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明治逢戀帖  作者:
第六章 華ニ似タ雪
39/61

「謹啓。

 英吉利の空はいつも重く鈍色で、何処となく息苦しく感じます。伊沙子さんは如何にお過ごしでしょうか? 

 連絡が遅くなって大変申し訳ない。慣れない船旅で船酔いと暑熱に苦しめられ、一度途中で下船を止む無くされたのです。然し乍ら、今は問題ないのですから心配されませんよう。

 僕は此方に到着て直ぐロンドンぶりっじに倫敦塔などを回りまして、欧羅巴の文化の素晴らしさに驚きつつ、何より物価が高いのに一番驚かされています。本一冊を手に入れるのに、僕は何食食事を我慢したら善いというのか。いやはや―――――――――(中略)

 次、貴女に逢うときには僕は屹度棒切れの如くなっているのでしょうね。敬白」


「お手紙拝見しました。いつまでもお手紙が来ないとやきもきしていたら然ういうことでしたのね。先生はもう少しお野菜を摂った方が宜しいのではないかしら? いつも本を毟り取って食べて居るだけでは、いつしかお口から糸が出て繭の中に閉じ籠ってしまう虫になって仕舞うわよ。

 今日の下谷も蒼く、子供たちも元気です。猫先生が心配されることは何もありません。

 然ういえば、先日可笑しな夢を見たのです。奇天烈な服装をして、私は固い足元の床の上を歩いているのです。沢山の同じ歳の子供たちが私の周りを取り囲むのですが、驚くことに其の夢の中では同じお部屋で性別関係なくお勉強をしているのよ。

 長くなりそうなので今回はこの辺で。かしこ」


「謹啓。

 僕は今びすけっとを食べながらこの手紙を書いています。ですので、屑が挟み込んでいたら失礼。

 然ういえば先日僕はモーパッサンの「Van Beauty」という蔵書を読んだのですが、此れは失敗だった。実に愚かな話と言わざるを得ない。此れは愚作であり、云々――――――(中略)

 失礼、少々熱くなり過ぎたようです。英文学とは――――――(中略)

 たびたび失礼。どうにも筆が乗らないのでこの辺で。敬白」


「お手紙拝見しました。筆が乗らないという割に随分と重いお手紙を先日は有難うございました。

 然ういうのは文部省への報告に使ったら如何かしら? いっそ私の方から直接送りつけてやろうか、と荒んだことを考えて仕舞うわ。其れに私の夢について一言も触れていないのは如何お考えなのかしら?

 猫先生は立派な大人なのだから――――――(中略)

 あら少し長くなって仕舞ったわね。だって猫先生が悪いのよ。そもそも―――(中略)

 と、言うことなのです。気を付けて下さいませね。

 先日、下谷の子供たちに猫先生は何処に居るのか、と聞かれたので遠い場所で勉強中なのだと言っておきました。皆、いい子にしていますが、そろそろ雪が降りそうなので心配です。

 猫先生は何も愉しみにしていないかもしれないけれど、夢の話も書いておくわね。昨夜の夢は、大きな建物に登るのです。

 猫先生は浅草の十二階はご存知かしら? 若し知らなかったのなら今度一緒に行きましょうね。

 兎に角、夢に出てきたのは十二階よりもっと高い建物なのです。細く天へ登る建物にえれべーたーに乗って上がっていくのですけれど、私、夢の中だと云うのに具合が悪くなって仕舞いました。だって小さな箱に殿方も混ざってぎゅうぎゅう詰めなんですもの。

 あいすくりんも夢の中で食べました。起きてから如何しても食べたくなって松本楼で史郎お兄様におねだりをして仕舞ったの。でも夢の方が美味しく感じました。不思議ね。

 お返事早く下さいませ。お待ちして居ります。かしこ」


「謹啓。

 不知周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与というのは荘子の胡蝶の夢の一文ですが、夢の中に潜り過ぎるのは如何かと思います。伊沙子さんが現実から目を背けても良いことはないのですから、確りと自分を持つのも必要なのでは無いでしょうか?

 厳しい言葉とは思うのですが、僕は貴女のことを考えて言って居るのです。敬白」


「とり急ぎ申し上げます。今朝急激な冷え込みで心配して赴いた際、眠るように逝った子供たちを見つけました。

 名前は――――――(中略)

 取り急ぎ乱筆乱文のほどお許し下さい」


「急白。

 お手紙拝見しました。何せ遥けき彼方の為、直ぐに駆けつけて遣れない我が身を歯がゆく思います。貴女の心が壊れて仕舞うのではないかと心配しています。如何か、どんな短い手紙でも宜しいので、直ぐに返事を呉れますよう。不一」


「急白。

 風邪でも召されたのでしょうか。そろそろ日本では桜が咲く頃でしょうか? お返事お待ちして居ります。不一」


「急白。

 僕は貴女の気に害することをして仕舞ったのでしょうか? 思い当たることが多過ぎて何処を如何したら貴女から返事が来るのか、考え付かないのです。貴女の元気なお手紙が届くのを愉しみにして居ります。不一」


「急白。

 其方は夏でしょうか? 貴女のことだから屹度色々なことを考えて仕舞って居るのでしょう。伊沙子さんは優し過ぎるのです。

 先日の夢の件、頭から否定して本当に申し訳ないことをしたと思って居ます。貴女が優し過ぎるからこそ、僕は如何にも成らないことを思わず口煩く書いて仕舞うのかも知れません。赦して貰えるものだと勝手に思って仕舞うのです。

 長くつらゝと書いて仕舞って申し訳ない。言いたいことは、只僕は貴女の手紙が欲しかったのです。出来るのなら、この海を渡り直ぐにでも戻りたいのですが然う云う訳にも行きません。

 貴女を心配して居ります。不一」


「お手紙拝見しました。

 お返事が遅くなって申し訳ございません。突然ですが私の縁談が決まりました。

 桂木の血を引いて生まれ落ちた身、いつかこの様な時が来るとは思っていましたけれど存外早かったものだと思って居ります。

 只諸般の問題もあり、今現在は婚約のみで諸々は二年も後になりそうです。まるで蛇の生殺しの様ですわね。

 最近、頻繁にあの夢を見ます。先生は胡蝶の夢を引用為されたけれど、本当、どちが夢なのか分からなく成りそうで毎日怖くなるのです。寧ろ夢の方が私は自由に飛んで行けるのではないかしら、なんて馬鹿げたことを考えて仕舞うの。

 猫先生、私はもう十七で終わって好いのでは無いかと思って要るのです。かしこ」


「急白。

 其方はまた白銀の世界でしょうか? 貴女の肩に雪が積もって居ないことだけを願っています。

 若し如何しても寒くなったのなら、私の手紙を燃やしても宜しいので暖を取るように。不一」


「お手紙拝見しました。

 矢張り猫先生は何も仰っては下さらないのね。然う分かっては居ても―――(文字が滲んで擦った痕)御免なさい。一寸筆先が歪んでいるみたいで、少し滲みました。

 猫先生の手紙で暖を取るのであれば、部屋の暖炉の薪を燃やすので結構よ。大体先生の手紙は分厚いだけで半分以上が英文学の論文の様なものですもの、私の部屋が陰気臭く成りそうで困ります。

 今年の冬は、まだ誰も欠けることのなく元気のようです。心配なさらないで。

 私は元気ですから、猫先生も老体なのだからお風邪でも召さない様になさってね。かしこ」


「謹啓。

 伊沙子さん、余り心に負担を掛けてはいけません。僕であれば、大丈夫です。

 何より竹の友の容体が気になっています。僕の教え子である金田君と桐野君が度々彼の家を訪れて呉れて居るのですが、長くはないのだと言って居ます。

 僕は竹を喪い、貴女を失ったら正気で居られる自信がないのです。貴女の幸せだけをずっと祈って居ります。敬白」


「お手紙拝見しました。

 猫先生は残酷ね。ご自分の言葉にもう少し責任を持たれたら如何かしら?

 竹の先生のお話、私も遠く聞き及んでは居りました。出来れば竹の先生の元へ尋ねて行きたいのですが、女学校を無断で抜け出していたのがお父様に気づかれて仕舞って、今は下谷にも行くことが出来ないのです。

 役に立たない生徒で御免なさい。猫先生にも竹の先生にも私は何もお返しすることが出来ない自分が、情けなくてこんな手紙など破って仕舞いたくなるの。

 猫先生、私を喪ったら先生は悲しんでくれるのかしら? 夢は今や毎日、見るのです。私は夢の中で「千紗」と呼ばれて居ます。私の姿にそっくりで、少しお勉強が苦手なのも似ているのです。不思議でしょう? かしこ」


「急白。

 今や竹の友が天に召され貴女までも喪ったら、僕は気が狂って仕舞う。年明けに帰国します。不一」


「猫先生、逢いたいです。只、猫先生に逢いたいのです。

 伊沙子が誰かの物に為っても、何処か違う場所に行って仕舞っても、伊沙子のことを如何か忘れないで下さいませね。

 今やお部屋から出ることも出来ず、お兄様が戻ってきてからと云うもの伊沙子は籠の鳥に為って居ります。猫先生が帰国される頃には女学校も中退して、私は小石川から出ることも赦されないのでしょう。もうあの自由な夢の世界に行って仕舞いたい。

 此のお手紙も届かないかしら? 届かなくても良いのです。私、猫先生のことを―――」


 ずっとお慕いして居りました。

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