だ。先生が英吉利から帰国した後のことが、短いけれど書いてある」
少し躊躇した後、桐野は立ち竦む千紗の顔を見て「読むのだろう?」と聞いた。
千紗は外套の中で、手を握り合わせると唾を飲み込んで頷く。
「読みます」
はあ、と深呼吸をした。
「私は読んで、伊沙子さんをもっと知らなくてはいけないと思うんです」
「金田君の元に、今日会った桂木 伊沙子の元お付き女中だったとよが置いて行った日記だ。伊沙子嬢は、あくまで先生に見せずに破棄して貰うことを望んでいたらしい」
「そう……ですか」
やはり何も先生には告げずに、伊沙子は逝くつもりだったのだ。
誘われるように長屋の部屋に足を踏み入れた千紗の前に、日記を渡すために桐野が立った。前髪が表情を覆い隠している。それなのに日記を持ってこちらに伸びる手指だけで、千紗は桐野のもどかしい感情を悟ってしまう。
千紗は、苦しい胸の内を隠そうと自らの体になった伊沙子の心臓の辺りに片手を当てた。もう一方の伸ばされた手に僅かな重みがかかった。手に乗せられた日記から桐野は指を離さない。千紗の手の平に、桐野の指の先端が当たっている。
苦しくて、千紗は僅かに下唇を噛んだ。
「本来ならば、先に見せるのが筋だとは思うのだが、僕が先に日記を読んで仕舞った」
「いいえ、構わないです」
「こんな荒唐無稽な話、有り得ないのだと思う。……けれど、お前が嘘を言って居るわけでもないと云うことは分かるんだ。分かるからこそ、やるべきことが在ってお前が……―――悪い、自分で言って居ることが善く分からないんだ」
顔を歪め、桐野は俯いた。
千紗は外套の中からもう一方の手を出した。日記を掴む桐野の指に、ゆっくりと手を重ねる。桐野の爪先にはインクが付いて、指にはペンだこが出来ていた。
(毎日小説を書き続けて、いつしか未来にも残る本を桐野さんは遺してくれる。……大丈夫、ずっと先の未来で桐野さんの「本」とはきっと逢えるから)
千紗は強張った桐野の手から日記を受け取った。
「ここで、読みます」
いいですよね? と聞いた千紗に弱弱しく桐野が頷いた。金田が頼んでいた俥が来る時間までまだ少しの猶予があるらしい。
案内されるがままに、壁際の蓆に腰かける。何も言わなくても桐野が腰かけた千紗の横に腰を下ろし、そっぽを向くと片膝を立てた。膝の上に端の揃っていない無造作に乗せた紙束を器用に押さえ付け、万年筆を持つ。
指先でインクの入った皿を近くに引き寄せると、だらりもう一方の手を床に垂らした。
それを見て、千紗は横座りをした足の上に日記を置いた。
太腿の上に置かれた日記の中に、先生にも告げなかった伊沙子の想いがある。そう思うと、さっきの頑なな先生に罵声を投げつけてやりたくもなる。
伊沙子と先生とはもう綴るべき未来が無い、そう先生は言ったのだ。
千紗はもう片方の手をだらり、床に下した。意図したわけではないのに、千紗の指先が桐野の垂らした指の先に触れる。
ここで手を引くべきなのだろう、わかっているのに千紗はそのまま動かそうとはしなかった。桐野もまた同じく触れた指先を進めるでも引くでもなく、ただ偶然に触れ合ったままにしていた。
もう一方の指だけを動かして日記の頁を捲る。日記の一頁目は雪片舞う冬だった。
凍えそうな下谷の空が重く苦しい灰色一色に染められている。もぎ取られた羽を嘆いている伊沙子が、強がりを言いながら窓際に立っている。書いた日記の隙間には、書付のような言葉やたくさんの絵も並んでいた。見慣れた現代の物、車、建物。実際に伊沙子は千紗の目を通して未来と繋がっていたのだ。
千紗の横で、はらりと膝から零れ落ちた紙が舞った。
「僕の助けが……何の役にも立たないことは自分でも分かって居るんだ」
桐野がぼそり、と口を開く。
「僕は只の……書生以下の人間で、権力も地位も何もない口先だけの男だ。男爵家の人間と、ことを起こせるわけもない」
千紗は聞いていない振りで、日記に視線を落とす。先だけ触れた指を伝わって、伊沙子のものではない気持ちが零れてしまいそうになる。
(お願い。何も伝わらないで)
そう、思わず指先に願った。
桐野は紙の束から視線を逃さずに、言い募る。
「手紙を……呉れないか。桂木の家から出すのが無理なのであれば、先日の金田君と繋ぎを取った使用人に任せて呉れても構わない。僕ではなく代理の人間が取りに行くのであれば、あの兄上も然程気にもしないだろう。暇な時で構わないんだ。別に大したことじゃあなくても構わない。……空が綺麗だとか、お前のことだから食べ物のことばかりを書いても構わない」
「……そんなことは、ないですよ」
笑いながらも不満げな千紗の声に、桐野は「そうじゃなくて」と言い澱むと万年筆を持った手で前髪をかき上げた。
剥き出しになった目をこちらに向ける。胸が騒いだ。
(初めて真っ直ぐ向かい合ったような気がする)
桐野は触れ合った指先を慎重に動かさず、言葉を選ぶようにしてたどたどしく言った。
「お前が……本当にここに居たという証拠が欲しいんだ」
息をするのを一瞬、忘れた。
我に返ってから急に胸が掻き毟られて、千紗は震える下唇を噛んだ。
(泣いちゃいけない)
そう思っても、浮き出したものを堪える様に見開いた眼から、我慢しても頬へ涙が零れてくる。伝う涙は頬から顎を伝い、首筋へと落ちていった。
触れるだけだった千紗の指先が上から包まれて、やんわりと握られた。向かい合う真摯な目が千紗を穿つ。
「お前が桂木に戻る時、金田君の家が間に入るだろう」
千紗が顔を歪めた。桐野は「心配しなくてもいい」と言葉を繋ぐ。
「華族の家には家名は遠く及ばないとしても、金田の家からなら権力もある。桂木男爵も文句は言えないだろう、屹度今回の件は深く追及されまい。僕の手の及ぶ限り、先生には説得をしてみる。伊沙子嬢の気持ちが本当であると先生も知れば、屹度お前の未来を創ることに賛同して下さるだろうと思うんだ」
「……いいです、そんなこと……もう」
千紗は首を振った。
(そこまでしないで、それじゃないと私)
涙が零れ落ちて、次々と学生服の太ももに滴っていく。
「先生ならきっと、伊沙子嬢を大切にして下さるだろう。いつか元の場所にお前が戻る時には屹度、何もかもが上手く云って居る様に僕も陰ながら手伝ってやる」
「いいです、もう……もうやめて」
千紗は桐野の後の言葉を拒むように何度も首を振った。唇が震えて歯がかみ合わない。
(気持ちが……零れてしまいそう)
だから、と桐野は千紗の指を強く握り締めた。
「僕には……只証拠だけでいい。いつか僕の知らないところで、僕の手の届かないところへお前が消えて行ったとしても……それでも僕だけに残るものが欲しいんだ」
手紙を呉れないか、そう桐野は言った。




