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史郎が小石川の桂木邸に戻ったのは、陽も暮れた夕刻。すでに時刻は夜七時を回っていた。
いつもなら車が着くなり飛び出してくる久美子の姿はなく、どことなく使用人や女中も忙しない。史郎はその空気を訝しみながら上着を近くにいた使用人に渡す。肌に感じる違和感は屋敷に足を踏み入れるなり増すばかりだ。
「史郎様」
顔色を蒼白にしたかつが首を垂れている。玄関ホールには人気がないにも関わらず、様子を窺うような気配がひしめいている。何かがあったのだ、と史郎もすぐに察した。
「どうした。私に何か報告か」
「……伊沙子様がお部屋から逃げ出したようでございます」
「目を離したのか」
「……いえ、扉からは出ずにその―――」
かつは言葉を濁す。史郎は眉を顰めた。遠回しな表現は性に合わない。伊沙子が逃げるのであれば、誰か手引きをしたに違いない、そう考えていた。あれがひとりで逃げ出すとは到底有り得ないと考えていたのだ。
「窓から出たようでございます」
「……窓」
まさか、そんな有り得ないと思う。いくら妾腹とはいえ伊沙子は淑女たれと幼いころから教育を受けた娘だ。一体、どんな状態で窓から家を脱走するなどと考えるだろうか。史郎は嘆息した。
「間違いだろう。あの窓から、どうやって逃げ出す? 誰か内通者がいるのではないか」
じろり、史郎の蛇の目がホールから奥に続く廊下を睥睨した。角向こうには何人もの女中がこちらを窺っているはずなのに、物音ひとつ立てない。誰もが自分を疑われるのを恐れているのだろう。
「あの女はそれこそコソ泥のような風体でここから出ていったのです、お兄様」
「久美子」
もの応えようとしないかつを庇うように久美子が階段を下りてきた。
紗の着物は朝見たものとは変わっている。史郎はその妹の顔に渋いものを見て、まずは二階の伊沙子の部屋へ向かおうとした足を止めた。
史郎がここ最近、和館にもある玄関を使わずに洋館の玄関へ戻ってくるのは、伊沙子の存在を確かめるゆえだ。和館を居住区とし洋館に来る理由もない筈の久美子が、ここずっと史郎が戻る時刻を狙ってこちらにやってくるのはただ単に兄恋しさゆえばかりではないということを、薄々史郎も感じてはいた。
歩み寄ってくる久美子に場所を譲り、かつが口を開く。
「サンルームで、伊沙子お嬢様が久美子お嬢様に食器を投げつけたのでございます。危うく難を逃れましたが、間違えれば大怪我をするところでございました」
史郎はかつに疑いの眼を向けた。久美子が投げつけたのであれば、史郎も納得はしただろう。ただあの伊沙子が感情のままに憤懣をぶつけるのは想像ができなかった。いや、
「あるいは今であれば有り得ることか」
新橋で姿を消し記憶を失った伊沙子は、まるで全く別の人間のように史郎には見えていた。押し殺そうとする努力は見えるものの、感情が豊かでどこかしら行動が突拍子もない。命令したことに反発せず流されるままに従っていた前の伊沙子とは違い、今の伊沙子はいつどこででも隙を伺っているのだ。
――――出ていこうと考えれば、いつでも出ていけた。
幼いころからの刷り込みが失われれば、伊沙子はいつでもこの家から解き放たれ飛び立ってしまう。家族、血、家そんなものを乱暴に必要なのだと教え込み、繋げた鎖はこうまであっさりと切れてしまうのだ。
「あまりの無礼に耐えかねずお兄様に一言も告げずに伊沙子さんは逃げ出したのです。しかも許可がもらえないからと窓からですって、お兄様、もうあの女はいいではありませんか」
考え込む史郎の軍服の裾を、久美子はついと引いた。
「久美子がお兄様のためになら何でもします。嫁げと言われるのなら喜んでしましょう。お兄様、もう目をお覚ましになって。あの女は桂木には相応しくありません、お母様だっていつも言っているではないですか」
見下ろした久美子はまるで伊沙子のような風体をしている。史郎とて、久美子が可愛く思わないわけでもない。浮かぶ感情は、伊沙子に対するそれとはまったく質の違うものだ。母親が違うだけでこうまで姿形が違うものなのか、史郎はぼんやりと考えた。
妾腹の娘、ただの道具でしかない。男爵である父から同じように刷り込まれた史郎もまた、この鎖に縛り付けられる前こそただ歳の離れた妹としか見えていなかった。それがいつしか、無邪気に駆け寄ってくる幼い妹が少しずつ成長し史郎の前に現れるたびに焦燥と不安を感じていたのだ。
伊沙子は花弁が開くように少しずつ大人になっていく。誰か、自分ではない男のものになるために少しずつ花開いていく、香しい匂いを辺りにふりまきながら女になっていく。
ならば、―――寄ってくる蝶は総て焼き尽くしてしまえばいい。史郎は口を開いた。思っていたよりもずっと低く、物騒な声だと自分でも思った。
「……探せ、誰かと共にいるのなら消せ。失踪の件は口封じしろ」
「お兄様!」
縋り付く久美子を振り払い、史郎は二階の伊沙子の部屋に向かわずそのまま和館へと足を向ける。どこから出てきたのか、使用人が史郎の指示を聞き深く頭を下げた。
ぼおん、ぼおんと伊沙子のいない洋館に夜八時を知らせる大時計の鐘が響く。容体の芳しくない父親である男爵のことを考えるとより一層気持ちが沈み込むのを深呼吸で押し流し、史郎は和館へ続く扉を開けた。




