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「それは、なんとも……」
吐息交じりの相槌が静かな部屋に響いた。
とうとう話してしまった。千紗の心臓が壊れるほどに早鐘を打つ。震える指を掴むもう一方の手は力を入れ過ぎた所為で血の気を失っていた。
金田は両手を天井に上げ、やれやれと俳優さながらに首を振った。何故なのか、行動だけ見ていると真剣ではなく胡散臭く見えてしまう。損な性分だ。
「これまた、随分と奇想天外な話を聞かされたものだなあ。完全に僕の予想の範疇を軽々と飛び越えて仕舞った」
ぎしり、と金田の腰かけた椅子が啼いた。
つい先ほどまで窓近くに射し込んでいた日射しは、時間を追うにつれ移動して、桐野の腰かけるソファーにまで届いている。照らされた当の本人はというとまるで銅像さながらに身動きひとつ、しなかった。
金田はズボンに包まれた足を大袈裟な仕草で組み、上になった膝に組み合わせた手を乗せた。
長い睫が影を作り金田の頬に落ちたのを見ながら、どことなく日本人離れした顔だと千紗は思う。どうでもいいことでも常に考えていないと、足元が揺らいで倒れ込んでしまいそうだ。
「先の世がどうなって居るのか、などという俗で邪推な質問は置いておこうとしよう」
嘆息して金田が千紗を見る。
「それで千紗君は、後に君の曽祖母となる伊沙子嬢のために「定められた未来」の道を模索して居るのだね?」
未来から来たのだという千紗の主張を、表向きには金田が否定している様子は見えなかった。真実はどう思っているかはわからない。それでも千紗はソファーの前で立ち竦んだまま、こくりと小さく頷いた。
「そうです。私が生まれる未来の為には正当な相手……を選び取る必要があるのだと思います」
「今現在、伊沙子嬢という箱の中身は千紗君なのだということだ」
「……はい」
「表向きには伊沙子嬢は存在している。故に、千紗君は小石川のかの屋敷から逃れるわけにはいかないのだね」
「そう……です。あそこには曾祖母の残した情報がまだ残っているはずで、伊沙子さんがこの体に戻ってきたとき私は「私のいた痕跡」を消して、それで―――」
声が途切れた。
「いつでも戻れる……ように私は」
早く戻りたいのだとずっと思っていた。こんな不条理な時代、伊沙子の体を借りていなくても暮らして行くことなんてできやしない。学校、近代的な生活、一番に家族。懐かしい我が家にはあまり家族の思い出は無かったけれど、祖母の家には沢山残っている。
事故にあったのだろう現代の千紗がどんな状況になっているのか、見当もつかなかった。それに―――
「…………」
(……飛び込んできた車を運転していた人の顔、忘れてる)
あれほど鮮明に記憶に残っていた運転手の顔を、千紗はいつの間にか忘れてしまっていた。
ぞくり、と背中に冷たいものが走る。両親の名前、祖母の顔、学校の名前。小石川で必死に過ごす内に、千紗の記憶からそれらは総て消え去っているのだ。
そして、戻ってきた曽祖父の記憶の欠片。物書きで研究者、そんな小さなことだけが今の千紗を動かす。ほろり、と頬に涙が零れた。
(現代の私はもう……どうでもいいってことだ。先の記憶も……それに―――この心も)
「…………っ」
一度零れてしまうと見開いた眼から涙が止まらずに何粒も零れ落ちた。咽喉がひくりと潰れた音を立てる。
「……っ!」
ばさり―――視界が急に暗転して、千紗は息を飲んだ。
後ろから何かが被せられたらしい。なんとなく埃臭いものが千紗の歪んだ視界を包むように覆う。もがくようにして顔を出して見るとそれは桐野の羽織だ。まだ体温が残っていて温い。
千紗は後ろをゆっくりと振り返った。
羽織を頭から被り暗く歪んだ視界に入る桐野は、動いたことが嘘のように固まったままだ。ただ深く俯き、着流しから伸びた腕が顔を隠していた。
(私……泣いている場合じゃない)
千紗は学生服の袖で頬を拭った。熱く膨れた感覚の瞼を上げ、窓際の金田の方を見遣る。
「これで、先生に逢いに行ってもいいですか? ……先生に聞きたいことがあるんです」
「そうだね。僕は構わないよ」
金田は即答した。然し、と渋い表情を浮かべている。金田の視線は千紗を通り過ぎて、背中向こうに向いていた。
「実に……伊沙子嬢は残酷なことを先の人間に託したものだと僕は思わざるを得ない」
「……はい?」
「水鏡は真実の心を映し出すと言うが、今であれば水鏡も必要としないのであろうよ」
嘲笑が金田から漏れ出す。
「この隔たりは幾星霜経ても実に遠く、決して相交わることがない。彼の幸田先生が書いた「縁に遇えば則ち庸愚も大道を庶幾し」とはこういうことも含むのかね、桐野君。僕は実に愚かだというのに状況を俯瞰することも未だ出来ないのだ。Fact is stranger than fictionなる意味を身を以て思い知らされている」
千紗には金田の話はほとんど理解できなかった。しかし、桐野には理解できたのだろう。何も言わないままで桐野はすっくと立ち上がる。
そのまま驚き狼狽える千紗の腕を掴み、さっさと金田を残し部屋から去ろうとした。千紗は踵を踏ん張り声を上げる。
「! 桐野さんっ、まだ話が……」
「付き合ってくれ給えよ、千紗君。男にはどうにも引けない場面があるのだ」
「……でも、駄目。駄目なんですっ」
震える唇から悲鳴のような声を出して、千紗は拒絶した。
一応、金田の話が終わるまで足を止めていてくれるのだろう。交互に桐野の背中と笑う金田を見遣る千紗に、金田が腕を組んだまま片手を上げる。
「こ奴は殺そうと思ってもなかなか死なないしぶとい人間なのだ。君の不安になることは僕も了承故だよ。彼もそうだ、実に今千紗君の健気な拒絶の理由を思い知らされたのだろうね」
千紗は桐野の背中を見た。問答無用で今にも足を踏み出しそうな背中は、何も感情を千紗に教えてはくれない。
「でも……それなら」
「然し、このまま身を預けて呉れないかね。頑固で何とも素っ気ない男だが、君を悪いようにはしないだろう。なあに、使えない時は彼の鬼にでも食わせてやってくれればいいのだ」
その言葉は冗談にもならない、千紗は顔を強張らせた。
「責めて、千紗君の恰好が何とか出来ると良かったのだが。まぁ、悪鬼から逃れるためだ、仕方ない。その機会は後日にしようではないか」
「……でも」
千紗は弱弱しく首を振った。次に史郎と会えば桐野はどんな目に合うかわからない。そんな危険を冒してまでともに行動なんてできなかった。掴む桐野の指を振り解こうとしても凍り付いたように動かない。
肩から被さったままの羽織は千紗の肩を温めて、引き摺りそうな裾を今にも踏んづけてしまいそうだ。
「そうだ」
金田が両手を打った。いいことを思いついたような顔をして千紗を見る。
「彼の先生に聞かれたことがある。千紗君は迷子の英訳を知っているかね?」
千紗は訝しげに眉を寄せて、考え込んだ。
(Lostchildかな……でも迷子は子供ってわけでもないし)
思いつく言葉が見つからず千紗は首を振った。そんな質問をした金田の真意も分からない。
「迷える子と言うのだそうだよ。人は実に簡単に迷うものなのだ。そして―――」
金田は笑った。
「荀子曰く、迷う者は路を問わず。尋ねないからこそ人は迷うのだ。たったひとりでは何も解決など出来ないのだよ、千紗君」
いいから行っておいで、と金田はひらり手を振った。
桐野に掴まれた腕が妙に熱いせいなのか、胸の奥が苦しくて千紗は思わず胸を抑える。何かが奥から零れ落ちてしまいそうだった。




