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明治逢戀帖  作者:
第五章 水鏡ノ月
32/61

「……え」

 耳に入ってきた言葉は意外過ぎた。

 千紗は思わず「助けてください」とつい答えかけた唇を強く結ぶ。頑なに表情を見せようとしない桐野は深く俯いたままでいる。乱暴にかき上げた髪の毛が指に絡んであちらこちらに飛んでいる向こう側で、桐野の顎の線が見えた。

 どういう気持ちの変化なんだろうか? あれだけ千紗を疎んでいた素振りだったのに、桐野は千紗のことを手伝ってくれるのだと言ったのだ。

(でも)

 千紗は結んだ唇を強く噛んだ。

 千紗を手伝うせいで命を狙われるなんて馬鹿げたことを聞いたら、この手はすぐに引かれるに決まっている。一度、大立ち回りを演じたせいで伊沙子に手を出す害虫として史郎に駆除されかかっているとでも聞いたら、桐野はどう反応を返すのだろう。

 それこそ面倒なことに巻き込まれたくないと思われるだろうか? もしくは、桂木に戻る千紗を次こそは本当に止めるのかもしれない。

(止めて……くれるのかな?)

 止めてくれると嬉しいと思う。伊沙子のことだけではなく千紗のことも気遣ってくれたら、とも思う。

 この気持ちは危険だ。曾祖母の生きる時代の人間に、こんな気持ちを抱くなんて馬鹿げている。そもそも重なることのない線が悪戯でちょっと触れ合っているだけなのに、千紗にはこの淡い気持ちを制御することができなくなっている。

 共にいることができるならきっとすごく心強いだろう。だからといって、簡単には桐野の助力を仰ぐことはできなかった。簡単に折れてしまいそうな気持ちを奮起させて千紗は心を決める。

 断るには勇気がいった。口にする前に一度小さく深呼吸する。

「何にもないです」

「……は?」

 あっさりとした千紗の返事に桐野が顔を上げた。

 その反動で、するりと桐野の指は千紗の手首から離れていく。熱が手首から消えていくのを寂しいと思う自分がいる。

 流れる前髪は丁度真ん中で別れて、いつもは隠れている顔が千紗にもはっきり見えた。やっぱり桐野は歳の割に幼い顔をしていた。もしかすると長すぎる前髪はそれを隠す為なのかもしれない。

 好意をあっさり蹴られたのが余程不快だったのだろう。桐野は僅かに上気した顔をしていた。

 屈みこんだままで顔を歪ませた桐野が、喧嘩腰で噛みつくように口を開く。

「ないって……何か少しくらいっ! ……ほら、色々と……その、あるだろうっ?」

「自分で何とかできます」

「………」

 即答も二度目だと桐野の眉間にこれでもかというほどにぐっと深い皺が寄った。

 頑固な人間だと思われてしまったかもしれない、と千紗は奥歯を噛み締める。

 物事が次第に大ごとになっていく総てをひとりで背負うのは苦しすぎて誰かに荷物を委ねてしまいたくなる。あの銀座のビアホールの時のように、史郎には負けない強さを持つ桐野なら千紗が寄りかかっても倒れないような気もしてしまうのはただ千紗の弱さゆえだろう。自分に負けちゃ駄目だ、と千紗は自分に言い聞かす。

 手を借りるのはきっと簡単だ。ここで頷いてしまえば、明治時代の強力な助っ人を千紗は得ることができる。わかっていた。でも――――――

 ここで千紗が桐野との絆を深めても、きっと伊沙子の役には立たないのだろう。

 千紗が存在しなくては、桐野との絆がここまで深まることはなかった。そうなるとこの出会いはそもそも「イレギュラー」だ。

 誕生日を迎えた時に千紗が現代に戻るとして、伊沙子に無駄な禍根を残したくはない。そして、

明治時に未練を残したくはないもの)

 現代の千紗はこれからの未来を選び取るまだ学生だ。この時代の伊沙子は同じ年齢だというのに、すでに意に沿わない相手と結婚が決まり未来が確約されている。本来の相手と添い遂げることはわかっているのに、その後は短いその一生を終わらせるのだ。

 それならば、できるだけ急いで探してあげたい。

 ―――そして、すっきりした気持ちで現代に戻りたい。

 桐野は、千紗から少し離れた正面で立ち上がる。俯くと顔は前髪に隠れて、数歩離れた千紗からもまったく見えなくなった。

 着物に羽織、相変わらずの格好だ。学生服姿の千紗と並ぶと兄弟に見えるだろうか。どうせなら伊沙子の着物を着た姿で桐野に会いたかった、そう考えた自分がいて少し胸がつきんと痛む。

 桐野は骨ばった拳の色の変わるほどに握りしめていた。

「人の……人の好意をなんだと思っているんだよ。僕だって暇じゃないのに、わざわざ困っているみたいだから手伝ってやるって言っているんだ」

「じゃあ……さくちゃんの家を教えてもらえれば。それだけでいいです」

 取りつく島のない千紗の返事に、桐野がぐっと言葉に詰まらせた。

「たかが自分の家から出てくるだけで、そこまでの怪我をしておいてっ! 僕が、新橋の時と同じく助けてやるって言っているんだよ。お前は、前みたく素直に頷けばいいだろうっ? 大体―――」

 言いかけた声がばたりと止んだ。それと同時に子供たちが数人、広場に駆け込んでくる。

 少年がふたり、少女がふたり。追いかけっこをしながら角を曲がってきた子供たちは、いつも通りに近くに転がる木箱を各自持ち寄って腰かけて足をばたつかせる。

 千紗と向かい合って喧嘩腰になっていた桐野は、口を噤んでしまう。千紗もまた、逃げるように子供たちに視線を流した。探そうとしていた少女の姿もそこにはある。

(桐野さんの手を借りなくてもよくなっちゃったな)

 安心したようながっかりしたような、複雑な気持ちだ。

 子供のひとりと視線が合った。

「あ、お兄ちゃん」

「どうしているの?」

「お勉強しにきたの?」

「違うよ、ちょっとお話に来たんだよ」

 千紗はひとり気づけば次々とやってくるうちの足にしがみついた子供の背中を撫でる。

 薄汚れた着物の袖はほどけ、肘が半分見えている。荷造りの紐のようなものでひとつにくくった髪の毛が、絡まっているのも見えた。

 最初は、どことなく溝臭さとごみ臭さの混じる饐えた臭いに潔癖すぎる現代で生きる千紗が抵抗を感じざるを得なかった。それなのに明治時代という混沌とした時代に放り込まれてひと月もしないうちに、千紗はこの状況に馴染みつつある。少しずつ感覚が鈍くなってきているのかもしれない。

「ちさねえちゃ」

 伸びてくる手に、反射的に笑みがこぼれた。

「さくちゃん、だね。今日はあなたとお話に来たんだよ」

「お話?」

 千紗の話を聞いて、さくは首を傾げている。

 小さな両手を握って千紗はしゃがみこんだ。背中に突き刺さるような桐野の視線を感じている。

 千紗はそれに気づかないふりで、さくの頭を撫でた。どこか湿っていて、温かかった。

「お姉ちゃんね、自分のお名前も何もわからなくなっちゃったんだ。だから、さくちゃんの知っているお姉ちゃんを教えて欲しいと思ったの。お姉ちゃんの名前、千紗……っていうのかな?」

 さくは少し考え込んで、首を振る。

「……違うの。ちさこなの」

(伊沙子……)

 舌っ足らずで恐らく「いさこ」とは呼べず「ちさこ」になっているのだろう。千紗は内心の動揺を隠しながら頷く。やはり伊沙子は過去、この長屋に来ていたのだろう。

「お姉ちゃんね、昔ひとりでここに来ていたのかな? 覚えている?」

 さくはふるふると首を振った。

「ちさねえちゃにはいっぱい会ってないの」

「最近は会っていない……ってことかな? さくちゃんの会ったお姉ちゃんはどんなお姉ちゃんだった? ほかの皆は知らないかな?」

 千紗の言葉にさく以外の三人が首を振った。

 伊沙子がこの場所を訪れていたのは一年も前のこと、しかも行動を史郎に管理される前までのたった一年間のことらしい。出入りの激しい長屋町で一年以上前からいるのはさくだけで、しかもその時さくは二歳だ。それ以降のことを覚えていなくてもなんら不思議なことではない。

 千紗はため息をついた。

(ここで得られる情報はこれだけ……かな)

 だとすると、次はとよに話を聞かなくてはいけないだろう。伊沙子の恩人の話を聞けば、少しは事態も変わるのかもしれない。

 不思議そうに千紗の顔を見上げるさくの頭を撫でると、千紗は笑いかけた。

「ありがとう」と言えば、さくは嬉しそうに頷いて他の三人のもとに走っていく。子供たちは今日の授業をないものだと判断したのか、四人で追いかけっこを始めると角向こうに走り去ってしまった。

 再び、静かになる長屋の間に少し強い風が土埃をまき散らしていった。乾燥した土はあっけなく風に吹かれて飛んでいく。

 千紗は立ち上がった。背後で立ち竦む桐野に振り返る。

「……桐野さん」

 置いてけぼりにされた子供のように桐野はただその場に立っていた。どうしてなのかその姿があまりにも心細そうで、千紗は口を開くのを一瞬ためらった。

 その一瞬で、桐野が先に切り出す。

「……何、やっぱり手伝って欲しいとか虫のいい話はないよね? 最初に断っておいて、今更言い出しても―――」

「本郷に行かずに金田さんに会うためには、どうしたらいいですか」

「……っ!」

 千紗の言葉に少なくとも桐野は傷ついた顔をしたと思う。不機嫌に歪んだ眉が前髪の向こう側でもはっきり見えたのは、桐野が邪魔な前髪をかき上げたからだ。

 上気した顔の中で、桐野の唇が片方だけ無理に持ち上がって笑う。

「……僕じゃなく、金田君の方がいいって言うの」

「違います! そういう意味じゃなくて―――」

 囁くように自嘲する言葉が聞こえて、千紗は跳ね上がるように首を振った。

 千紗は桐野に何か誤解をさせてしまったらしい。桐野ではなく金田を選んだわけではない、そう言いたかったのに言葉は遮られてしまう。

「金田君なら確かにお前との家柄も釣り合っているだろうし、桂木の名家と金田の家なら乗り換えてもおかしくないか。膨大な婚約金も肩代わりしてくれるだろうね」

 投げやりに出てくる言葉に千紗は唇を噛んだ。

 会うといつもこんなことばかりを繰り返していると思う。互いの言葉に傷ついて、素直な言葉を吐けなくなってしまう。

(今だって、桐野さんに助けてって言うことができたらこんなことにはならなかったのに)

 まるで総てがうまくいかないように操作されているみたいだ。千紗は拳を握りしめた。

 深入りしないように、互いの距離をうまく取れるように何かかしら噛み合わなくなっている。伊沙子の運命の人を探すために千紗の意思はきっと無視されているのだろう。

 さっきの強い風のせいで口の中に土埃が入っていたのかもしれない。噛み締めた奥歯が一度じゃりと言った。

 何か言い訳をしようと千紗が口を開く前に、桐野が重い口を開いた。

「……いいよ。金田君のいる場所に案内してあげるよ」

 素っ気なく言い捨てると、桐野は千紗に背を向けた。たった数歩の距離なのに間に土埃の風が吹くととてつもなく遠い背中に見えて、千紗は何も言えずに駆け足で桐野のあとを追いかける。

 できるだけそばに近寄らないように心がけなくちゃいけないことを、千紗は凄く哀しく思った。

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