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明治逢戀帖  作者:
第一章 逢偶ノ刻
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 千紗の通っている高校の制服はブレザーに濃紺のチェックのスカートで、首には赤いストライプのネクタイだ。 制服を着て人ごみに紛れても、今まで浮いた記憶なんてないけれど、今千紗がいるこの場所にはきっとさぞかし目立っただろうと思う。

 でも、海老茶袴にブーツの千紗はいまやしっくりと馴染み、羽織姿の青年とここに立っていてもなんら違和感がなかった。

 目の前の青年は、取り乱して泣きじゃくる千紗に温かい言葉をかけて慰めるでも背中をさするでもなく、ただ落ち着くまで放置する気なのか、完全にノータッチだ。

 それでも泣く千紗を面倒がって立ち去るようなこともせず、千紗の気持ちが落ち着いて泣き止むまで足を止めて待っていてくれた。

 涙にぬれた顔を拭くものが見当たらずに、着物の袖をたくし上げて拭きはじめた千紗を見て、

「……っ」

 と、ぎょっとしたそぶりを見せた。

 でも、結局ハンカチなんてものが出てくることもないから、千紗は袖で涙を拭きついでに鼻までかんでしまう。

「な……っ」

 とがめるような声は聴かないふりをした。

(だってティッシュもないし)

 ティッシュどころか、今の千紗はハンカチも何も荷物ひとつ持っていない。

 少しの間しゃくりあげて、やっとのことで千紗が顔を上げると、目の前いっぱいに腕を組んだ青年の胸元があった。

「……うわっ」

 千紗は、あまりの近距離に思わずのけぞる。

 ぎろり、冷たい視線が千紗を刺した。

「何」

「……いえ、別に……なんでも」

 一瞬ぎょっとしたものの、すぐに道の往来で泣きじゃくる千紗を立ち止まるようにして周りの目から守ってくれていたのだと気づく。

(優しい……のかな?)

 まだほんの少し残っていた混乱の涙も引っ込んでしまった。

 胸がほんのり温かくて、ほほが緩む。

「…………」

 泣き顔ながら強張った顔へわずかに笑いを浮かべると、青年はそっぽを向き、軽く不機嫌そうな表情を浮かべた。

 それから数分間ほど深く思案するような表情を見せて、小さく吐息付く。

 困惑したような、思案したような、なんとなく声をかけるのもはばかられるようなそんな難しい表情。

 うっとうしそうな前髪を顔を前に垂らしたまま、それに頓着することもなく青年は洋帽に隠れていない部分をがりがりと掻いた。

(そうだよね。頼られても、困るよね……)

 それでも、千紗がすがるのはこの青年しかいない。ただ出方を窺うことしかできなかった。

 ―――それにしても長い、と思う。

 つい、時間を持て余した千紗が道の真ん中に目を向けると、都電とバスの間みたいなものが走っている。

 車輪の乗る線路はあるのにも関わらず、その電車らしきものは千紗の記憶とは違い、二頭の馬に曳かれていた。御者は鞭を持ち、後ろには人が乗っている。

 先ほど千紗の横を猛スピードですり抜けた馬車よりも、一回り小さい馬車も走っていた。

 それよりも目につくのは、人力車だ。

 千紗の記憶では人力車が道路を走っている記憶なんて浅草くらいにしか覚えがない。軽やかに馬車の通れないような狭い路地にも入っていく人力車は、天気がいいからか黒い幌をおろしている。

 乗客は華やかな着物の女と、スーツ姿の男。シルクハットらしきものをかぶっている姿は時代錯誤でまるで奇術師マジシャンだ。

 行き交う人の中には黒や紺の蝙蝠傘をさす姿が見えた。

(雨でもないのに……)

 洋風の建物は昔高校の社会見物で見に行った銀行にも似ていて、それが連なっている街並みはヨーロッパのようだ。でもどこかちぐはぐで、ぎこちなく落ち着かない。

 クリーム色の壁、赤い煉瓦。

 もしかして今千紗が立っているのは過去なのかもしれない。と思い立ったのは、やっと冷静に周りを見たからだ。

 昔の景色だと思うと合点がいく。

(昭和……、ううん。もっと前、大正時代からもしかすると明治時代かも)

 千紗の頭の中にあるその頃の知識は曖昧で、日露戦争から第一次世界大戦があったくらいしか記憶がない。

 もっと勉強しておけばよかったというのはあとの祭りで、今更何も持っていない状態で教科書のことを考えても表紙に書かれた昔の写真のコラージュくらいしか出てこなかった。

 通り過ぎるスーツ姿から男が「精工舎の腕時計が――」と聞こえて振り返ると、青年は千紗に声をかけることもなくスーツ姿の男とは逆方向にふらり、歩き出した。

 羽織を掴む指は千紗は解いていない。だから軽く引っ張られる感覚に戸惑って、千紗は一歩を踏み出せずに立ち竦んだままでいた。

 すると、指が羽織の先から離れる寸前に背中がぴたりと止まり、青年もまた立ち止まる。

「あの」

 このままついて行ってもいいんだろうか? 聞きたいけれど、どうにも勇気が出ない。

 僅かに黄みがかった薄灰色の羽織を抓んだ指は、まるでテントのように青年の背中を広げている。もしこのまま置いて行かれたら、いつか元の場所へ帰されるまでここで立ち竦むしかない。

 こんなに心細くなったのは、遠い記憶で小学校の転校の時以来なかったかもしれない。

 見知らぬ人の中に放置される不安感。それでも転校のときは先生という、安心できる先導者がいた。

 学校も教室も初めてだったけれど、受け入れる体制ができていて人見知りだった千紗でもまだ少しの時間があれば馴染むことだってできた。

 でも、

(ここは違う)

 本当に全く右も左もわからない場所だ。

 千紗は見も知らない恰好をして、知らない場所に放置されている。簡単に馴染むことなんてできない。

「……私――――」

「助けてって言ったのはそっちの方だろう。黙ってついて来い、って言わせたいの」

 振り返りもせずに吐き捨てたその背中に、ぐうの音も出ずに千紗は首を振った。

 一歩、踏み出した千紗の横を、美しい傘をかぶった貴婦人を乗せた人力車が通り過ぎて行った。

 もちろん、見覚えのない人だった。

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