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明治逢戀帖  作者:
第五章 水鏡ノ月
30/61

     ◆     ◆     ◆


 明治時代の夜はなんて恐ろしいのだろう。

 千紗は痛む足を引き摺りながら走っていた。

 現代の夜には数えきれないほどの街灯や看板灯、二十四時間営業のコンビニエンスストアもある筈なのに、明治時代の東京は大通りこそわずかなガス灯や電灯があっても一歩裏道に入れば、あっという間にそこは真っ暗闇になってしまう。

 月だけが黙ってこの顛末を眺めている。

「はぁ、はぁ……」

 もうそろそろ女中にはばれているだろうか。千紗は息の切れる忙しない呼吸を落ち着かせようと、ずっと動かしていた足を止めた。

 心臓が苦しいほど跳ね上がっているのがわかる。どれだけの間走りつづけただろう。全く見当もつかない。ただただ、必死だった。

「……この格好、汗を吸い取らないんだもん」

 都合よく闇に紛れる漆黒の学生服。

 たまに行き過ぎる人に道を尋ねれば、ぎょっと驚かれた。金田から餞別として貰ったこの服が意外にも役に立っている。繊細な紗の着物ではさすがにこんなアクロバティックなことはできなかっただろう。

 足を開き、あり合わせのもので作った命綱の届くぎりぎりから下へ飛び降りても着物では自由が利かない。あんな高いところから飛び降りることができたのは、ただ単に覚悟と度胸ゆえだ。伊沙子のようなお嬢様ではありえない、小学校の頃からずっと体育という授業を図らずも受けてきた現代っ子の恩賞とでもいうべきか。

「痛……っ」

 それでも運は多少足りなかったらしい。飛び降りる際、千紗は庭木に足をぶつけてしまった。

 走っている間、ずっと膝から下へじんじんと痛みが走っている。濡れた感触はきっと汗ではない。肉が裂け、血が流れているのだとは千紗にも薄々分かってはいた。それでも千紗はズボンを上げ、傷を確認しようとはしない。

(……だって)

 ―――傷を見たらきっと心が負けてしまう。

 もうだめだ、と思ったらこの逃避行は失敗に終わるだろう。

 史郎の傍から逃げ出すことができるのは恐らくこれが最後だ。久美子から今日の顛末を聞き、部屋に千紗のいないことを知った史郎が追っ手を差し向けるまで時間はない。一度捕まれば、あの史郎のことだ。二度までも千紗を逃がすことはない。

 千紗にはこの短い時間に知りたいことがある。

 ゆえに向かう場所はたったひとつ――――――下谷の長屋町だ。

 実は小石川から下谷まではさほど遠くはない。間に帝国大学や先生の家のある本郷を挟み、不忍池のある上野公園を突っ切れば行ける―――はずだった。

 しかし、そこに難点はある。明治時代の土地勘と現代の土地勘は必ずしも一致するわけではなく、見慣れた建造物などの目印などもない。しかも下谷の長屋町の近くには有名な花柳街である吉原があり、学生服の千紗が下谷の場所を聞くたびに道行く人は「この道楽息子が」と言わんばかりの視線を浴びせた。

「さっきなんてあからさまに逆方向教えるし……」

 女性に聞いても嫌悪感をあらわにされるだけだった。

 それからは女であることを見破られるのを覚悟で、千紗はあえて男に道を聞き続けている。微妙に生暖かい応援する視線で指さしてくれるのは気のせいじゃないだろう。男には「浪漫」というものが必要らしい。

(そういう意味で行くわけじゃないんだけど……)

 すでにすっかり夜も暮れ、空は漆黒に染まっている。眩いほどの空とはんなりした曲がかかる下谷にほど近い浅草付近に足を踏み入れたころにはすでに千紗の体力は限界になっていた。

 華やかな吉原に向かう道には、沢山の人力車や馬車が走っている。その中を足を引き摺りながら、千紗はとぼとぼと歩いた。深淵の闇を歩くよりは、多少心が落ち着いて行くのがわかる。

 夜も早い明治の東京の中、吉原のある浅草辺りは眠らない町だ。千紗は不忍池の間近を通り、上野公園を突っ切ることなく浅草方面から吉原方面まで来ていたらしい。吉原の北側に位置する下谷まではあと少しだ。

 茶屋の軒先を飾るいくつもの灯籠が、どことなく吉原付近を現代の繁華街に見せた。

 点滅する電灯を見ながら、千紗の住む時代にはもうすでに存在しない遊郭という場所に現代の姿を見ている自分を不思議に思う。

(綺麗……なのに)

 儚く脆い。ここで存在することが幻のようだ。アーチを描く鋳鉄製の門から向こう側はとても明るいはずなのに深くよどんだ闇を感じさせるとも思った。

 光があれば闇も存在する。下谷の長屋町はここの恩恵を受けて存在している。昼夜でその光と闇は逆転するのだろう。

 足を引き摺りながらやっとのことで辿りついた見覚えのある下谷の端は、真夜中ということもありひっそりと静まり返っていた。

 電灯どころかガス灯や蝋燭すらないのだろう。貧民街の中心ではないせいか、どことなくおっとりとした空気を持った小さな広場に人の姿は勿論なく、千紗は桐野が腰かけていた木箱を見つけそこにやっとのことで腰を下した。風雨にさらされていた木が千紗の体重に悲鳴を上げて軋む。

 売ることもできないようなごみが転がる中、少し秋めいた夜風が吹きっさらしていた。

「……疲れた」

 頭を木壁に預けると途端に眠気がきた。

 授業のマラソンでも学校行事の登山でもここまで疲れることはなかった気がする。固く編み込んだ髪の毛のせいで頭痛がひっきりなしで、足の痛みと連動してどこが痛いのか千紗にもよくわからなかった。

 今の千紗の状況を知れば、先生も金田もきっと救いの手を差し伸べてくれることはわかっている。それなのに、千紗は本郷の街を素通りした。今、あの場所に逃げるわけにはいかない。優しい人に触れたら千紗はそれこそ全く考えるのをやめてしまう。

(考えるんだ、とにかく諦めないようにしなくちゃ)

 物事はきっと明瞭だ。誰が千紗の曽祖父なのか、明確であれば伊沙子の身を預けることができる。祖母から聞いていた話はおぼろげにしか記憶になく、婚約中の大恋愛だったのだということしか覚えていない。それでも、

「……成功が確約されているんだもの」

 どんなに揉めて、大変な事態になろうとも千紗の存在がそれを明確にしている。史郎の手からは逃げ通し、伊沙子は愛する人との未来を掴むのだろう。―――あとはその相手を探すだけ。

「それが一番の問題だなぁ……」

 千紗はため息をついた。考えると肩の荷がどっと重くなった気がする。

 伊沙子の交友関係は極端に狭い。

 史郎は―――義理の兄なのだから対象から外れるだろう。そう考えると、伊沙子の相手となるべき人間は、今千紗が代理として出会った桐野と金田、先生を抜けば他にはいない―――はずだ。

 待てよ、千紗は指をピクリ動かした。

(……伊沙子さんの前のお付き女中のひと、とよって言ったっけ)

 伊沙子には恩人がいる、と言っていた。もしかすると、もしかするだろう。それが一番当たりに近い。

 千紗は壁に頭を預けたまま、目を開けた。両膝に挟んでいた両手を目の前に掲げ、指を折る。

「……十八になるまで五か月……か」

 それは長いようで短い時間だ。伊沙子の命が保障されたのは十七の最後の日まで、千紗と伊沙子が十八になるその日までが恐らくこの旅のタイムリミットだろう、千紗はそう考えている。

 そして――――――現代に千紗は戻る。

 つきん、と胸が痛んだ。

 この場所に来れば伊沙子を知るらしい少女に会えるだろうか、と考えた。

 でも実はそれを言い訳にして、ここに来れば桐野に会えるような気がしていたのだ。結局、何も言わずに逃げてきてしまった。まるであてつけのように千紗が小石川の桂木邸に走ったことを知った桐野は一体何を思ったのだろうか。

(そのくせ、会えるかもってこんなところまで来て……)

 巻き込まないでくれ、と言われた。史郎に、桐野に会っているのを知られれば身の保証はないだろう。

「……わかっているのに」

 どうしても抑えられない。千紗がこの時代の人間に心を裂こうとも、決して実る想いはないというのはわかっているのに、何もかもを歪ませ、相手にも迷惑がかかるのだとわかっているのに、足はここを向いた。

 この気持ちが明確な形を持つ前に、伊沙子の相手を見つけなければいけない。

 静かに決心すると、千紗は静かに目を閉じた。

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