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明治逢戀帖  作者:
第五章 水鏡ノ月
35/61

 闇の中で存在感を消して金田の呼んだ俥夫は人力車を引き、本郷千駄木町の先生の家へ向かっていた。借りた揃いの外套を羽織り、闇に溶け込んでいるのは千紗も桐野もまた一緒だ。

「あの……手……」

 千紗が言うと、拒む千紗を連れ去るようにして腕を掴んでいた桐野の指がするりと降りて、行く当てなく俥に落ちていた千紗の指を掴んだ。包み込むように握るその手に戸惑って千紗は小さく身じろぐ。

 繋がれている熱とわずかに触れる肩だけが存在を主張している。

 がらりごろり、と車輪が廻っていた。

 遠回りになっても構わないから陰気な心情にはならないような場所を通り給えと、金田が言いつけたのを律儀に守って俥夫は新橋と銀座を通ることにしたらしい。

 煉瓦街にアーク灯、華やかな着物姿や気取ったスーツ姿の男が一瞬で視界を掠めていく。こう暗ければ初めて桐野と会った場所もよくわからない。景色に目を凝らす余裕も今の千紗にはなかった。

「だって、衆道……って」

 千紗が横を見てもそっぽを向く桐野の後頭部しか見えない。

「別に良いだろう。誰も見てやしない」

「でも」

「黙って居ろ。このまま眠って居ても着くのだから」

 外套の中に繋がったままの手が滑り込んで、きゅと桐野の指が千紗の指を絡め取った。

(胸が痛い)

 急に辺りの空気が薄まったような気がしてしまう。

 千紗は俯いて僅かな酸素を求めるようにか細い呼吸を繰り返した。夜風が頬を打ち、現代の車ほどの速さではないのに少し寒く感じる。それでも外套の中で包まれた手から柔らかい温もりが沁み込んでくるようだ。繋がれた手が嫌ではない。それなのに苦しくて、たったこれだけで泣きそうになる。

 はぁ、と桐野の吐息が闇に溶けた。寒くはないのだから白くないはずなのに棚引く痕が見えた。

「僕では」

 ぽつりと桐野が言った。

「……え?」

 飛ぶ風の向こう側、声は小さくともはっきりと聞こえた。

「僕では駄目なんだな」

 胸を何がが深く貫いたような気がして千紗は顔を顰めるとより深く俯いた。たったその武骨な言葉だけで、桐野の気持ちを察してしまう自分が嫌だ。

(分かってる)

 ―――桐野とは千紗が望む未来を描けない。

 明るいアーク灯の光がぐにゃりと滲んで歪んだ。

 熱くなった瞼を誤魔化すように千紗は桐野に倣って逆方向へと向いた。煉瓦街の美しいショーウィンドーの中に、一際眩しいドレスが飾られている。それも総て曖昧にぼやけて後ろへ流れていく。

 脳裏に僅かな記憶が戻ってくる。

(……今なら。今ならわかるよ、おばあちゃん)

 現代で過ごしている時には恋愛というものはどこか他人事のようで、教室で浮かれて騒ぐクラスメートの話に流されるようにして誰彼が好きだとターゲットを決めていた。祖母の駆け落ちの話を聞いていても、千紗はただ聞いているだけで納得はできていなかった。

 ―――なりふり構わず自分を押し通したいほどの想い。

 今や、何もかもを捨てて謗られてもたとえ迷惑をかけるのだとしても遂げたい想いが、千紗の胸にはある。それでも桐野からの遠回しな言葉に跳ね上がる動悸とは相反して、締め付けられる心は自制を千紗に求めてくるのだ。

 阻むものは身分や人の謗りなどではない。「時空」なのだから。

(応えることは赦されない)

 千紗の唇が震えた。

「はい」

「…………」

 返事が戻るまで永遠のように感じた。繋がれた震える千紗の指が一度だけ強く握られる。

「解った」

 その言葉が合図なのかのように千紗の指から桐野の指が離れていった。まだ外套の中にいる筈なのに指が途端に寒さを訴える。

 ほろり、落ちた涙を千紗は桐野に気付かれないようこっそり拭った。

 

     ◆     ◆     ◆


 今日の夜は特に明るい。顔を上げずとも千紗の視界には漆黒の空に雲が棚引くのが見えた。

 狂ったように眩い月の下で、ついこの間まで見ていたはずの庭木が夜風に揺れている。より強く吹いた風に煽られ板塀が軋んで啼く。

 本郷千駄木町の先生の家には灯りが点いておらず真っ暗だった。

 向かいの下宿屋も揃って闇に染まった窓で、千紗は思わず尻込みしてしまう気持ちを叱咤して奮い立たせる。

 桐野は近くで時間を潰すのだと言っていた。千紗が何度もここでいいのだから帰って欲しいと言っても、桐野はそれを固辞したのだ。金田が本郷での用事を終えた千紗を、京橋区明石町の屋敷に連れ戻すように桐野に言いつけたらしい。ひとりで戻るのだと言っても、結局聞き入れなかった。

「待って居る」

 真っ直ぐこちらを見て言った桐野の顔を千紗は一秒も保って見ていることができなかった。気持ちを知ってから心が千々に乱れてしまう。いつか粉々に割れて崩れてしまいそうになる。

 桐野が去って千紗はひとり、門の前に立つ。門は開いていた。不用心だ、と思う。

 那美子が先生に強く言いつけて置かなかったのか、それともそろそろ千紗がやってくるころだとわかっているのか。どちらにしても、千紗が片手で軽く押すだけできい、と音を立てて門は千紗を誘った。

 少し悩んだものの、門の格子を鳴らさずに千紗は中へ足を踏み入れた。そのまま玄関へ行かず、木戸を開けると千紗は濡れ縁を覗き込む。

「いらっしゃい、今日はいい夜ですね」

 そこに彼の人はいた。

 いつも通りの優しい空気を身に纏い、どこか掴みどころのない口調は正直問いただしたかった気持ちを萎えさせる。中身はすっかり冷えているのか、湯気のない湯呑を両手の平で包み込みぼんやりと空を見上げ縁側に腰掛けていた先生は、どこにも行けずただ立ち竦んでいる千紗を蝶のように手を翻し呼ぶと、自分の横を指差した。

「其処に立って居ると、闇に融け消えて仕舞いそうに見えるのですよ」

「人はそんな簡単には消えませんよ」

 千紗の声に、先生は哀しそうに微笑むだけで返事をしなかった。誘われるままに千紗が縁側へ足を進めると、乾いた枯葉を踏んで足の下で音がする。

 明治時代に来て、一か月はとうに過ぎた。

 千紗が放り出されたときはまだ夏の匂いもはっきりしていたのに、すでに季節は秋を迎えている。枯葉の敷き詰められた庭は向こう側が畑ということもあり竹垣の奥には何もないせいで特に寂しげだ。

 特に夜ということもあり遠くで犬の遠吠えが聞こえるだけの縁側は、一人でいるには寂しすぎるくらいに涼しく悲しそうなのに先生は特にこの場所が好きなのだ。

 少し離れた濡れ縁の端に千紗は腰かけた。

 足を伸ばすと、金田の屋敷で治療し直した足に血が通った気がする。今日は特に長く歩き過ぎた。あの桂木の家から出て、まだたった一日しかたっていないとは到底思えない。

(とてつもなく長い冒険をした気分……)

 一体何から話せばいいのだろうか。千紗が思い悩んでいると、先生が先に口を開く。

「元気、でしたか?」

 千紗の方を向かずに聞いてくる先生の問いに、千紗は「はい」とだけ答えた。

 先生の横顔をまじまじと見つめていた千紗は、顎の線が別れたときよりももっと鋭くなったことに気づいてしまう。先生は見たことのない縁の眼鏡をして、短い髪の後ろ側はだらしなく跳ねていた。

(……寝癖)

 痛む胸をやり過ごし千紗が小さく噴き出すと、先生が驚いた顔をして振り向いた。

「如何しました? 突然」

「いえ、先生。寝癖ですよ、結構跳ねてます」

「おや、其れは恥ずかしいですね。久方振りの貴女に沿う指摘されるとは」

 そのまま先生は黙り込むと、ゆっくりと立ち上がった。

 視線で追うこともせず、千紗は影絵のように切り取られた庭木の輪郭を見つめている。風が吹くたびに揺れると、枯葉が擦れあう音が次いで聞こえてきた。

 ふと、背中に温かい気配を感じた。衣擦れの音のあと、肩に羽織がかかったのがわかる。触れる綿の感触、先生は千紗の横に腰かけることなく、ただ縁側の千紗の後ろに立っている。腕を組んで空に浮かぶ月を見上げていた。

 今日の夜は特に月が明るい。この眩い月の下では、思い悩む顔を隠すことなんてできないだろう。

 羽織の温かさに、千紗は先ほどの手のぬくもりを思い出していた。途端に思い出した寒さを誤魔化すように千紗は羽織の前を掻き合わせる。

 千紗は縁側に腰かけ、空を見上げると口を開いた。

「本当は……私は伊沙子さんではないんです、先生」

 先生は黙っていた。

「この体は伊沙子さんのものです。でも新橋で伊沙子さんは私に精神を受け渡してしまった。今、伊沙子さんの中に入っている私は明治時代からずっと未来の人間で……本当は伊沙子さんの子孫に当たります」

 千紗は「おかしなことを言っていると思うでしょうね」とそのあとの言葉を濁した。

 きい、と縁側の板が鳴る。

「僕と伊沙子さんは随分と珍妙な出会い方をしました」

 昔のことを思い出したのか、先生は揺れる庭木の影を見て優しく笑う。組んだ腕を解かずに空を仰ぎ、月の柔らかな光に目を細めた。

 見上げた千紗の視線には先生の目が見えず、眼鏡の縁だけが見えた。眼鏡をすることで表情を隠したかったのかと思わず邪推してしまう。

「今日は随分と月が綺麗なので、少し……昔話をしましょうか」

 月を見上げたまま、先生は言った。

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