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明治逢戀帖  作者:
第五章 水鏡ノ月
33/61

 明治三十二年七月十七日まで「築地外国人居留区」と呼ばれていた場所は、居留区制度が廃止された機に京橋区明石町という名前に変わった。緑も多く、少し足を伸ばせば美しい教会も点在する京橋区は、銀座や新橋などの新興地区を含むために、帝都の中でも先駆けてアーク灯が設置され、美しく整備されている。

 どことなく外国よりも現代を思わせたその美しい街並みに、千紗はきょろきょろと忙しなく顔を動かし歓声を上げた。

 その浮かれぶりは余程見るに堪えない状況だったのだろう。呆れた桐野に「田舎者に見えるからやめてくれる?」と顔を顰めさせた。

 いまだ洋風の建物が珍しい東京で、ぽっかりヨーロッパが紛れ込んだ風の区域を真ん中に置き、海軍兵学校の逆側、丁度東京と海外が混ざり合う場所に金田の屋敷はあった。

 桂木邸よりもこじんまりとしてる瀟洒な洋館は、財産家の金田家が所有するもので、金田本人専用の屋敷なのだという。千紗の想像とはスケールが違う。

 モグラ叩きゲームのモグラのように頻繁に顔を出入りさせている男がドアの向こう側で偉そうにふんぞり返っていた。この屋敷の主であるはずの金田だ。

リス語を勉強するのに、この場所は丁度いいのだよ」

「……金田さん。私、別に取って食いはしませんけど。そもそもこの前から私に慣れるほどに進化したんじゃなかったんですか? また退化してますよ」

「ふむ、先日はまでは「一応、慣れていた」と解釈してくれて構わないだろうね。しかし、会話をするにはやぶさかではない」

「………」

 偉そうには言っているけれど、つまりは出会った時と同じような人見知り現象が起きているのだ。

 千紗と桐野が案内された応接室は、白いカバーの掛けられたひとり掛けが三脚。やや広めの椅子が二脚にテーブルやサイドテーブルの置かれた、淡いクリーム色で上品にまとめられた明るい一階の一室だった。

 千紗はソファーに浅く腰かけている。深く腰かけるとまた眠ってしまいそうだ。昨夜からの逃避行で足は悲鳴を上げていた。

 それでも桐野が日本橋から新橋まで鉄道馬車に乗せてくれたから、大分千紗の体の疲れは落ち着いてきている。激しく揺れ、臭いが鼻を衝く馬車でも十分寝られるものだ。桐野の肩に頭を預け、千紗はすっかり寝入ってしまった。

 不貞腐れた桐野に起こされたのは、新橋の駅に着いてからだ。

 起きるなり間近にあった顔に照れる暇もなかった。引き摺られるように車外に降ろされて「僕に衆道の気はない」と憤慨された。なるほど学生服の千紗と着流し羽織姿の桐野であれば、例え中身は男女であっても周りの目からするとそうはいかない。

(怒るくらいなら起こしてくれてもよかったのに)

 次いで、羽織に涎を垂らしたことに厭味を言われた。

 眠っている間の腹の虫がうるさ過ぎて桐野はと言えば休む暇もなかったのだという。新橋の端でパンを買って、袋ごと突きつけられた。腹を鳴らしている人間とは歩きたくないらしい。

 パンは紙袋に驚くほどたくさん入っていた。

 一緒に食べるのかと思いきや、桐野は腹がいっぱいだと背を向けた。結局、総て千紗が食べてしまったけれど、ほんのり甘くておいしいパンだった。

「君のその道化も何度も着ていると慣れてしまうものだな」

 その部屋に繋がったドアの向こう側、金田が顔を半分覗き出し声だけが聞こえてくる。

 一方桐野と言えば、部屋に入るなり用意された洋菓子を一心不乱に食べていた。

(……この時代には高級すぎる菓子だとはいえ、なんとなく腑に落ちない)

 絶賛人見知り警報発令中の金田と千紗との仲介になるという考えは桐野にはないようだ。手伝うという好意を拒否した千紗が不貞腐れるのもなんだけれど。と、ちらりもの言いたげな視線を横へと流す。

 シュー・ア・ラ・ケレームと桐野が呼んだものは千紗の目から見てもシュークリームそのものだ。

 ころんと丸い中に黄色いカスタードクリームが入っている。確かに空腹ではないはずの桐野が一心不乱に食べるほどにはおいしそうではあるのが悔しい。先ほどパンを袋いっぱい食べた千紗でも、菓子は別腹で気になってしまう。 

 千紗の前にはというと香ばしい焼き菓子が皿に乗せられていた。マドレーヌだ。

「臭いものでもずっと共に居れば鼻も慣れると言うだろう。先日の現象は其れに近いのだと、今僕も思っていたところだ。実に、僕もこの状況に驚いているのだよ」

 つまりは悪臭で鼻が馬鹿になったというところか、言うなれば千紗がごみみたいなものだ。

 美人も三日で慣れる、とは聞いたことがあるけれどその説明にしようとはつゆほども考えなかったらしい。またあの状態に戻るには同様の時間をかけなくちゃ駄目なのだろうか。

(結構面倒くさいな……)

 千紗は座った視線でじろり、ドア向こうを睨んだ。呵々、と笑い声が聞こえる。

「……何気に失礼ですね」

「まぁ、マダレーンヌでも食べ給え。君たちの為に米津風月堂から取り寄せたのだ」

「……そりゃ頂きますけど……話があるので早めに慣れてくださいね」

「勿論、善処しよう!」

 何の後ろ盾もない自信ありげな返答に、千紗は小さく嘆息して学生服に包まれた右手をマドレーヌに伸ばした。

 口に入れると甘くサクサクした歯ごたえと口内にバターの香りが広がる。桂木のものにも劣らない美しいティーセットに注がれた紅茶は、琥珀色を湛えて香しい匂いを部屋いっぱいに漂わせている。

 桐野は二個目のシュークリームを食べ終えたところだった。

 少し慣れてきたらしく、金田がドアの縁に背を預けて笑った。

 奇天烈な中身とは全く相反して、見目だけは麗しい。千紗からでもぱっと見、商社マンのように見える金田はシャツの上にウエストコートを身に着けていた。野暮ったい風体の桐野とは全く違う、洗練された格好だ。

「君はまた朝食を抜いてきたのだろう。桐野君はいつも腹を空かせているのだなあ」

 金田の声に千紗は顔を上げた。

 千紗にパンを押し付けてきたとき、桐野は「腹は空いていない」と応えた。千紗の突き刺さるような視線に気づいたのか、桐野は仏頂面で三個目のシュークリームを金田の皿から取り口に放り込み咀嚼する。

 少し、耳が赤い。

「僕のことはどうでもいいでしょう。放っておいて下さい」

 桐野は小さく嘆息すると桐野の話を両断した。しかし金田の話は終わらない。

「君の収入では、原稿用紙代と下宿屋でかつかつだろう。貧乏書生なのだから素直にここに引っ越してきたらいいのに、まったく頑固な男だ」

「金田さん、僕はそんな話をしに来たわけではないのです」

「そんな拒否をしても、桐野君は金田家の書生なのだ。君の部屋はここに用意してあるのだよ?」

「帝國男子があんな欧羅巴被れした部屋に住めるわけないでしょう。使用人棟に用意して下さい、と何度も言っているではないですか」

「然し、君は僕の客人だからね。使用人ではないのだ」

「……あの」

 千紗の声に話に夢中だった二人が振り向いた。

 一方は話を止めた千紗に僅かな苛立ちを向けて、もう一方は少しずつ千紗に慣れる自分がおかしいのか笑いを含んだ視線だった。

「しょせい……って何ですか?」

 千紗の質問に、桐野は大仰なため息を返す。そんなことも分からないのか、といった風だ。応えてくれたのは金田だった。

「書生とは、学業を志している人間のことだよ」

「学生……ですか?」

「正確には桐野君の場合は学生とは違うのだが、学業や芸術等を志している人間を僕は総称してそう呼んでいるだけだよ。まぁ、桐野君の件は僕の道楽なのだけどね。彼の才能を伸ばす為に、金は厭わないということだ。わかるかね?」

 要はスポンサーというところか。金田に聞かれ、千紗は頷いた。

「ふむ、宜しい。本当は金田家に下宿して思うがままに執筆に勤しんで欲しいのだが、この頑固者が其れを由としないのだよ」

「僕は人の助けを借りたくないのです」

 金田は言い切った桐野を見て「これだ」とため息をついた。その仕草すらどこか芝居じみている。

「先生も書き始めは講師を辞してからだというから、君たちは本当に似た者師弟なのだな。本当に自分を追い詰めないとやる気にはならないらしい。先生は方丈記の一文でalone in this world.と翻訳したが、まさかそれが本当なのだと思っているわけではあるまいね?」

 それに対して、桐野の返事はなかった。

 千紗は金田の言葉に聞き捨てならない内容があった気がして、ゆっくりと手を上げる。

「あの、先生は小説家なんですか?」

「それも知らなかったのか」「その通りだよ、千紗君」

 返事は同時にやってきた。

 あの状況でどうやって先生が小説家であると結びつければよかったというのか。

(大体文章を書くんじゃなくて、いつも本を読んでたじゃない)

「先生は文芸誌に小説を掲載しているのだ。ホトゝギスという名に聞き覚えはあるかね?」

「……ホーホケキョ、っていうあれ、ですか?」

 ふむ、と金田は意味ありげに頷いた。一方、桐野は「このとんまが」と毒舌を吐く。

「文芸誌の名だよ、つまりは雑誌名だ。六月号のあれは実に切羽詰っていた物語だったな。自転車に乗る主人公が実に滑稽だった」

「小説家……」

 千紗は俯き、小さく呟いた。その姿に違和感を感じたのか、桐野がこちらを向かないままでソファーの背に羽織に包まれた背を預ける。ぎしり、とソファーが啼いた。

「なんだ。先生が物書きだと何か文句があるのか」

「それを言うならば、桐野君も物書きの卵だろう。まぁ、卵が孵るかどうかは本人の意思にかかっているのだがね」

「金田君はいい加減、僕の話題から離れてくれないか」

「ならば桐野君、突っ込まれるような行動は避けたまえ。君は兎に角何も考えずに文を書き続ければ好いのだ」

「人の精神を掻き乱しておいて好く言う」

 ふたりの軽口の応酬も千紗の耳から逃げていく。

 ―――――――私の父親は物書きで研究家だったのだってよ。

 祖母の声が千紗の中に蘇る。夢見るような口調で思い出す祖母には、両親の顔の記憶はほぼなかった。幼いころに失った両親の思い出を、少しずつ幼いころに預けられた親戚の言葉を借りて思い出していくだけなのだ。

 そして、千紗もまた何かのキーワードで突発的に思い出す記憶をパズルのように組み立てていく。

「……研究家、というのは?」

 千紗が桐野と金田の顔を見渡して問いかけると、ふたりは揃って訝しげな表情を浮かべた。桐野は空になったカップをテーブルへ戻し、金田は組んでいた腕を下し一歩部屋に足を踏み入れる。

 最初に口を開いたのは桐野だ。

「何か……思い出したのか?」

 千紗は桐野の言葉に首を振った。気遣う桐野の視線が胸を締め付け、息苦しくなる。これから先は聞きたいような聞きたくないようなそんな複雑な感情が鬩ぎ合った。

「我々は皆、研究の徒なのだよ。千紗君。しかし、何らかの研究家として絞るのであれば―――」

 話の途中で開け放たれたままのドアが二度、ノックされる。

 すう、と金田の声に緊張が走った。千紗と桐野の方から視線を動かさず、ドア向こうにいるはずの使用人を咎めるような口調で声をかける。

「何だ、客が来ていると言ったはずだがね」

「とよ、と名乗る女性がいらっしゃられて居ります」

「……通してくれ。ああ、今日は「通訳」は要らない」

「畏まりました」

 金田家には幾人もの使用人を雇っているらしい。一歩、前に足を踏み出し見えた漆黒の使用人服を着た男性使用人が、頭を下げて身を翻す。

 地模様が上品なアイボリーのカーテンの向こう側から眩い日射しが入ってくる。応接室はいい具合に暖められて、残った疲れで眠ってもおかしくないほどだ。それでも、この状況が許さない。

「……あの」

 何となく先に繋がる人には千紗も予想がついている。それでも金田の言葉の続きを聞きたかった。それなのに金田は口を閉ざし、桐野もまた何か考え込んでいる素振りで口を噤んでしまう。

 千紗は何か言いかけて、結局同じように俯いた。

(……とよさんが来たらわかるかもしれない)

 導くべき回答は、黙っていても飛び込んでくるのだ。マドレーヌがまだ半分残ったままだったのを眺めながらそれに手を伸ばす気にもなれず、小さく千紗はその場に立ち上がり、廊下に向くと深呼吸をした。

 そして足音が聞こえるなり、千紗と同じ年齢ほどの着物姿の女が飛び込んでくる。

 すぐに身に降りかかる衝撃。

「……伊沙子様っ!」

「!!!!! あ、あのっ!」

 何も聞かずにいきなり抱きつかれ、千紗は目を白黒させた。しっかりと首を抱く腕の中で、涙声のとよが伊沙子の名を連呼している。

「おい、当人が戸惑って居る。手を離した方がいいのではないか」

 桐野が不愛想に吐き捨てると、やっととよは千紗の体から身を離した。泣き腫らした目は丸く垂れている。薄い唇はまだ涙を堪えているように細かく震えていた。

 先ほどまで雄弁だった金田は、再びドアの向こう側でモグラとなっている。

(通訳はいらない、ってそういうことか)

 桐野がとよとの会話を仲介する、ということだろう。千紗は心の中で頷いた。

「よくぞ、ご無事で……伊沙子お嬢様が失踪されてと聞いて、私……もうどうしたらいいか」

「とよさんは関係無かったのに、ごめんね」

 力が抜け絨毯にしゃがみ込むとよの体を、千紗はおどおどと抱え込んだ。

 ずっと仕えていた主人が自分のいない場所で失踪したと知れば、気が気ではなかっただろう。強制的に責任を取らされて辞めさせられたとよは、恐らく伊沙子が見つかったことを金田に知らされるまで知らなかったに違いない。

「いいえ、いいえ、とよは好いのです。伊沙子お嬢様にお怪我がなくて、苦しんでいないのなら好いのです」

 はらはらと絨毯に落ちる涙に千紗は眉を下げた。

 もし、とよの大切な伊沙子お嬢様はこの身から消えて、今は未来から来た千紗が入っていると知ったのならどう思うのだろうか。それでも体だけでも無事にいたとでもいうべきなのだろうか。

「お涙頂戴の話をするためにここに来たわけではあるまい。さっさと必要な話を始めたらどうなのだ」

 ばっさりと桐野がとよの話の先を切り捨てた。

「僕らの時間は有限ではない。そこの面倒な男が、慣れぬ人間がいると作動しないのだよ。話すことを話して、さっさとこの部屋を去り給え」

 あまりの言い方に、千紗が桐野を振り返る。ソファーから身を動かすことなく、桐野は腕を組んで考え込んでいるようだ。

「桐野さん、そんな言い方は―――」

「お嬢様、好いのです」

「……でも」

「私がずっと此処に居れば、史郎様にも勘付かれましょう。もうこれ以上、金田様に迷惑はかけられません」

 とよは首を振った。桐野に向き直る。金田の方を向かなかったのは、先日訪ねてきたときにどんな状況になったのか覚えがあったのだろう。

「伊沙子お嬢様は、養子に出されていた頃に出会った方を「先生」として慕われておりました。伊沙子様が十三の頃から二年間、洋行されていたと聞いております。再会は十四の歳、十五歳から十六歳までの一年間のみ下谷の長屋で長屋町の子供たちの「先生」となっていた折、伊沙子お嬢様もお手伝いして居た、と」

 桐野は「洋行……」と呟いた。

ロンドン、と聞いております。記憶を失う前の伊沙子お嬢様が史郎様の目を盗み会って居たとしたら、其の方しか私には覚えが有りません。何の役にも立たないのならば申し訳御座居ません」

 そう言うととよは千紗に頭を下げ、後ろ髪を引かれるように部屋から出ていった。もう少し何か話したかったような気もするし、これ以上何かを知るのも怖いような気もした。

 とよが去って、金田も本調子を取り戻したのか。応接室の窓際に立ち、千紗と桐野を振り返る。逆光で金田の顔は影に覆われている。どこか、厳しい顔をしていた。

「彼の人は総てご存じだったようだね、桐野君。若しくは君も半分は予想がついていた、というところか」

 問い掛けに、桐野が嘆息する。開けた膝に両肘を置きその上で握った拳を額に当てた。

 千紗にもなんとなく気付かされていた。このふたりが言葉を濁す「先生」なる人物はたった一人しかいない。震える指を抑えようと、もう一方の震える手を重ねる。

「先ほど言いそびれたのだが、物書きで研究家の上に伊沙子嬢の知り合いとなるとかなり範囲が狭まるのだよ」

 金田が窓際に背を預け、腕を組む。

「君は本郷で会った「先生」なる人間と浅からぬ仲だったようだ。君の記憶を戻すには彼の人とまず話す必要があるらしい」

「………」

 千紗君さえよければ我々がその手伝いをしようではないか、金田は言った。その言葉には異議があるらしい、桐野が眉を寄せて頑なに俯いていた顔を上げる。

 そんな咎めるような桐野の視線を金田は無視して、重ねた足を逆に組み直した。

「其れには条件があるのだよ、千紗君」

「……条件ですか?」

 全く以て見当もつかない。聞き返した千紗の視線を真っ向から受けるのに慣れたらしく、金田は唇に薄笑いを浮かべた。

 条件は別の場所から発された。

「記憶を失った人間が何故失う前とは全く別の名を名乗るのか。地理も言葉も生活も何ひとつ覚えていないお前が唯一覚えていたのが、名前だ」

 立ち竦んだまま、千紗はまるで機械仕掛けの人形のように桐野を振り返る。

 睨み殺しそうな鋭い視線を受けて竦み上がった。騙された、と思われているわけではないだろう。それでも、千紗が何かを隠しているのにこのふたりは気づいているのだ。

「尾崎 千紗とは誰なのだ。桂木 伊沙子に其の人間との繋がりが見られなくては、先生に会わせるわけにはいかない」

「彼の人は兎に角、繊細なのだよ」

 全く違う空気を宿して、ふたりは言った。

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