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明治逢戀帖  作者:
第五章 水鏡ノ月
31/61

 ぐらぐらと体を揺らされて、深い闇の淵から千紗の意識が浮き上がった。

「……っ、おいっ……!」

 聞き覚えのある声が聞こえた。覚醒し始めると痛いほどの日差しが瞼の裏を焼いているのがわかる。血の色を透かし、千紗の眼球にまでその眩しさは届いてきた。

 その心地よい日差しをぶち壊す大声、激しすぎる揺さぶりに誘われて千紗はやっとのこと重たい瞼を持ち上げる。

 目を開けるなりまず視界に入ったのは、大きく見開いた眼。

 間近に寄った前髪でほとんどの顔を覆い隠した正面顔。

 いつもは不機嫌そうな表情をしているのに今はその片鱗も見えなかった。口は真横一文字に引き結ばれているのは、千紗の反応を待っているのかもしれない。

(懐かしい……って思うのも、変なのかな?)

 一度、二度と目を瞬いた。どうしてか何年も会っていない人のように感じる。嬉しいような苦しいような不思議な感覚が千紗の胸を占めていく。

 日差しは今や、桐野の頭に被り千紗の顔に影を落としていた。随分と千紗は寝過ごしたらしい。昨夜、人目につかない場所を選んだのは正解だ。

 眩しい、と思ったのは、桐野の無造作に散らされた髪の毛が陽の光を浴びてきらきらと光っていたからだった。日差しに温かさを感じるのは空へ高く太陽が上がっているせいだろう。もしかすると朝と呼ばれる時間を過ぎ去り、昼も間近なのかもしれない。

 千紗は声を出そうと喉を絞った。それでも聞こえるか聞こえないかというほどの声しか出ない。

「……桐……ん……?」

「なんだ……一応、生きてはいるんだな」

 ぼんやりと虚ろな視線を桐野に向け頷くと、ほうとため息のあと桐野の肩の線がゆっくりと下に落ちた。強張った桐野の表情が僅かに緩んで、今にも触れ合いそうだった桐野の顔が後ろに離れていく。

 千紗はのっそりと周りを見渡した。

 昨夜は随分と閑散として寂しげだった長屋町には、あちらこちらから人の気配が感じられる。かさついた空気に混ざる出汁のような匂いに千紗の腹が小さく鳴った。

 それを誤魔化そうとしてかすれた老婆のような声を出す。

「……もう朝、ですか?」

「朝なんかとっくに過ぎてもう少しで昼ドンの時間だよ。こんな物騒なところで眠りこけるなんて、お前不用心すぎるにもほどがあるだろう」

 壁に頭を預けたまま、摺り上げるようにして千紗が空を仰ぐとなるほどに太陽は高く上がっている。

 膝に挟んだままだった両手はいい具合に温まっていて、学生服の黒さもあいまって太陽光を程よく集めた体は布団に包まれたようにポカポカしていた。昨夜が思ったよりも冷え込まなかったのも、ラッキーだった。もう少し季節がずれた時期に野宿するのは、さすがに千紗も風邪を引いたに違いない。

 とはいえ、唇はかさつき、水を求めて咽喉は張り付いている。立ち上がろうと足を動かせば、引きつれるような痛みが走った。悲鳴を上げそうになって奥歯を噛み締める。

(そうだった。怪我してたんだっけ)

 できるのなら桐野には知られたくない。小さく息を飲んだことをごまかそうと、学生帽を深く被り直し千紗は深く俯いた。大きめの学帽でいい具合に引き攣った顔が隠れる。

「眠りこけるつもりまではなかったんですけど、確かに少し不用心だったかもしれませんね」

 声だけで笑ってごまかせば、速攻で頭上から苦言が降ってきた。

「少しじゃなく「かなり」だろう。ここは一応だとはいえ、貧民街だ。お前みたいなのが寝ていれば、追剥ぎのいい鴨だ。大体、どうして桂木のご令嬢がこんな場所で寝こけているんだよ」

「……それは、ですね」

 何を言えばいいだろうか。うまい言い訳が思い浮かばず口ごもった千紗の脳裏に、

 ―――あの男に連絡を取ろうとしてみろ。次こそ、あいつを切り捨ててやる。

 あの時の史郎の言った言葉が脳裏に浮かんできた。あれは、決して冗談なんかじゃない。

 木箱に座り込んだ千紗へ射し込む太陽光を遮り前に立つ桐野の顔が、影に覆われているせいでよく見えた。千紗の軽挙を窘めながら返事を待つ顔には、つい先日には突き放すようなことを言った人間と同一人物とは思えない気遣いが見えるのが苦しい。

 「別に……大した理由はないです」

 千紗は言葉を濁した。

 咎めるような桐野の視線を顔を背け、躱す。

「そんなことより、今日の授業はお休みなんですか?」

 襲い来るだろう痛みを覚悟して、千紗は木箱から足を下す。

(……っ!!!!!!)

 声のない悲鳴を内心で上げる。想像していた通り、いや、想像以上の痛みがふくらはぎに走った。乾いた血が引き攣れて傷ごと開いたのだろう。足を伝う粘液の感覚が気色悪い。

 立ち上がろうとした千紗へ手を貸そうと思ったのか、横から手が伸びてくる。人に手を出すのを厭わないのは桐野の性分だろう。口は悪いけれど結局放っておけないのだ。

「ちょっと話を聞きたい人がいたんで、ここに来てたんですよ。私」

 千紗は敢えて見えないふりをして、壁に手を置くと奥歯を噛み締めて立ち上がった。

 視界の端で行く当てを失った桐野の指が宙に浮いているのが見えて、その手を無視することしかできなかったことを心苦しく思う。

「……話?」

「この間、知らない私をちさねえちゃって呼んだ子いたじゃないですか」

「ああ、さくだね」

「その……さくちゃん、って子に会いたいんですが、桐野さん。家を知りませんか?」

「知ってるよ、案内しろってこと?」

 厭味がわずかに混ざった返答に、千紗は首を振った。

「いえ、場所を教えていただければ自分で行きます。桐野さんのお時間は取らせません」

「同じような長屋が続く慣れない町を、口頭で住所が探せるって?」

 千紗の言葉は強がりだと思われたのだろう。嘲笑が桐野から返ってくる。

「お前、その地理勘の無さで小石川からどうやって下谷まで来たんだよ」

「……!!!」

 前置きなくしゃがみこんだ桐野が、承諾なく学生ズボンの裾を上げた。

 千紗が痛みを我慢していたことなど、とっくにお見通しだったのだろう。ただ、桐野にもその傷の酷さは想像以上だったらしい。さっと顔色が変わったのが見えた。

「ば……馬鹿っ! これで歩いてくるなんて、無理をするにもほどがあるだろうっ!」

 桐野は片膝をついたまま、千紗の顔を見上げると血相を変えて怒鳴り散らす。

(うわ……これは確かにすごい)

 ふくらはぎには十センチほどの切り傷があり、その周囲は赤黒く変色していた。あちこち固まっている黒いものは血が固まったもので、足首までその痕は続いている。バックりと開いた傷の隙間からピンク色の肉が盛り上がっていた。そこからも際限なく球状の血がぽつぽつと滲み出ている。

 よくぞこんな状態で、と自分でも思った。

「あんまり遠くないって言われて、吉原の近くだって聞いたから……それで」

「それじゃあ、遠回りなんだよっ! 馬鹿っ! 大体……何もかも考えなし過ぎる!」

 乱暴に千紗を突き飛ばし、元の腰かけていた木箱に座らせると桐野は懐から布を出した。歯で器用にそれを裂くと、布が悲鳴を上げながら長細く切れていく。

「水……はここらにはないから、傷の保護だけして薬……、はぁ」

 ぶつぶつと文句交じりの独り言を呟きながら、桐野は短く嘆息した。手際の良さに、千紗が遠慮する暇もない。

(桐野さんにはもう頼らないって決めていたのに)

 巻き込んでしまいそうになる。こんな姿を見ると決心が鈍ってしまう。

 桐野が、丁寧に布を巻いていた手をふと、止めた。千紗の顔を見上げず、俯いたままで口を開く。

「……小石川に戻って、記憶は? 戻ったの」

「いえ、戻りませんでした」

「無駄足だね」

 短く吐き捨てると、桐野は巻ききらなかった部分を覆うようにもう一本の布を巻き始める。

「自分でもよくわかりません。でも……私にはやらなくちゃいけないことがあるから、また帰ることになると思います」

 史郎が、伊沙子を放っておくとは思えなかった。千紗がどこかに匿って貰ったとして、そのまま十八の誕生日を迎えても伊沙子の助けにはならない。あの執着心の塊のような男が、伊沙子を閉じ込めてしまうのならば千紗の未来は無くなったにも等しい。

(桐野さんと一緒にはいられない)

 多分、会うのもこれで最後だろう。そう思うと、胸が痛む。

「突然、来てごめんなさい。ここなら、さくちゃんに会えると思って……桐野さんの手を借りようと思ったわけじゃないんです」

「……………」

 巻き終えたというのに、桐野は千紗の足元に跪いたままだった。

 桐野の手が離れたのを確認して、千紗は軽く足を持ち上げる。ズボンの中に傷が擦らないだけ大分痛みが軽減された気もした。これならもう少しくらい歩こうとする意欲も湧いてくる。

「でも、これはありがとうございました。凄く助かりました」

「傷」

「はい?」

「早く洗わないと、多分もっと酷いことになるよ」

「そう……ですね。なるべく早く……戻るようにはします」

「………そう」

 木箱から千紗は立ち上がり、長屋町を指さした。

「近くの人に聞けば、さくちゃんの家ってわかりますよね? 私、少し行って聞いてみま―――っ!」

 離れようとした腕を桐野が掴んで、千紗は息を飲んだ。

 見下ろした桐野は相変わらずしゃがみこんだままで、俯いた頭の天辺しか見えない。手だけがその羽織の向こう側から出て、千紗の手首より少し上を掴んでいる。

 思わず困惑した声が出た。

「……あの、桐野さん?」

「薬も……つけた方がいいよ」

 どうもそんなことで呼び止めたようには思えない。でも千紗は素直に頷いた。

「はい、わかりました。行き……ますね?」

「…………そう。勝手にしたら」

 返事はいたって何のことないのに、千紗の手首は拘束されたままだった。それに、声になんとなく違うものが混ざりこんでいる。

(……なんか怒っているみたい)

 塊のように、桐野の背中は強張ったままだ。少し動かしても掴む指は開こうとはしない。

「桐野さん?」

 千紗はゆっくりその羽織の背中に手を伸ばした。指が触れるか触れないかという処で、より一層激しく強張るのを見て思わず指を引く。

「あのっ、ごめんなさい」

 拒絶されたと思ってつい謝ると、同時に背中の向こう側から声が漏れ出る。

「………いの」

 桐野の小さな声は、屈んだ膝に邪魔されて半分も聞こえなかった。

 長屋の向こう側で小さな子供が遊ぶ声が聞こえた。授業は今日、昼ドンを合図にしていたらしい。空腹を誤魔化すつもりなのかもしれないし、桐野や金田が持ってくる菓子を楽しみにしているのかもしれない。

「桐野さん、子供たちがそろそろ来ますよ? 手を―――」

「だからっ!」

 桐野の声に苛立ちが混ざった。ぎり、と手首までずれた指が千紗の皮膚に食い込んで来る。

 片手がぐしゃりと柔らかな髪を掻きあげた。決して千紗の方を向こうともせずに、桐野はより一層深く頭を下げる。

 まるで地に頭をつけるのかと思った。

「……………僕に……何かして欲しいことはないの」

 神様に懺悔するかのように苦しそうに押し出す桐野の声が聞こえた。

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