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明治逢戀帖  作者:
第四章 某名家令嬢
27/61

 千紗がこの屋敷に来てから、すでに十日。

 あの日からというもの、千紗は史郎の姿を見ていない。みねを通して、金田と本郷に千紗の意思が伝わったのかも分からなかった。みねの姿もまた、見ていなかったからだ。

 もしみねの言う通り話ができる日が来るとするならおそらく四日後だろう。できるだけ短時間で情報を仕入れることができるよう、千紗も頭を整理しなくてはいけないとは思う。

 どうするべきか考えて、千紗はただこの数日間を従順に過ごした。部屋に閉じこもりただ必要な時にしか外には出ない。言われるがままにカタログを見て、人形と遊び子供のようにふるまう。かつが、千紗を見て放っておいても大丈夫なのだと一瞬でも油断してもらえるように、とそう考えた。

 部屋の中でもしようと思えばできることはあるのかもしれない。

 有り余った時間を有効活用して、伊沙子の部屋をクローゼットの中からベッドの下までなにかないかと探せるところは総て探した。正直、着物姿で床を這うのは、お嬢様としてイメージ的でどうかと思うけれど伊沙子の過去を探るためだ。正直、どうでもいい。

 それでも結局、あまりめぼしいものは見つからなかったのだ。ドレッサーの引き出しにひとつ、鍵のかかった場所を見つけただけだ。ただどれだけ探しても、その鍵は見当たらなかった。

 ゆえに、空いた時間は考える時間にした。

 たったひとりの作戦会議。しかし、いつも作戦は行き詰まる。

「……曾孫にあとを託すなら、ちょっとくらいはヒントを残そうよ。伊沙子さん」

 千紗はベッドにどさりと重い腰を下ろしてため息をついた。

 壁にかかった時計は昼を過ぎ、すでに三時を指している。

 静かに過ごした数日間が利いたのか。今日はかつもあまり部屋を訪れることなく、もちろん久美子や史郎も部屋を訪れることはないので至って平和な一日だ。とはいえ、どこに史郎の目があるのかはわからない、部屋にいるとき以外はまだ落ち着かない。

 窓の外には愛らしい小鳥が歌っている。今日は雲もなく天も高い秋晴れだ。それでも窓を開ける気にはなれなかった。外に焦がれても、出ることは叶わない。

(本当に鳥になったみたい)

 千紗は籠である自分の部屋を見回した。

 十日も過ごした部屋だというのに、まったく愛着が湧かないのも不思議だ。修学旅行で泊まったホテルの方がまだ、もっとここにいたいと思わせる。

 千紗は手にした紙切れを広げた。引き出しにしまわれていた成績表はおそらく先日中退した女学校のものだろう。名前は桂木 伊沙子。これは、伊沙子の成績表だ。

「……丙、乙、乙、乙、丁……って、さっぱりわからないや」

 わからないけれど、なんとなくいい成績ではないことだけはわかる。

 ベッドに寝転んだ。頬を撫でる布の感触に、千紗はこの格好が随分とだらしないと知りつつも気にせず目を閉じた。布団は、現代のものよりも少し硬くスプリングが利いていない。でももう気づくと慣れてしまった。

「伊沙子さん、あんまり成績良くなかったんだ。私と一緒だね」

 ひとりで過ごすことが多すぎて、最近独り言をいうのが当たり前になってしまった。

 探れば探るほどに、伊沙子の姿は明確になっていく。まるで心の中の友人になってしまった伊沙子の姿として頭の中に描くのは不思議なことに現代の千紗の姿だ。

 伊沙子の姿をした千紗が、千紗の姿をした伊沙子に話しかける。この屋敷で虐げられていた伊沙子は、少し口数は少ないけれど、芯は強い女性だ。成績はあまり芳しくはなくても、健気に頑張っている。現代の千紗はそんな人間ではなかったはずなのに、伊沙子は現代の千紗の姿の方が頭の中ではしっくりくるのだ。

 少し鏡を見過ぎたのだろう、千紗はそう思っている。

「私もね、この時代に慣れてきたのかな。もう麻痺しちゃってわからないんだよね」

 最近目を瞑って懐かしく思うのは現代の街並みではなく、あの本郷の街並みだった。

 毎日日課にしている現代を思い出す習慣も、日々内容が虚ろになっていく。高層ビルの街並みは水墨画の山々に代わり、流行っていたポップスもいつしか頭の中から消え去るのかもしれない。

「時間がないってわかっているのに、どうしたらいいのかわからないってのももどかしいよね」

 千紗は膝を抱いてごろり、ベッドに横たわった。

「いつまでこうしていたらいいんだろ。どれくらいしたら、私は全部忘れちゃうのかな」

 いつしか総てを忘れて、この時代に馴染んで死んでいくのだろうか。千紗はふと考えて、身を震わせた。

 先日の百貨店のカタログから勝手に購入されていた真珠のピンとルビーのネックレスは、無造作にドレッサーの前に置かれている。

 片付けようとしても仕舞っている箱は満杯で、変なところに片付けて文句を言われるのにも飽きたのでかつが仕舞うまで放っておくことにした。どこにも出かけないのに、千紗がこの屋敷に来てから二度同じ着物を着せられたことはない。置いてあるネックレスもピンも高級品だ。

 物は多すぎるほどに与えられている。でも伊沙子には無条件の愛情だけがないのだ。

 いつか伊沙子に馴染んでしまったとしても、こんな場所では生きていける気がしない。

「ねじ曲がって歪んだ愛情なら嫌なほどあるみたいだけどね……」

 そんな伊沙子の欲しいものは一体何だったのだろう。千紗は目を瞑り、考える。

 産みの親から引き離され、養子に出された。養子に出された家から連れ戻され小石川の屋敷に入り、次に伊沙子は嫁に出されようとしている。まるでたらい回しだ。

「全部、勝手に決められて嫌じゃなかったのかな」

 史郎に指示されるままに部屋に閉じ込められた千紗は、たった十日も持たず根を上げた。勝手気ままに動く現代っ子には到底無理な話だ。

「それとも……そんなこと考えられないくらいに絶望していたの?」

 毎日、毎日、少しずつ腐っていたのなら、自分が枯れていくことにも気づかないものだろうか。

 千紗は目を開けてドレッサーを見た。別珍の布の上に、美しい真珠が見える。ただ大きくごろりと月のような真珠から出た金色のピンは、珍しく何の細工もなくシンプルなものだ。ごてごてと飾り立てるものの中で、唯一それだけが異彩を放っている。

 ふと、なにかが過った。

「………真、珠……?」

 ――――――なぜなのか、見たことがあるような気がする。

 霞む千紗の記憶の向こうで誰かに握られたピンだけが浮き上がる。とても大切なことだった気がしていたのに、どうしても思い出せない。

「何なの? よくわからない」

 丸い月だけが浮かび上がった。小さく叫ぶ声が聞こえたような気がして、千紗は耳を両手でふさぐ。それでも聞こえた声は小さくならなかった。外から聞こえるのではなくて、それは記憶の中から発せられたものだからだ。

 次第に落ち着いてくると、指の隙間から耳に滑り込むのは小鳥の鳴き声に変わっていった。

 それに、

「伊沙子お嬢様、久美子お嬢様がサンルームでお待ちです」

 二度のノックのあと、かつの声が千紗を呼んだ。

 返事をしないままでベッドに俯せた千紗の存在を訝しんだのだろう。先ほどよりわずかに乱暴なノックが聞こえ「お休みになっているのですか? こんなお天道様が高いというのに」とかつは継いだ。

 その金切り声で千紗の脳裏に浮かんだ記憶の月は霧消していった。

 ノックは、まだ続いている。

「……起きてます」

 千紗はベッドの上に身を起こし、声を上げた。あまり大きな声ではなくても十分に聞こえたらしく、連打されていたノックがぴたりと止んだ。

 妾腹とはいえ、一応は桂木の令嬢である伊沙子の部屋のドアを、ここまで遠慮なく叩く女中も他にはいないだろう。虎の威を借る狐とでもいうべきか、久美子が容認したのかかつは伊沙子に随分と強く出る。

「お兄様に承諾を得てませんが、いいのかしら」

「久美子様がお話を通したそうです」

「……そう」

 そうであれば、断る理由もない。

 ドアを開けないところを見れば用意をしたら勝手に出てこい、と言うことだろうか。あの用意周到な史郎がそんな勝手を千紗に許すとは思えない。

(きっとまた久美子さんの罠みたいなものなんだろうな)

 ここで部屋を出たら、また狙ったかのように史郎がやってきて千紗を閉じ込めるのかもしれない。久美子は伊沙子の悪いところを史郎に見せつけたくて必死なのだ。何度もそうやって史郎に千紗が歯向かえば、いつかこの屋敷から追い出されるとでも思っているのだろうか。

 そこまでうまくいけば万々歳だけれど、そうは問屋が卸さないだろう。

「……きっと逆効果、だと思うんだけどな」

「早くなさいませ、伊沙子お嬢様。久美子お嬢様がお待ちです」

 急かす声に、千紗は今度こそ重い腰を上げた。

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