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「一月二十三日、神戸の港に無事猫先生が着いたのだと人づてに聞きました。
本当は神戸まで行くことが出来れば好かったのだけれど、史郎お兄様に外出を禁じられて居るの。なので、暇潰しに日記など附けてみようと思うのよ。
先日の手紙、一寸気持ちが入り過ぎて居るような気がして結局破り捨てて仕舞ったわ。考えてみたら礼儀も何もなって居ないものね。屹度先生も戸惑って仕舞うでしょう、送らないで良かったと思います。
如何して此の日記が猫先生向けなのかと云うと、手紙の様にした方が愉しくなるかと思って。別に見せようとは思って居ないので、安心為さってね。
空は厚い雲に覆われています。窓際に立って、この空が猫先生の居た遠い英吉利に繋がって居ると思うだけで少し胸が躍ります。
何時ぞやのお手紙で猫先生の仰っていた鈍色とは斯う云う色なのかしら? 図画のお勉強が苦手なのでこんなことも分からないの。屹度先生は図画の授業「も」でしょう? と仰るのでしょうね。困ったように笑う猫先生が見えるようだわ。
今は何処に居らっしゃるのかしら。
屹度、報告やなんやで忙しくされて居るのでしょうね。下谷にも行って居るに違いないわ。嗚呼、あの子たちは今此の雪の中で元気にして居るのでしょうか。暖かな部屋に何不自由もなく居る我が身が疎ましく感じます。私の此の温かさを少しでもあの子たちに分けてあげられたら良いのに。
然ういえば、昨夜史郎お兄様に縁談相手のことを聞きました。来週、お食事の席に御呼ばれしたそうなの。私はただ静かに何も言わず大人しく居れば好い、と言われました。
猫先生は、位高ければ徳高きを要すと仰いましたね。猫先生の仰るとおりに、私はお父様とお兄様の望み通りにします。此れで私如きが桂木の家に入った理由が出来るのかしら。
私の居る部屋には沢山の小鳥がやって来るのよ。小さな羽を動かして、在んな広いお空に飛び立っていける身が少し羨ましい。私の背中にはもう羽が無くなって仕舞ったの。お水にも潜れずに、お空にも行けない私は何なのでしょうね。
猫先生、私(強く塗り潰した痕が続いている)
筆の具合が悪いみたい」
「猫先生は屹度今の時間、眠って居るに違いないわ。突然目が覚めると眠れなくなって仕舞ったので、日記を附けています。大丈夫よ、一寸だけ書いたのなら眠ります。如何か怒らないで下さいませね。
今、夢を見ていたの。
何時ぞやの猫先生が下さった真珠のピンを覚えてらっしゃる? 自分には不相応だと、お国から貰った物を猫先生は下谷で会った小さな私にぽんと寄越したのよ。売ってお金にしても好い、と仰られたけれど今もまだ私の部屋の化粧台に置いて在ります。あの頃の私はまだ子供だったけれど、猫先生の破天荒さには驚いたわ。
然う然う、真珠のピンですけれどあれが夢の中に出て来たのです。不思議ね、誰か知らない御年を召した女性の手に握られて居ました。私、一寸思ったのよ。あの方が先生の奥様なのか、って。
私、最近常々思うのよ。先生もそろそろお一人は止めた方が良いと思うわ。お野菜もお肉も屹度摂っていないのでしょう? 本を片手にお口を動かしてばかり居ては、体の調子を悪くして仕舞うと思うの。
如何か、優しく素敵な方をお嫁に貰って下さいませね。
伊沙子とは違って、先生の御傍に立って居ることの出来る人を選んで下さいませね。寒い夜には猫先生の肩に羽織を掛けてくれるような方を探して下さいませね。
猫先生が幸せであることだけを伊沙子はずっと祈って居ります」
「猫先生、逢いに来て下さいな。伊沙子を此処から攫って下さいませ(一部破り捨てられた痕)」
「昨日は如何かして居たわ。取り乱して仕舞って恥ずかしいです。
何も無かったので安心為さってね。伊沙子は元気です。
連日の晴れ間で雪が融けて仕舞ったので、お部屋の窓から見える景色がとても寂しいです。如何してかしらね、雪があるだけで随分と空気が澄み切った思いがします。
下谷の子供たちも此れで少しは温かいかしら? 私が何か出来ることはないのかしら。私なんかが出来ることなんて其れとも全然ないのかしら?
猫先生に教えて貰ったしぇいくすぴあの本を史郎お兄様に取り寄せて貰いました。猫先生はあの哀しい話が良いと言いましたね。子供の私は楽しいお話が良いのだと言いましたけど、今は猫先生の仰る通りだと思います。今なら猫先生と同等に論じることが出来ると思うの。そんな機会など屹度無いのでしょうけれど。
然ういえば猫先生には私に妹が居たのをお話して居たかしら? とても美しい方です。お父様とお母様、史郎お兄様と並ぶと其れは其れはとても素敵なのよ。私、先日窓から見て居たのですけれど、夜会に向かう皆様がとても素敵で、画才が有れば直ぐに筆を握って居たと思うわ。
猫先生は私の字が下手だと仰られましたね。でも猫先生も結構なものだと思うのよ。倫敦からの最後のお手紙を読んで居ても、在んな蚯蚓が暴れたような文字は伊沙子じゃあないと読めないのではないかしら?
猫先生のお手紙なんて何時も何時も勝手なことばかり書いて、私のことなんて何も書いて下さらない。私が婚約したのだと言っても先生は如何でも良かったのでしょうね。伊沙子が誰かの物に成っても、先生は気にもして下さらない。
伊沙子が只生きて居れば良いのでしょう? お兄様やお父様と一緒だわ。
猫先生は幸せ幸せって仰るけど伊沙子は只猫先生のお傍に居ることが幸せなのよ。本当は欧羅巴にも行って欲しくは無かった(塗り潰した痕が続く)
桂木の家には何も有りません。私を大切に思ってくれる人も私の幸せを祈ってくれる人も居ないの。私の大切なものは猫先生だけです。
猫先生だけなの」
「私、思ったのよ。次、生まれ変ることが有れば猫先生みたく成りたいわ。
猫先生のように小さな子供たちを教えるの。下谷の子供たちのような沢山の子供たちに囲まれて、立派な先生に成りたいと思うのです。
猫先生は女が教師になどと笑うかしら? でも私の夢の中では其れが当たり前のことなのよ。千紗と呼ばれている私はお勉強が苦手だけれど、頑張らなくてはいけないわね。
次生まれ変ったら私、猫先生と一緒に成れるかしらね。桂木のような重い名前を以てじゃなく、普通の私として猫先生の御傍に行けるかしら? 其の時は気の利かない伊沙子ですけど優しくして下さいませね」
「不知周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与」
「窓向こうを見たら猫先生が居るような気がして、今日はずっとお外を見て居ました。
今日は着物を見てきたのよ。買って下さるですって。然う然う、私の夫になる方は長根様と云うのです。十八の誕生日を過ぎた、来年の桜が咲く前には私は長根 伊沙子と為ります」
「桜が散って仕舞った」
「猫先生、お元気かしら? 伊沙子のことなんてもう忘れて仕舞ったかしら。もう如何でも良いと思われるのは哀しいです。
私に付いて好くしてくれる、とよ、と云う子が居るのですけれど、先日無理を言って下谷の様子を見て来て貰ったのです。とよが言うには見目のみ麗しいけれど珍妙な素振りの方に会ったと言って居ました。金田さまと云うのは猫先生の教え子の方かしら?
とよから、猫先生が下谷に行って居ないことを聞きました。去年の冬は雪が多く、沢山の子供たちが居なくなって仕舞ったのですね。
苦しくなかったかしら? 痛くは無かったかしら? 屹度雪の中で抱き合って怖かったでしょうに、私はぬくぬくとこんな場所に立って居ただけなんて悲しくて仕方ないのです。
明日、長根様とのお食事の席が有るので行ってきます。
その場所で私、長根様にお願いして来ようと思うのです。美しい着物もお金も伊沙子は要りません。十八になる前に屹度消えてしまうような儚い身なのですもの、そんな無駄な物貰っても嬉しくも何もないわ。
だから其のお金を少しでも長屋の子供たちの為に使って貰えないか、頼もうと思うの。
大きくなくても好いの。小屋を作って頂いて、風の吹き込まない小さな学校でお勉強を猫先生に教えて貰いたいのよ。先生は何時ぞや仰いましたね。為さねばならぬことが有るのだと。
成らば、伊沙子はそんな猫先生の為に出来ることをしようと思うのです。位高ければ徳高きを要すとは然ういうことも言うのでしょう?
史郎お兄様は屹度怒るのでしょうね。私が下谷に行くのをあれだけ嫌がっていたのですから。
でも安心為さって、伊沙子は大丈夫です。
これで、良いかしら? 私、ほんの少しだけ猫先生の役に立てたかしら? 立てたのなら嬉しいわ。
もう死んでも良いわ」




