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明治逢戀帖  作者:
第四章 某名家令嬢
28/61

「それ……正気で言ってるの?」

 絶対いつものパターンだと思って覚悟して行った先に史郎はいなく、千紗は結局肩すかしを食らった。

 ドアを開けるなり久美子が言い出した言葉の真意が読み取れずに、千紗はサンルームの入り口で立ち止まったまま思わず聞き返す。お嬢様言葉なんて正直、そんなことを考える余裕はなかった。それほどに久美子の口から出てくると考えるには意外な台詞だ。

 ――――――手伝う、だなんて。

「まあ、伊沙子さんったら。鳩が豆鉄砲なお顔をなさって」

 久美子の言葉の真意を探ろうとした千紗は、よほど疑り深い顔をしていたのだろう。

 立ち竦む千紗を見て、新駒色の夏着物の上に短い羽織を重ね藤製の椅子に腰かけた久美子が、ころころと笑う。

 そんな彼女だけ見ていると、千紗の目には無邪気な少女にしか見えなかった。けれど、見た目に騙されちゃだめだということを千紗は身を以て思い知らされている。甘い蜜には棘がある、まさに体現した人間が久美子なのだ。

(壁に耳あり、障子に目あり……とか)

 千紗は慎重にサンルームへ足を踏み入れた。

 千紗の居住区である洋館の一階、さらに奥。久美子の居住区である和館にほど近い側に桂木邸のサンルームはある。床は三色の美しいタイルが敷き詰められて、斜めにデザインされたモザイクが実際に結構な広さのサンルームを空間的にもより一層広く見せている。

 高い天井ぎりぎりまで窓のある壁面が三面。真ん中には籐細工の椅子とテーブルクロスのかかった少し低めのテーブルがあった。その上に並べられたこれこそ似合わないことこの上ない饅頭や羊羹がおかしい。揃いのティーセットは薄いブルーの筆書きで薔薇の絵が描かれていた。

 この洋風全開なサンルームの中で、久美子は和洋折衷なティータイム中だ。

 ――――――もちろん、たったひとりで。

「……それを実行して、私に理があるとはどうも思えないんですけど。久美子さん、本気で言っ……おっしゃられているの?」

「私は本気です。伊沙子さんこそ、私の気持ちを深読みしていますのね?」

「そりゃ……まぁ」

 千紗は言葉を濁して、俯いた。

(これまでこのひとがやってきたことを考えれば、……ねえ?)

 ここに来て十日、こんな短期間でも久美子の気性はよく理解できたつもりでいる。プライドが高くて、女王様気質。逆らうものには容赦しないのは兄妹に共通していた。

 今の話だって、話だけただ聞いていれば悪くはないように思えてしまう。

 ただそんな久美子の提案を簡単に頷くほど千紗も従順、もしくは単純にはできていなかった。裏がある、それを罠と知りつつ乗るか乗らないかは自分の戻り分が多いか否かにかかっているのだ。

 だから、つい慎重になってしまう。

「突然の申し出ですし……困惑しないほうがおかしいと思います」

「まあ、まあ。伊沙子さんったら、記憶を失われてから随分と疑り深いのですね」

「……まぁ。私も一応、色々と勉強しましたから」

「まあ、うふふ」

 ぞわりと千紗の背筋に何かが走った。隠しているつもりかもしれないけれど逆らった雰囲気に気づいたのか。苛立った空気は僅かににじみ出ている。

 微笑みの仮面をかぶったままの少女からぎりと奥歯を噛み締める音が聞こえたような気がして、千紗は思わず引きつった口元を紗の小袖で隠した。

 久美子のペースで話を進めたくない。そう思って軽く反抗してみたものの、やっぱり生来のお嬢様気質には気後れしてしまう。どんな状況でも品よく美しくあれ、卑しく言い返すのは美徳に反することらしい。千紗にはよくわからない。

(なんて言ったって私は現代っ子だからね)

 臨機応変、為せば成るさの気質が思わずむくむくと頭をもたげてしまう。

 過去、伊沙子は久美子にどんな感情を持っていたのか千紗にはわからない。それでも妾腹の身に気後れしていたのは事実だろうと思う。この家には伊沙子の居場所というものが決定的に無さ過ぎるのだ。

 居場所を探すために伊沙子は多分必死に逆らわないようにしていたに違いない。波風立てず、ただ言われるがままに任せ頷くだけでいた。そんな伊沙子に、久美子は日常的に「命令」していたのだろう。

 そして久美子に従うことを伊沙子は何とも思っていなかった―――のだろうか。

(……違うよね。小さいころから伊沙子さんは我慢するのが普通だったんだ。つらくても、飲み込むことしかできなかったんだよね)

 一番端にある椅子の前に用意されたティーセット。今日はいつぞやの友人たちは呼んでいないらしい。千紗の無作法さを嘲る場は別に設けるということなんだろうか。考えるだけで気が滅入る。

 久美子の手が空いた席をさした。

「まずは、どうぞおかけになって。伊沙子さんったら来るなり威嚇なさって、まるで獣のようよ」

 いうなればその怯えている獣は手負いで、今現在暴発寸前の猟銃を突きつけられているのだろう。

「毒を食らわば皿まで……」

 ここで敵前逃亡するわけにはいかない。千紗は小さく自分に言い聞かすと会釈をしてティーセットよりもひとつ、久美子よりも離れた椅子の背を引いた。

 通常よりも少し低く座面が極端に広い椅子は、恐らく正座にも対応できるように作られているらしい。もちろん、そんなこと千紗には想定「外」だ。

「……っ!!!」

 視界が空転して、いつもの椅子のつもりで腰かけた千紗はのけぞるようにして椅子にひっくりかえった。

 みっともなく広がった裳裾を両手で慌てて閉め、千紗は浅く座りなおす。生粋のお嬢様の前でしでかした失態に恥ずかしさで顔が熱い。

 そんな千紗の挙動を嘲るように見ていた久美子が一言。

「その椅子、少し低いのです。お気を付けになって」

「…………どうも、失礼シマシタ」

 そういうことは早めに言え、と唇寸前まで文句が込み上げて来るのはごまかせない。

(本当に性格悪いんだから)

 千紗は小さく咳払いをして気持ちを落ち着かせると、口を開いた。

 この時間は貴重な情報収集の時間、と思えばいい。自分に言い聞かせてしまえばこの状況も何とか乗り切れる、多分だけど。そう信じたい。

「ここから出る手伝いをする、とは……どういうこと?」

「どういうって、そのままのことです」

(わからないから聞いているのに)

 これ以上突っ込んでいいものか悩み眉をぴくりと動かすと、千紗は動きを止め耳を澄ませた。

 史郎は朝早くすでに屋敷を出ている。人払いをしたのかサンルームにはかつの姿や他の女中、使用人の姿も見当たらなかった。

 太陽の光が燦燦と入る眩しいサンルームには、今千紗と久美子の気配しかない。もしくは、よほど気配を殺すことができる人間くらいだけれど、そうなるともう千紗には忍者くらいしか思い浮かばず。しかしさすがにこの時代、忍者はいないだろうとは思う。

 サンルームは区切られた空間だ。激しい物音か叫び声でもしない限り女中がここに駆けつけてくることはない。

 ――――――史郎お兄様には内緒のお話をしましょう?

 サンルームの入り口に立つなり久美子に言われ、最初千紗は上手く反応ができなかった。先日の千紗とみねの話を聞かれたのだと一瞬思ってしまったからだ。

 正確には手伝いたいのだと言った。言うことを聞いてくれたら、史郎の目を盗み千紗をこの家から定期的に出してくれると久美子は言ったのだ。慎重にもなってしまう。

「……私がここから出たいと思っている、とでも言うんですか?」

「まあ、じゃあ伊沙子さんは五か月後までお外に出なくてもよろしいんですの? 貴重な十七歳をこの籠の中で過ごすのに異論はないのかしら」

「……それは」

 千紗は思わず返事を濁した。

 いつ戻るとも知れないこの時間をただ屋敷の中で過ごすわけにはいかないだろう。千紗だって思ってはいる。ここにいるだけでは何も変わらない。伊沙子の謎は解けないままだ。

「その前に伊沙子さんのお誕生日会はささやかですが桂木のお屋敷で主催するにしても、仕立て屋も宝石店も総てこちらのお屋敷で用足りてしまうでしょう? このままでは、誕生日まで伊沙子さんは籠の鳥ですわね」

 千紗は俯き、考え込んでいた顔をふいに上げた。

「私の……誕生日?」

 訝しむ千紗の顔に、久美子は心底呆れた笑みを返してくる。口元は羽織で覆っている。笑った、と思ったのは声の質から感じた千紗の勘だ。

「まあ、伊沙子さんのお病気は余程なのですわね。ご自分のお誕生日も覚えていないとでもいうの? 十七歳で世を儚むと産まれた時、占い師に言われたそうですから、覚えていたくはないと思われるのも仕方ないのかしら」

 伊沙子の誕生日は結婚式のちょうど一か月前。あと四か月後だ。

「私と一緒……?」

 何の偶然なのか。奇しくも千紗と全く同じ誕生日のその日に伊沙子もまた十八歳になるのだという。

 十七で世を儚む、という云々は新橋で伊沙子に会った桐野の話にも出てきた。産まれた時にその子の将来を占うという話は現代にはついぞ聞く話ではないけれど、それが現実になろうとただの世迷いごとに過ぎないにしても、そう言い聞かされた身にはただの冗談と聞き流すことは難しいだろう。

(実際に、伊沙子さんは十七で死のうとしたわけだしね。……でも本当は)

 占いが当たっていて、伊沙子に十八歳以降の未来がないのだとしたら――――――?

 嫌なことを思い当たって、千紗は身を震わせた。今、ここで千紗が奔走しているのはただのあがきで、実際伊沙子はこの時代に生きていないのだとしたら自分は何のためにここに呼ばれたのか。そして、

「……このまま問題が解けなかったら「未来の私」はどうなるの?」

「……先ほどからおひとりで何を呟いていらっしゃっるの?」

 黙りこくる千紗に放っておかれた久美子が、辛抱できなくなったらしく口を開いた。考え方が極端なのだろう、結論を急ぐ性格もまさに史郎と似ている。

「私、伊沙子さんの返事をお聞きしたいのよ。私が、伊沙子さんの味方になってあげるわ。だから史郎お兄様をすぐ私に返して頂戴」

 返せるものなら熨斗をつけて今すぐにお返ししたい。椅子の背に深く背中を預けて、千紗は久美子の顔を見返した。

 久美子は今日もまた千紗と似たような恰好をしている。髪をおろし、後ろにリボンを結ぶ。紗の着物はよく見ると色違いで模様も鏡写しのように似たような場所に扇や花が色づいている。ここまで同じ身なりをしているのに、伊沙子と久美子の空気は全く違うのだ。儚げな野の花と大輪の椿が同じ色をしていても、まったく似ても似つかない。そんなところだろう。

 千紗は苛立った声を抑えるためにそっぽを向いて答えた。

「……久美子さんが味方になったからって、あの人がわたしから離れるという確信はないじゃない」

「お外に出して差し上げるわ。お兄様の目を縫って、伊沙子さんはお外のおうちに行けばいいのよ。伊沙子さんが離れてくれさえしたらいいの」

「だからどうしてそこまで―――」

「あなたがこの家に来てから、お兄様は伊沙子さんばっかり」

 久美子は紗の袖をひらり、動かして腰を上げた。

「それまでずっと久美子の傍に史郎お兄様はいてくれたのに、養子先から戻ってきてから伊沙子さんはこれ見よがしにお兄様にべったりとくっついて――――――…………あなたなんか……いなくなってしまえばいいのに」

 千紗は息を飲んだ。

 これまでとは違う、明確な殺意を感じた。

 こちらを見る久美子の目が千紗の奥底に残るはずの伊沙子を睨んでいる。千紗はその憎悪を真っ向から受けて口を開こうとしても唇すら動かすことすらできなかった。

「新橋で、死ねばいいって私、言ったじゃないの。伊沙子さんは私の言うことをなんでも聞くって約束したでしょう? それなのに……どうして、記憶を失ってまで戻ってくるのよ。そこまでお兄様と離れたくないのではないの?」

(そうだ。この人は伊沙子さんに)

 千紗は唇を噛み締める。桐野にあの日、新橋で起きたことを説明されたことを思い出していた。体に寒気が走った。

 あの日、あの時間千紗と伊沙子の時間はリンクして、身を投げた伊沙子の代わりに千紗が彼女の体へ飛び込んだ。そんな奇跡のようなことがなければ曾祖母の未来は立ち消え、ゆくゆく産まれるはずの千紗の未来はなかったかもしれない。

 久美子は言ってはいけないことを伊沙子に「命令」したのだ。絶対に逆らえないと知って伊沙子を追い込むようなことを言って、未来の千紗をも殺そうとした。

「……どうしてそんなことを―――」

「だってお兄様に任せていたら、いつまでも伊沙子さんは離れていかないじゃない。お嫁に行っても、きっと史郎お兄様はすぐに「連れ戻して」仕舞うのよ」

(……連れ戻す?)

 嫁に行った伊沙子を連れ戻す方法で一番手っ取り早いのは何だろうか、千紗は考え込んだ。膨大な婚約金を手に入れてかつ、伊沙子をすぐに連れ戻す方法で千紗に思いつくのはたったひとつしかない。

 サンルームの気温がすうと下がった。

「……まさか殺―――」

「お兄様からは絶対に伊沙子さんを離さないの。じゃあ、伊沙子さんから離れてもらうしかないじゃあない」

 久美子は両手を目の前で打ち付ける。

 ぱちんと軽い音が二度、小さく拍手のあと綺麗に紅の引かれた唇を開いた。

「消えてしまえばいいのよ」

 無邪気に言うからこそ、本気だとわかる。怖気の走る言葉だと思った。

「あなたなんて、死んでしまえばいいのよ。そうしたらお兄様も罪を犯すことなく、目が覚めてくださるわ」

 ここまで明確な敵意を向けられたことがあっただろうか。千紗は直視することができなくて思わず窓側に視線をそむけた。胸が早鐘を打っている。衝動的に久美子は思ったわけではなく、ずっと考えていたのだろう。

 伊沙子に――――――死んで欲しい、と。

 窓の向こう側に庭園が見えた。

 洋風のサンルームの向こう側には和館の庭園が半分、大きな庭石で区切りバラの庭が半分見える。両方の庭が楽しめるという趣向なのかもしれないけれど、正直完全に西洋風のサンルームに風光明媚な和の庭園は似合わない。

 隔てるのはガラス一枚しかないのに伊沙子にはこの庭に出ることも許可が下りなかった。逃げ場もない、受け入れてもらえる場所もない。何もかもから解放されるには「死」しかなかった。

「でも死ぬことも上手にできないなんて、伊沙子さんったらなんて役立たずなのかしら」

 強く拳を握りしめた。千紗の中に、ふつふつと怒りがこみあげてくる。

 桐野は、総てを捨て死を望んだ伊沙子に生を選んで欲しくて助けたのだろう。記憶を失った千紗にすぐ現実を叩きつけずに、悩み考えた末に桐野が導いたのは事実を千紗に告げず記憶を失ったままの新しい自分で生きることだ。

(そうまでして守ってくれる他人もいるのに)

 ふと、桐野が自分の曽祖父であれば、と千紗は考えた。

 彼ならば、伊沙子の弱い心を守っていってくれるような気がする。一度、史郎に立ち向かった時のように壁となって伊沙子を守って生きていってくれるのではないか。一度、巡り逢った運命はこんなところで結びつくのではないだろうか。

 ―――でも、考えると千紗の胸に小さな痛みが走った。それが無駄なものだと、一番千紗が思い知っている。この時代は千紗の生きる時代ではないのだ。

 千紗は震える唇を開いた。

「……それを私に言ったのね。「私」があなたの言葉に逆らえないって知っていて、それなのに」

 久美子を睨み付けた。

 目の前のティーセットからはすでに湯気も立っていない。美しいカップとソーサーは、恐らくこの一客だけでもかなりの値が張るに違いない。

「養子に出た家でも、桂木にでもどこでも構わないから必死に受け入れてほしくて、家族になって欲しくて我慢してたんじゃない。男爵だって、あんただってあの人だってみんな血がつながった家族じゃないの?」

 手のひらに爪が突き刺さるのがわかった。千紗の指ならいざ知らず、短く整った伊沙子の爪では手のひらの皮を突き破ることができず、ぎりぎりと拳は固くなっていくばかりだ。

(怒っちゃいけない)

 伊沙子のことを思うとここで千紗が堪忍袋の緒を切ってはいけない、そう必死に言い聞かせていた。それなのに、

「まさか、伊沙子さん。あなた、お父様に「家族」としてここに呼ばれたのだと思っているのかしら?」

 聞こえる激しい破壊音。―――――――――一瞬、千紗の目の前が怒りで見えなくなる。

 衝動的な行動だった。

 大きな破片が落ちる音のあとに、細かい破片がテーブルの下に落ちていく音がする。追う悲鳴が千紗の耳にうるさい。

 一口も口をつけず、残っていた紅茶がひびの入ったテーブルから床に滴り落ちた。がたがたと聞こえるのは、久美子が無意識に震えているのかもしれない。カップは元の模様がわからないほどに粉々になったのだろう、テーブル向こうに消えていた。

(もうそんなのどうでもいい)

 千紗はまだ無事だったソーサーを手にする。

「こっちは……あんたに投げてあげようか?」

 何も言わずに投げつけず、せめてもと確認を取っただけよかっただろう。ただ、相手はそう取らなかったようだ。殺すだの死ねだの言っておいて怯えている表情が妙におかしい。

「……い、伊沙子さん! あなた、正気なのっ?」

「さっきの言葉、そのまま返してあげますよ。久美子さんったら、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてますね。ちなみに……私は正気です」

 バタンと、激しい音を立ててサンルームの扉が開いた。

「久美子お嬢様っ! 何かありましたか!」

 かつが飛び込んでくる。

 カップが割れる音は存外響いたらしい。かつの後ろには数人の使用人と女中がいる。その中に、先日のみねの姿もあった。

 千紗はみねから目を逸らした。大人しくすると宣言した端からこれだ、少し顔を合わせ辛かった。

(でも……我慢できなかった)

「かつ! 酷いのよっ! 伊沙子さんが、急にカップを私に投げつけて!」

 わああ、と抱きついたかつの胸の中で久美子が泣き崩れる。人を殺しそうなほど鋭いかつの視線を浴びながら、千紗は唇を噛み締めた。

 どんな喧嘩でも先に泣いた方が被害者に見える。久美子はそれをよく理解しているのだ。割れていないソーサーを持った千紗は暴力に任せただけで加害者に見えるわけだし、そういう目で見られるのも仕方ないのはよく理解していた。

 千紗が立ち尽くす中、怪我をしないようにと速やかに掃除が始まる。

 どう見ても破片が久美子に当たらない場所でカップは割れているのに、久美子の近くに宥め寄り添う女中がいても、伊沙子である千紗のことを気遣う人間は誰もいなかった。

 視線の中でみねを探しても見当たらない。どんなことを言われたのか、投げるまでの経緯を聞く人間は誰もいない。史郎に言いつけるのだと泣き叫ぶ久美子の髪の毛を撫で、優しい言葉をかけるかつが千紗のことを責めている。

「あなたなんか、あなたなんかもうどこかに行ってしまえばいいのよっ!!」

 ヒステリックな声がサンルームに響く。

 千紗は本郷から持ってきた荷物の中身を思い出していた。足に纏わりつく紗の着物でなければ、あの高い籠の部屋から逃げ出せる気がした。

 ただ、今すぐにでもここから逃げてしまいたかった。どこでもいいから、今すぐに。 

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