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「伊沙子さんは、実に天真爛漫な方でした」
月を仰ぎ、先生の唇から言葉が零れ落ちた。
「然うですね。再会した時の伊沙子さんは、まるで千紗さんの様に愛らしい……あんぱんのようでしたよ?」
千紗はぷうと頬を膨らませる。そんな千紗を見て先生は「ほら其のとおり」と肩を揺らした。くつくつと笑い、ゆっくりとその顔から笑みが抜けていく。
「いつ頃からでしょうか? そんな伊沙子さんから無邪気さが消えていったのは」
桂木に引き取られて伊沙子は少しずつ現実を知っていったのか、どちらにせよ良家の子女というものは贅沢し放題の自由気ままな生活というわけにも行かないのだろう。
千紗は自分の手の平を見つめた。何ひとつ、重いものなど持ったことのないようなその手。磨かれた爪に細い指は現代の千紗には持ち得ないものだ。
はあ、と先生は嘆息しずり落ちた眼鏡を指で持ち上げると、寒かったらしく両手を着流しの脇に滑り込ませた。
「僕は……伊沙子さんから伸ばされた手を一度、離しているのですよ」
◆ ◆ ◆
「そんな処で眠って居ては、踏み付けて仕舞ってよ」
聞き覚えのある声に先生が重い瞼を持ち上げると、花の顔が上から覗いた。
(然うか、此処は女学校の近くだった)
大きく黒目がちな目を細めて笑うその顔は長屋町にいた時と何ら変わらない。着ているものだけが美しく、ただそれが滑稽だった。はあ、と吐息ついて知己の顔を見上げる。
「奥山の松のとぼそをまれにあけてまだ見ぬ花の顔を見るかな、ですね。久し振りに外出すると珍しい人に会えるものです」
「まぁ、言うなれば猫先生は修行中の僧侶なのですか。随分と禁欲的ですこと」
源氏物語の一説をさりげなく引用すると言っている意味が理解できるようで伊沙子も首を傾げ口元を袂で隠し、ころころと笑った。聡明な少女である。
笑うと十四の娘らしい表情になった。そろそろ良縁があれば嫁いでもおかしくない年頃だというのに、小石川の屋敷に引き取られていった後も無邪気さは雲に隠れることは無かったらしい。
少女は桂木 伊沙子。貴族院の華族議員である桂木男爵の長女である。但し母親は正妻ではない。所謂妾腹だ。
猫先生、と呼ばれ先生は思わず眉を顰めた。然し、無意識の反応で本気で腹を立てたわけではなかった。
「僕は猫先生ではないですよ。其の呼び方は少し不都合があります」
「いつも着物の裾に食べ物を溢す猫先生の主張など聞けましょうか? お溢しを貰おうとした猫を従えて、いつも引率の先生みたいなのですもの。それに「先生」と呼ぶのは竹の先生だけなのです」
「彼方は「竹の」先生で僕が「猫」先生では同じ先生でも格が変わるでしょう。其れではまるで僕が猫のようではないですか」
体調を崩している若い友人の顔が先生の頭に思い浮かんだ。
先日、病床を訪ねた時も然程病状は好くなっていることもなく、むしろ悪化の一途を辿っているようだった。間近に控えている自分の洋行のことを考えると、臓腑がきりきりと病んでくる。欧羅巴など言っている暇などない、などと云う思いが沸き上がった。竹の友はそんな自分を怒るだろうか、と考え込んだ先生は口を噤む。
「まあ、怖いお顔」
伊沙子は美しくも恐ろしく高価な着物が汚れるのも気にせずに、横の切り株に腰かけた。
傷ついた幹から腐り落ち先日この桜は切り倒されたばかりのせいか、切り株にはまだ新鮮な木の香りが漂っている。
「汚れて仕舞いますよ」
「構わないわ、先生のように花の絨毯の上で眠りこけていたら何処ぞの子供に踏み付けられて仕舞うでしょう?」
「かつての僕を踏んだのは、子供の頃の貴女じゃないですか」
「ほほほほほ。淑女たるもの、都合の悪いことは消し去れるものなのです。猫先生」
「いやはや、羨ましい」
先生は嘆息した。
見頃も終わりかけを迎えた桜の花弁が、まるで着物の絵柄の如く伊沙子へと散ってくる。桃を僅かに含む白い絨毯の上に、幼子のように足を投げ出して伊沙子はぼうと座っていた。
その姿はさながら人形のようだ。遠くを見遣る伊沙子の横顔を先生が見ると成る程、紅が引かれている。
人形に見えたのはきっとそのせいなのだ。白磁の肌についと引かれた血の如く赤い紅が十四歳の伊沙子を恐ろしいほどに大人びて見せている。
(こう見ると、とても長屋に住んで居た娘とは思えない)
つい先日まで伊沙子は、貧民窟である長屋町に住み日々生きていくだけで必死な生活をしていた。
遊び女だったという母親を亡くし、ひとり置いて行かれた伊沙子は、塵を漁りそれを売り歩き賊紛いなことにも手を伸ばしてまで必死に生計を立てていた。
桂木の養子として男爵は生後間もない伊沙子を母親から取り上げた。
養母の話から母親の命の灯があと僅かだということを知り、預けられた家から八歳になった伊沙子は母恋しさに逃げ出したのだ。金銭的には何不自由なく過ごしてきた家から伊沙子は飛び出し、長屋町に住んでいた母親の行方を捜した。
すでに虫の息となっていた母親は、伊沙子の顔を見るなりあっという間に亡くなったのだという。桂木男爵の娘を産んだ母親としてはあまりにも不遇な最後であった。
伊沙子は養家にも桂木の屋敷にも戻らず、そのまま下谷に残ることを選んだ。桂木への体裁を恐れた養家がそれから五年もの間、そのことを桂木家に伏せたままにしていたのは、膨大な金額でる養育費が止まることを考えたのだろう。
伊沙子は生家は勿論、養家にも居場所が無かったのだ。愛情など到底与えられる筈もなかった。
「猫先生はまだ下谷で先生をしていらっしゃるのですか?」
「ええ、なかなか辞めさせて貰えないのです」
「好いではないですか。下谷の子供たちも素晴らしい先生に教えて貰えるなんて大喜びです。まさか最初は身ぐるみ剥がれて路地に転がされていた人が天下の帝國大学の講師だとは思いませんもの」
「身ぐるみ剥いだ当の本人が、それを言いますか」
「とうに過ぎたことですよ、猫先生」
くつくつ、と堪え切れない様に伊沙子が笑う。
生活に困った幼い伊沙子が子供たちと長屋町で盗賊の真似事を始めた頃、精神的に追い遣られていた先生はふらり、下谷の深部に入り込んだ。薄汚れた着物を辛うじて羽織り、躍起に棒切れを振り回し、数で襲ってくる子供たちに太刀打ちできるはずもなく、先生は気づくと路地に転がされていた。
辛うじて覚えているのは、少女に無下に足蹴にされたことだけだ。金目の物どころか眼鏡に下着まで剥ぎ取られ、残されていたのは使い古した褌だけだった。
それでも腹を蹴られなかっただけ良かった、とは先生は思った。年々病んでくる臓腑は、子供の容赦ない攻撃に耐えられたとも思えない。一撃食らっただけで、壁は呆気なく破れ血が噴き出すに違いないのだ。
そして今やその貧民窟の子供たちの先生をしているとは。
(まさに巡り逢いとは珍妙なものだ)
教え子のひとりである伊沙子も立派な淑女へと成長し、教師としては先行きのよい始まりである。但し本職の方は滞るばかりだ。
「またも逃げ出してきたのですか?」
先生の問いに伊沙子からの返事は無かった。
起き上がり背中に付いた花弁をいい加減に払うと、先生は薄ぼけた視界のまま片膝を立てた。そこらに転がしておいた眼鏡を手探りしようにもとんと見つからない。
「おや仕舞った。見つからない」
「どうぞ」
伸ばした手の平にとんと眼鏡の蔓が触れた。それを掛けると、視界に入るのはぷうと膨れた顔だ。
「驚いた。子猫があんぱんに成ったではないですか」
「妙齢の女性にあんぱんは酷いでしょう、先生。私はこれでも怒っているのですよ」
立ち上がった先生に倣い、伊沙子も立ち上がることにしたようだ。尻に付いた花弁を同じようにぞんざいに払い、すうと背筋を伸ばす。
その姿は、絵巻物の姫宜しく気品があり如何にも教養のある女性のようだ。先生は三十一を迎えたばかり、世間的には何もおかしな年齢差ではない。
と、思わず考えてしまってから、綺麗に結い上げた髪の毛を上から見下ろし猫先生は自戒した。
(……馬鹿なことを考えてしまった)
猫先生はつい先程、勤め先で耳を塞ぎたくなるほど良縁の話について訥々と説明されたばかりであった。細君を持たねば一人前ではないとまで言われ、早々に敵前遁走をしてきたばかりなのだ。
(愚昧此処に極まれり。寄りにもよって伊沙子さんで妄想してしまうとは)
膨らませた頬から一度ぷうと中身を出し、伊沙子は先生を見上げてくる。その姿は少女ながらに勇敢で、両腰に拳を置きさながら仁王立ちだ。
「何ですか、黙って見ているなんて男らしくない。何か言いたいことがお在りなら言えば良いのです」
「伊沙子さん、教養のある妙齢の女性はそんなけんもほろろな言い方をしませんよ」
「先生がおどおどなさるからいけないのよ。そもそも私が桂木に引き取られたのを知っているはずなのに、お手紙ひとつ寄越さないとはどのような了簡なのです」
「怒っているのはその件ですか」
「其の件も、度の件も在りません。竹の先生は事細かにお手紙を呉れるのに猫先生は私のことなんかとうに忘れたように過ごされて居るじゃあないですか」
何か言う度に伊沙子の頬がぷうと膨れる。
(成程、確かに言われてみれば随分と素っ気ない」
「お兄様に言われるがままにあの堅苦しい学校に行きましたが、先生の教えて下さったしぇいくすぴあなるものはちっとも授業に出ないのですもの。先生のおっしゃる「らーぶ」なるもののさっぱりわからないままなのです。毎日毎日、其れお花、其れ教養、其れ音楽と詰め込むにいいだけ詰め込んで―――」
呵々、と先生は笑った。
「貴女はお勉強が苦手でしたからね」
「……伊沙子はお嫁に行くだけの人形ですもの」
ほう、と伊沙子はため息をつき、小さく溢した。
先生は少し翳りの残した顔を苦笑しながら見遣る。
「其れが「位高ければ徳高きを要す」ですよ。長屋町の人間には得られぬものを君は得ているのだから、社会的責任として努力も必要なのだということです」
「……私が望んだ血ではないと云うのに」
聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で、伊沙子は独り言ちた。
(然うだ。この子は逃げたというのに、引き摺り戻されたのだ)
何不自由もない生活も、望まぬ教養や花嫁修業も伊沙子は何ひとつ必要とはしていなかった。あの下谷の長屋町で薄汚れた子供たちに混じり、場にそぐわない文学を論じていた方が性に合っていたのだろう。
たとえ、死と背中合わせの毎日だとしてもだ。
「知っていました? 猫先生」
「はい?」
伊沙子は至極愉しそうな表情を浮かべて、先生の顔を覗き込む。
ひらりはらりと桜の花びらがその額を滑り頬に落ちてくるのを見て、先生は伊沙子の頬に手を伸ばした。くすぐったさに破顔する伊沙子が、小さく吐息ついて口を開く。
「どうせ、伊沙子は十七までしか生きられないのです。これはもう決まって居ることなのですもの、本当は自由に生きたいのです」
お手紙、絶対に下さいね。呆然とする先生を見て、伊沙子は無邪気に笑った。




