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明治逢戀帖  作者:
第六章 華ニ似タ雪
38/61

 先生は、伊沙子に突然目の前へ突き出された泥団子を見て首を傾げた。

「どうぞ」

「どうぞ……とは、此れは泥でしょう? 食べることなんて出来ませんよ」

 不思議そうに答えるなり、伊沙子の背後にいたらしい泥団子の製作者が「うわぁん」と泣いた。

 泥だらけの手で頬の涙を拭っている。先生は慌てて袂から手拭を引き摺り出すと、着流しの膝に土埃がつくのも頓着せずに両膝を付いた。少女の傍らにしゃがみ込み、その小さな手に付いた汚れを落とす。

「こらこら、そんな汚い手で目を触っては駄目でしょう? して急に泣くのですか?」

「先生が不甲斐ない旦那様だからですよ」

「……伊沙子さん、ちっとも僕には話が読めないのです」

 伊沙子が憤慨している理由が分からず先生は汚れた手拭を手にしたまま、座った目をして立つ伊沙子を見上げた。じっと合った目が次第に緩み、伊沙子は耐えきれない様に噴き出す。

(困った。僕は可笑しなことを言って仕舞ったらしい)

 背中を丸め、笑い過ぎて咳き込むと「本当に困った方」と伊沙子は一言漏らした。先生はというとそんな伊沙子に戸惑い、間の抜けた声で名前を呼ぶことしかできない。

「……あの、伊沙子さん?」

「ああ、可笑しい。猫先生の耳には総て真っ直ぐ入ってくるのね」

 子供の手を拭うときに自分の頬にもつけてしまったのだろう。伊沙子が自分の着物の袖を掴み、頬の汚れを拭ってくれる。先生は子供がして貰うようにただじっとそれを受け入れた。

「泥団子を食べて欲しいと、伊沙子は言っているのでは有りません。ままごとです、あの子は猫先生の細君役でしたのよ」

「おや、然うだったのですか」

 考え事をしている時に、突然泥団子を渡されたせいでうまく頭が廻らなかったようだ。

 先生はゆっくりと立ち上がり膝の汚れをぞんざいに払うと、拗ねて背を向ける少女の傍らに再びしゃがみ込む。

 下から覗き込むと、赤く濡れた視線と合った。

「折角作ってくれたのに、申し訳ないことをしてしまったね。また作ってくれますか?」

「……もう厭って言いませんか?」

「勿論ですよ、僕は愛する君のお料理を楽しみにしているのですからね」

 くつくつと笑いながら言った先生の言葉に機嫌を直したのだろう。少女は「作ってくる」と身を翻した。

 やれやれ、と小さな細君のご機嫌取りの成功にほっとした先生の後ろで、伊沙子が鈴の音のような笑い声を立てる。振り向くと伊沙子が遠くの子供たちを眩い目で見つめていた。こちらを見てはいなかった。

「先生の元へお嫁に行く方は……屹度、幸せですね」

「どう……でしょうか」

 先生は言葉を濁す。

「僕には人を幸せにすることなど無理のような気がするのですよ。毎日生きていくのに必死で、自分に負けまいとただ足を進めているに過ぎないのです」

「誰もが屹度、然うなのでしょう。猫先生」

 伊沙子の静かな声に誘われて先生は立ち上がり、伊沙子に倣い遠くの子供たちを見遣った。

 わあわあ、と固まった子供たちは小さな諍いを始めたようだ。それでも先生と伊沙子が口を挟まずとも、子供たちは上手く折り合いをつけ、いつしかまた楽しそうに遊び始める。

「まあ、元気なこと」

 口元を袖で隠し、ころころと笑う。しかし、やはり伊沙子はどこか遠く違うところを見ている。この一か月ほど、たまにそんな表情を見せることが多くなっていた。

 伊沙子が、この下谷の長屋町で先生の手伝いを始めてからすでに三か月もの時が過ぎている。何処となく暗い空気を秘めていた伊沙子も今や驚くほどによく笑い、快活になった。それでもまだ十七という頑なな命の区切りを伊佐子はその身の内に隠し持っているのだ。

(伊沙子さんに、僕は未来を与えることができるのだろうか)

 先生がこの国を発つまで既に一か月を切っていた。一か月後、先生は横浜から出港しなくてはいけない。英語研究という冠を持った二年間の英国留学を、先生は国に命じられているのだ。

 気掛かりは伊沙子の他にもある。一向に芳しくならない先生の友人はつい先日大量の喀血をしたという。先生は、こんな状態でこの国を発たねばならない我が身を恨んでいた。

 当初は一週間か十日に一度の頻度だった手伝いは、次第に伊沙子が熱心になるにつれ五日に一度、最近は三日に一度になっている。ここまで来ると流石に女学校の授業にも支障が出てくるようで、伊沙子の兄である史郎に連絡が行くのも遠い未来ではないのだろう。

(僕は……如何したいのだろうか?)

 道を迷おうとしていた教え子に教師として、せめてもの明るい未来を射し示してあげたかった。

 とはいえ、本来のするべき勉学や教養を滞らせてまでこちらを優先させる伊沙子を見て、正直戸惑いを感じてもいた。桂木の家での立場を狭めているのは実は自分ではないのだろうか、そんな思いが消えない。

「猫先生」

 躊躇する先生の想いに気づいたのだろうか。何も告げる前に伊沙子が口を開く。

「私、ここに来て何も後悔してなどいません」

「……僕は貴女を置いて二年もの間、遠くに行って仕舞うのですよ。誘った側だと云うのに随分と無責任ではないですか。屹度、貴女は僕がいなくなった後で桂木の家の渦に巻き込まれて仕舞う気がするのです」

 伊沙子は笑う。悔恨し俯く先生の顔を下から伊沙子は覗き込んできた。

「其れでも、私が然うしたかったのですもの。いいではないですか」

 何かが抜けたようなそんな幸せそうな、それでいて哀し気な表情をしていた。

「先生は大願を成就なさいませ。英吉利の文学に触れることが出来るのだと、喜んでいたではありませんか」

「……其れは、何も無かったからで―――」

「私と竹の先生に、弱虫の理由を押し付けるのは止めて下さいな。猫先生は何も心配せずに欧羅巴の空気を堪能してくれば良いのです」

 ぐうと先生は押し黙った。

(確かに、僕は何とか洋行から逃げる理由を探そうとして居るのだ)

 先生のものよりもずっと細く短い伊沙子の指が、ぶらり垂れたままの先生の指を軽く抓んだ。跳ねかえるようにして、先生が横の伊沙子を振り返る。

「……っ! い、いさ、こ、さんっ?」

 当の伊沙子はどこ吹く風だ。

「何ですか、指を掴んだだけで騒々しい。猫先生は、其れでも帝国男子なのですか?」

「し、然しですね。結婚前の女性がこう、殿方の体に簡単に触れるのは」

「変な言い方為さらないで。たかが指ではないですか」

「……其れは然う、なのですが」

 先生よりもずっと男らしい言い草で伊沙子は「仕方ないこと」と嘆息し、指を先生の袖に移動させた。

「此れで宜しいかしら?」

「は、はい。宜しいかと、思います」

 ぎこちない口調で返事をする先生を目を見開いて見遣った伊沙子が、肩を震わせる。

「今の猫先生は絡繰り人形のようですよ」

「からかわないで下さい」

「まあ! まるでおぼこな娘のようね」

 俯き耳まで赤くさせた先生を、伊沙子がからかう度に頬が火照り体中が発火しているような気になってしまう。先生は伊沙子に袖を掴まれたまま、強引に腕を組むと両手を袂に隠してしまった。指先に先ほどの汚れた手拭が当たる。

 調子を戻そうと先生は小さく咳払いをした。

「お兄さんとは最近如何なのですか?」

「とても好くして下さいます。まるで伊沙子が幼子の様に、其れお菓子、其れ玩具と。あら、お手紙に書いたかしら?」

「ええ、見ましたよ」

「もう諦めました。史郎お兄様は、あの家に伊沙子の居場所を作ろうと躍起なのです」

 ふうと嘆息した伊沙子を先生は笑いながら見遣る。

「良いお兄様ではないですか」

「ええ。でも……とても悲しい方」

 背筋をぴんと伸ばし立つ伊沙子の姿を振り返り、先生は「其れは如何いうことでしょうか?」と聞いた。伊沙子はというと、その問いに少し考える素振りを見せると重い口を開く。

「猫先生、人は何もかもを手に入れたからと云って、必ずしも幸福とは言えないのですね。手に入れたからこそ、手にないものを追い求める哀しい生き物なのですね」

 答えに困窮し、先生も口を噤む。

(はて、これは同意をするべきか。否定をするべきか読み取れない)

「手の平に乗るほんの少しだけ、大切に出来るのであれば其れだけで良いのに」

 伊沙子の言葉は独り言のようだった。先生は何か言葉を返すことを諦めて、ただ聞き役に徹する。

 暫しの沈黙が流れた。

 その沈黙を破ったのは先生の方だ。

「……貴女は、大丈夫なのですか?」

 ずり落ちてしまった眼鏡をくいと上げ、先生は伊沙子を振り返った。

 その質問の真意に気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか。伊沙子が小さく首を傾げてくる。

「あら」と驚いた風な声を上げた。

「猫先生は、私が心配なのですか?」

「当たり前です。貴女は僕の大切な……生徒ですからね」

 くすり、と伊沙子は俯き笑った。

 先生は空を仰ぐ。今日も蒼く澄み渡った空だった。鳥が何の隔たりもなく、自由気ままに空を飛んでいく。昼に差し掛かる日差しが目を焼いた。

 ぽつり、伊沙子が微かな声を溢す。

「其れならば、猫先生……私を貰って下さいませ」

 今度こそ、力の抜けた膝のせいでがくりと先生はその場に崩れ落ちた。

 見っとも無く片手を付いた先生は陸に上がった魚の様に口を大きく開閉させると楽しそうに笑う伊沙子を見上げる。

「おっ、大人をからかうのはいけないのですよ! 伊沙子さん」

「まさか、そんな反応をされるとは思っていなかったのですもの。猫先生」

 伸びる伊沙子の手を無視して、神妙な顔つきをして見せると先生は立ち上がった。情けなく脱力した手前、恰好をつけようにも上手くいかない。

(子供の癖にいっぱしのことを言う)

 出した手を無視されたのは気にもならないらしく、伊佐子はすいと手を引くと先生の尻の土埃を優しい仕草で払った。すると、小さな石ころがいくつも落ちてくる。

「僕と貴女では到底合わないでしょう。桂木家は華族ですよ、僕には荷が重過ぎるのです」

「まあ、背負う前に投げ出してしまうおつもり?」

(此れは冗談なのだ)

 先生は遠くの子供たちを見遣った。楽しげに笑う子供たちは、貴族の子供たちと何ら変わらない。ただ住む場所が違うだけなのだろう。

「魚は空では生きることが出来ない。空には不釣り合いなのですよ」

「鳥が羽を捨てて……水に潜るのだと言ってもでしょうか?」

れども……いつしか鳥も息絶えるのでしょう。それほどに此の時代には、身分差は大きな障害なのです。貴女もいつしか大切な人を見つけた時、屹度わかるのでしょう」

 伊沙子はただ先生の袂を持ったまま、前をじっと見ていた。

 いつまでも始まらない授業に業を煮やし、子供たちは鬼ごっこを始めたらしい。貧民窟では例え幼くとも子供たちは大切な働き手だ。遊べる余裕を持つことのできる子供たちはまだ幸せなほうかもしれない。

(其れでも、冬ともなれば沢山の子供たちが死んでいくのだろう)

 気まぐれの優しさでこの内何人かの子供を引き取っても、結局は後が閊えるだけなのだということを先生はよく理解していた。救わなくてはいけないのは、下にいる子供たちを引き摺り上げることだ。

「僕には……為さねばならないことがありますから」

 自らを諭すように言った先生に、伊沙子は小さく頷き返す。

「猫先生、欧羅巴に行ってもどうか。伊沙子に手紙を下さいね。絶対に忘れずに返事を書きますから、手紙を下さいませね」

 先生はただ首を縦に振った。

 それを見て、やっと伊沙子は嬉しそうに笑う。

 伊沙子の声が震えているのを、先生は敢えて気付かないふりをした。

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