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皿の上に美しく飾られた前菜を、千紗は苛立ちまぎれに箸で何が入っているのかわからないほど滅茶苦茶に掻き混ぜた。
食堂とはいえ、決してひとりにはされない。かつが席を外している時には違う女中が千紗の動向を見張っている。
小石川の本館である和館では、今頃家族水入らずの食事なのだろう。体調の問題なのか、もともとが面倒な人なのか。いろいろと面倒な男爵の世話にかつは連れ出され、千紗の後ろには見たこともない女中がいる。
「………」
苛立ちまぎれに掻き混ぜたものでも残すわけにもいかない。千紗は混ぜてしまったことを少し後悔しながら、箸に纏わりついたそれを口に入れた。
どうにもフォークとナイフの生活に慣れず、最近は無理言って箸を出してもらうようにしている。もちろん千紗だって無傷ではない。良家の子女が西洋式の食事に慣れていないのは恥ずかしい、とか盛大なかつの厭味付きだった。
白いテーブルクロス、愛らしい細工の燭台には小さな炎が揺れている。千紗がたったひとりだけとはいえ一応は小石川の娘という体面は保たれているらしく、食事が極端に質素ということはなかった。
ただ、
(誰もいない中でひとりの食事っていうのも、なかなかに味気ないんだよね)
テーブルは十人以上はゆうに腰かけることのできそうな大きさだ。その端、ほんの一部しか使わずに千紗は今日もたったひとりで食事を摂る。江戸時代ではないのだから毒見などはいないらしく、スープはほどほどの温かさを保ち肉も湯気が出るほどではないまでもほどほどの温かさだった。
主食はパンだ。柔らかなパンは千紗も現代でお気に入りの店を探すくらいには好きだったけれど、こう毎日ではさすがに飽きる。
「そういや、あの店のパン……食べたいな。店の名前……ってなんだっけ?」
ぼそり、呟いた声が聞こえているはずなのにただひたすらに無言を貫き、女中は千紗の皿が空になるのを待っている。千紗は聞こえよがしにため息をついた。
愛らしい店の名前が思い出せない。店先のどうでもいいことは覚えているのに、肝心のパンの名前も店長の顔も店の名前も、今の千紗にはどうでもいいものだと判断したらしく、薄ぼんやりと記憶の奥底にしまわれてしまった。
珍しく今日はカーテンが開きっぱなしだった。完全に漆黒に染め切らない群青の空が窓向こうに見える。庭木に遮られ、和館の灯りは見えないまでも向こう側にはたくさんの使用人が駆り出されているのだろう。今日は特に洋館の使用人が少なかった。
―――――――今がチャンスなのかもしれない。
くだらない悪戯を思いつくときのようにふとそう思った。
何もかも捨てて、伊沙子のことなんか考えもしないでいつか現代に戻るその時まで先生の家に匿ってもらえばいい。考えると、その思い付きは甘い毒になり千紗の心を侵食してくる。
(……だって、私には伊沙子さんの恋なんて関係ないし。全部投げ出したのは伊沙子さんなんだから、こんな状態になっても仕方ないよ)
皿の残りを無理やり口に放り込み、千紗は白いナフキンで口元を拭いた。
気づかれないように背後の女中をちらり視線だけで覗き、ゆっくりと椅子を押し出す。料理はまだ前菜で、次々と運ばれてくる料理が待っている。いつもならそんな千紗の行動すら咎めずに無言を貫き通す女中が、珍しく口を開いた。
「もう、召し上がらないのですか」
「……お腹がいっぱいだから、いらないです」
作ってくれた人には僅かな罪悪感を感じながら、千紗は俯きがちに答える。
女中は椅子を引かず、千紗は席から立ち上がることができないままだ。自宅にいるときなら、勝手気ままに食卓テーブルの椅子を動かして立ち上がることができたのに、今の千紗にはそれすら勝手にすることが難しい。
女中は僅かに考え込んでいるようだった。
耳を澄ました廊下には誰もいないようだ。女中はまだ残りがあるはずの料理を止めに行くことも他の使用人を呼ぼうともしない。
「……もう少し、お食事をしませんか。伊沙子お嬢様」
「いりません。だって食欲もないんです」
それに機会を失ったら、もうこんなことないのかもしれない。千紗は動こうとしない女中に少し苛々しながら言い返した。
「別に私が食事をしようとしまいと、あなたには関係ないでしょ? あの人に言いつけるなら、勝手にして下さい。私は部屋に戻ります。誰も入ってこないでください」
「……伊沙子様、今日は逃げるのに向いていない日です」
「……え?」
千紗は目を見開いた。
女中はそんな千紗の椅子をテーブル側に戻し、置いたナフキンを膝の上に広げてくれる。
「お話を合わせてくださいませ。今日の窓には窓帷が引いておりません。外で史郎様のお付きが伊沙子様を見張っております」
千紗は息を飲んだ。
(そんなことまで……?)
一瞬、信じていいものか悩んだ。だとしても罠だとしても飛び込まなければ、これ以上の情報を得ることは難しいだろう。千紗は覚悟を決める。
「……肉は食べたくない。魚なら食べます。あと……デザートは果物がいい」
「畏まりました。水菓子ですね、今スープを呼びましょう」
「……お願い。もう、ここにはいたくない」
千紗の声には答えず、女中は背後のテーブルに置かれたベルを鳴らした。
物音の少ない食堂に響き渡った澄んだ音が、料理を用意する小部屋を挟んだ厨房に届いたのだろう。ほどなくして美しい皿に注がれた琥珀色のスープが運ばれてきた。
廊下の外でそれを請け負った女中は、俯く千紗の前にスープを置く。珍しく湯気を立てていた。
「私は「みね」と申します。記憶を失われる前の伊沙子様の女中だった「とよ」と仲良くしておりました。彼女は今、外の食堂で働いております」
千紗はスープを口に運びながら、窓外に口が動いているのを悟られないように答える。女中もまた、さりげなく千紗の食器を直しながら声をかけてくる。
「……辞めさせられたのは私の所為、ですよね。ごめんなさい」
「いえ、伊沙子様が失踪された際、とよはお付きのものではありませんでした。責任を誰かに擦り付けなければならなかったのです。あの日、伊沙子様の傍にいたのは史郎様と久美子様。誰に会いに行かれたのは、私のような立場の者にはわかりませんが」
「……伊沙子さん……、私はいつもこの屋敷で虐げられる存在だったのかな」
「言葉を選ばないのであれば、そういう存在でございます。妾腹……失礼しました。お外の子供だと、本家の中に入れずただの道具扱いされておりました」
スープの湯気が目に触れて、千紗は涙ぐんだ。
「そう……、でもどうして? とよさんと仲良かったとはいえ、私に味方するといろいろ大変なんじゃ――」
「とよの働く食堂にいらっしゃられた金田様にお話を伺いました。とよを介して、伊沙子様と連絡を取りたいと」
「金田さん」
「一度お外に出るまで逃げるのは無理でございます、伊沙子様。最近の史郎様は恐ろしいほどまでに伊沙子様に拘っておいでです。史郎様の手が伸びる小石川の屋敷では、伊沙子様がおひとり逃げ出すことはかないません」
千紗はスプーンを置いた。水がなみなみと注がれたグラスを手に取る。グラスの表面にはたくさんの水滴がくっついていた。それを人差し指でこそげ落とす。
「……私が記憶を失うまで、誰かと外で会っていたという話をとよさんから聞いていない?」
「とよ、とお呼び下さいませ。私のこともみね、と。伊沙子様がこの屋敷に引き取られたのは十三の頃でございます。それから二年後の一年間、史郎様が洋行なされました。史郎様の戻られた十六から急に、伊沙子様の行動範囲は女学校と屋敷のみに狭まれたのです。恐らくそれは」
「……お兄様の命令」
「はい、恐らくは」
無くなった水を足しに、みねが千紗の横へ立った。千紗はグラスを持ったまま、ため息をつく。
「どなたかに出会うのならば一時期養子として出されていた十三まで、もしくは史郎様が洋行なさる前の十五までの二年間でございます」
「その二年間、……その私とお兄様はどんな様子だったんだろう」
「少なくとも、伊沙子様と史郎様は仲睦まじく思えました。久美子様はあのご気性ですから、もともと伊沙子様とはあまり合わなかったようではありましたが……伊沙子様は史郎様にいつも微笑んでおられました」
「……仲がいい? 想像もつかないけど」
「……お食事をなされませ、伊沙子様。外が訝しみます」
「わかった」
冷たくなってしまったスープを器用にスプーンで飲み干すと、みねがベルを鳴らした。
ほどなくして次の料理がやってくる。千紗はすぐに手を伸ばした。少し食欲が出てきた、と思わせなくてはいけない。むしろもう一品増やすような気持で千紗は口に放り込む。
「あと、私が連絡を取ろうとしていた人に心当たりはない? 女でも男でも、誰でもいいから」
「心当たり……ですか」
背を向け、燭台の灯りを調節しながらみねは考え込んだ。
漆黒に染まった窓はまるで鏡のようで、食事をする千紗と燭台の前に立つみねを映し出している。これもまた、使用人の口から史郎へ報告されるのだろう。しっかり食事を摂って大人しく部屋に戻りました、とでもいうつもりなのだろうか。千紗は内心で、毒づいた。
「そういえば、伊沙子様がよく恩人なのだと話される方がいると、とよが言っておりました。男性か女性かは、さすがに私にはわかりかねますがとよであればわかると思います」
「……そう。次はいつ、こんな感じで話せるかな?」
「すぐには無理でございます。一週間後、病院へ戻る前日であれば恐らくは」
千紗はみずみずしいイチゴを食べながら考え込む。
恐ろしいことにこの時代、イチゴはかなりの高級品だったらしい。食堂まで別にしておいて、それを惜しげもなく妾腹の伊沙子に出すという意味が分からない。
「わかった。変なことは考えないことにする、みねに約束するよ」
「それは宜しゅうございます。機会を窺いなされませ、伊沙子様。伊沙子様も外に出てしまえば、史郎様も簡単には行動を見張ることなど出来ません」
「……大人しくするけど、どうにもならなくなったらちょっとだけ助けてくれる?」
千紗は口元を拭いた。斜め上目づかいでみねを見ると、どうにも耐えられなくなったらしくみねがわずかに微笑んだ。しかしすぐにその笑みも消え去り、元の無表情な女中に戻ってしまう。
「私ができることであれば。前の伊沙子様にも、今の伊沙子様のように強いお心があれば……少し違っていたのでしょうね」
椅子をわずかに後ろに引くと、次はみねが手伝ってくれた。部屋を出て行こうとする千紗に深く頭を下げるみねは、部屋の前までかつの代わりについてくる。
「……扉の外はお話を慎み下さいませ。誰がいるとも知れません」
ドアに手をかけた指がたじろいだ。この話がもし、史郎の耳にでも入れば何をされるか考えるだけで背筋が寒くなる。
「……金田さんに伝えて。絶対に私の前に顔を出さないように、逃げる手伝いをしようとしないように。私が逃げるときは、たったひとりで逃げるのだと伝えてください。とよもお兄様に気をつけて、と。……あと、もう少しだけ伝言を頼める?」
「はい」
千紗は僅かに口籠った。
「本郷に、千紗は元気だと伝えてください。何も心配はいらない、と」
「承りました」
廊下に続くドアを開けると、二階の檻へ戻るために千紗は足を踏み出した。
(ごめん、伊沙子さん。もうあんな身勝手なこと考えないよ。私、頑張るから)
後ろには先ほどの会話が嘘のように静かなみねが静かについてくる。シャンデリアの向こう側で大時計がぼおんぼおんと鳴った。
階段の踊り場を飾るステンドグラスの向こう側に綺麗な月が見える。千紗は、拳を握りしめた。




